『裏天使 〜さんかくとしかく〜』

 違和感2 おじいさん


 

 

「…………」

 窓から朝陽が差し込んでいる。

 結局一睡もできなかった。

 PHSの時刻を見た。早朝五時。やることもない。

 眠くなってきた。けど、今頃寝たら遅刻だ。

 理香は昨日の瓶を陽の光に当ててみた。

 小さな瓶の中には薄い緑色の液体が、光を反射して綺麗にキラキラと輝いていた。

 この綺麗な液体を飲みたくなってきた。

「……」

 理香ははぁっと溜め息をついて頭を横に振った。こんな怪しい物をどうして飲みたいなどと思うのか。馬鹿な考えを頭から追い払った。

 段々と落ち着いてきた。

 昨日は誰かがこの家を自由に出入りしているのだと思ったが、そうとは限らない。昨日の仮説のように、芹沢がこっそり返してくれていたのかもしれない。

 それに、侵入者がいたと仮定して、いくら理香が寝ていたとはいっても、理香を起こす事なく、こんな瓶を衣服の中に入れる事などできるのか?

 絶対できない。

 入れられたとしたら、それは家に戻る途中、誰かに入れられたのだろう。それはそれで気味悪いが、芹沢ならやりかねない。

 もう一度、瓶の中身を見た。

 何故か飲みたくなって仕方が無かった。

 

 

 今日もいつものように、冷房の効いた電車の吊り革に捕まって、ごとごとと揺られていた。

 寝不足で身体が怠い。

 それでも学校にいって誰かと話がしたかったから、欠席せず、真面目に出席する事にした。

 …………。

 なんとなく気になって後ろを振り返ると、今にも抱きつこうとしていた芹沢がいた。

「おおぅっ? 気付かれてしまったね、理香ちゃん! よく分かったね! 鋭いね! それからおはよう、理香ちゃん! 今日も可愛いよ!」

「……ありがと」

 振り返ってよかった。

 そうだ、芹沢には聞かなければならない事があった。

「あのね、芹沢くん? 昨日の瓶はどうしたの?」

「ああ。あれかい! あれなら常に僕の懐に入れて持ち歩いているよ! ほら、ここに…………………おや?」

 懐に手を入れた芹沢が首を傾げた。

「どうしたの?」

「……どうやら紛失してしまったらしい」

 理香は懐から昨日の瓶を取り出して芹沢に見せた。

「……これ」

「おや? 君も隅におけないなぁ。僕の鞄からこっそり持っていったのかい? いくら僕の物が欲しくてもそういう事はしちゃダメだよ、マイハニー」

「…あーうー。突っ込むとこはいっぱいあるけど、とりあえず私が盗ったんじゃないよぉ……」

「どれどれ?」

「あ?」

 芹沢は理香からぱっと瓶を取り上げた。

「…………」

 今、一瞬芹沢と触れた指先がチクりと痛んだ。

「ん? どうしたんだい?」

「な、なんでもない……」

「そうかい?」

 芹沢が瓶を光に翳して調べだした。

「昨日のと同じものだねぇ」

「うん……」

「これはどうしたんだい?」

「昨日、昼寝したら、胸の中に入ってた……」

「ふむふむ? ああ、今日も理香ちゃんの胸に張り付いた物を触れて幸せだぁ」

「はぅ……」

 相談した相手が悪かったようだ。

 芹沢から瓶を返してもらった時、また手がチクりと痛んだ。

 なんだか、頭も痛かった。

 

 

「はぁ〜……」

 電車から降りて通学路を歩く途中も頭痛は止まらない。痛くて死にそうだ。寝不足のせいかもしれない。

 頭痛だけではなく、全身が熱っぽく、それに悪寒が止まらない。まるで風邪でもひいてしまったかのように身体が辛かった。

「どうしたんだい、理香ちゃん?」

「さっきから頭が痛いの……」

「大丈夫かい?」

「うぅ。わかんない……………………きゃっ?」

 芹沢がいきなり抱き付いてきた。

「ははははは。そうかいそうかい。僕が頭の痛みなんか吹き飛ばしてあげるよ!」

 芹沢は抱きつくだけでなく、頬まで摺り寄せてきた。

「…………!」

 理香は自分の体温が急激に下がるのを感じた。

 不快感。芹沢に触れられる事への嫌悪感。

 胃が激しく痙攣し始めた。口の中が酸っぱくなる。胃がドクドクと脈打ってるように、内容物が上がり、吐きそうになる。

 頭痛も悪寒もより非道くなってくる。

 芹沢に触られた箇所は、まるで風邪をひいた時のように肌がチクチクし、衣服が擦れるだけでも苦痛を感じた。

 すぐに我慢の限界がきた。

「いやあぁーーーーーーーーーーーーーー!」

「うわっ?」

 理香は叫び、芹沢を突き飛ばした。

 二,三歩後ずさり、芹沢は呆然としたように理香を見返していた。

「…理香ちゃん…?」

「あ、ご、ごめん、芹沢くん………。わ、私、なんで………」

「あ、いや……僕も少しは悪かった…………いきなり抱きついたりしてごめんよ……」

「…う、うん……」

 抱き付かれていた時程の嫌悪感はなくとも、理香の身体はまだ不快感で一杯だった。触れられていた腕や頬がチクチクと痛むし、寒気も悪寒も無くならない。胃のムカムカは吐き気に変わっていた。

「ごめんよ、理香ちゃん。大丈夫かい? 顔色悪いよ」

「…へーき……」

 全然、平気ではなかった。

 

 

 芹沢とは距離を取って学校まで歩く事になった。

「〜♪ おはよっ♪」

 いつもの曲がり角で、いつものように春奈と出会う。春奈は理香達を待ってくれているのだ。

「やあ、おはよう春奈。今日も朝から綺麗だよ」

「ありがと♪」

「…………」

 春奈の顔を見て吐き気が増した。

「どうしたの、理香?」

「……理香ちゃん?」

 二人が理香の身体を左右から支える。触れられている箇所が急激に冷たくなった。

「……さ………触ら…ないで…………!」

 また胃が激しく痙攣する。胸の中の不快感に、理香は今度こそ絶えられず、その場に蹲り本当に嘔吐してしまった。

「理香っ?」

「理香ちゃんっ!」

 春奈と芹沢の声が聞こえる。

 薄れゆく意識の中で理香が思った事は、この二人が心配して、自分の身体を摩るのを止めて欲しいことだった。

 

 

 ガタガタガタ……。

 いつもの音が聞こえ、理香は白い部屋で目が覚めた。

 今日の老人はとても機嫌が良さそうだった。

 

 なんだ、まだ薬を飲んでいないのか?

 仕方のないやつだ。

 思い出した時には飲んでおくんだぞ。

 まあいい、今日は新しく判明した事実をお前に伝えようと思っていたんだ。

 大発見だ。

 

 老人は嬉しそうに続けた。

 

 君は普段学校に通っているあの世界を現実だと思っているな?

 そして、私と会っているこの白い世界を夢だと思っているな?

 

 それは大きな間違いだ。

 二つの世界は互いに密接なのである。

 現に私が薬をあの芹沢という小僧から取り戻し、君の元に送り届けただろう?

 それこそが証明である。

 

 まあ、今日言いたかったのはその話ではない。

 時間がないので手短に話そう。

 

 君があっちの世界で友人だと思っていた芹沢、春奈。

 やつらは地球帝国の裏切り者なのだ。

 帝国民でありながら、地球帝国に反旗を翻している愚か者共なのだ。

 敵なのだ。

 あの者達が私と君が地球帝国を救おうとする行為を邪魔しているのだ。

 

 やつらを始末するんだ。

 あああアアアAAAAAAAAAAAAAAAA

 頭が痛い。

 早く始末するんだ

 いいね

 AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA

 

 

 理香が目を覚ましたのは学校の医務室のベッドの中だった。

「…………」

 周りには誰もいない。

 理香は寝転がったまま、自分の体調を伺った。

大丈夫だ。頭も痛くなければ、胸もすっきりしている。

 ポケットに入っているPHSで時刻を確認した。十二時半。昼食前の最後の講義が終わりかける時間だ。

 丁度、保険医が帰ってきたので、理香は挨拶だけ済ませ医務室を後にした。

 出口の扉には製薬会社のポスターが張ってあった。

 ABC製薬…………変な社名だ。パソコンのし過ぎで、目を悪くしないように気を付けましょうと書いてあった。気を付けよう。

 

 

 講義はそろそろ終わるだろう。芹沢も理香もその教室にいるはずだ。恐らく今日もそこで食事を取るだろう。

 今はあの二人に会いたくなかった。どうもあの二人の事を考えるだけで、体調が悪くなる。食欲も湧かない。夏ばてだ。二人には申し訳ないが、昼食はパスする事にした。

 徹夜明けでこんな無理してまで学校きたのはどうしてだったのだろう。友達に合いたかったからだ。友達の春奈と芹沢に会いたかったからだ。

 なのに今は会う気になれない。

「はぁ……」

 憂鬱だった。あの二人は今朝の件で気を悪くしてしまっただろうか。

 そういえば意識を失う前、嘔吐までした事を思い出した。鬱だ。

 

 

 行く場所もないので、理香は校舎の屋上に来ていた。ギラギラと輝く灼熱の太陽が今日も理香の肌をちりちりと焼く。

 ここに来たのは昨日の約束を思い出したからだ。

「……月白さん…」

「ふふ、こんにちは。ちゃんと来てくれて嬉しい。来なかったらどうしようかと思ってた」

 月白は昨日と同じような儚げな笑みを浮かべていたが、理香を見て少し首を傾げていた。

「あれ?」

「…なに?」

「あなた、昨日となんか違うね。全然違う」

 月白が言ってる事はよく分からなかった。

「なんか昨日より目が鋭くなってる。昨日はわたしと話すのにびくびくしてたのに、今日はそんな事ない。肝が据わったっていうのかな? なんかよく分からないけど、そんな感じ」 

「…そう…かな……?」

「うん。でも、なんか怖い感じ。わたしは昨日のあなたの方が好きだな」

「…そう」

 月白に怖いと言われた。それはこっちの台詞だ、と理香は胸中呟いた。ショックだ。

「わたしの書いたノート、読んでくれた?」

「…うん」

「感想聞かせて。聞きたい。わたし、それが聞きたかったの」

「…うん」

 理香は正直に答える事にした。嘘を付く方が返って怖かった。

「よく分からなかった」

 昨日考えていた台詞をそのまま口にした。

 月白は真剣にうんと頷いた。

「どの辺りが分からなかったの? 各単語の意味」

「えっと……」

 理香はもう一度、月白の書いた内容を思い出してみた。

 

 おなかがすいた

 なんでもいいからたべたい

 ひもじいよ

 たすけて

 おなかがすいた

 うらてんしのあなたにおねがい

 わたしにごはんをもってきて

 

 殆どの単語の意味は分かる。けれど何が言いたいのかが分からない。

「おなかすいてるから、ごはん欲しいってのは分かるけど、全体的に抽象過ぎてよく分からない。後、うらてんし、てのもよく分からない」

「そっか……。うん、ちゃんと感想くれてありがとう、わたし、嬉しいよ」

 月白は満足したようだった。理香は爆弾が爆発せずに済んだような気持ちでいっぱいだった。

「ねえ、もういっかいお願いしてもいい? わたしね、あなたにお願いがあるの」

「…なに?」

「わたし、あなたと友達になりたいの。いい? ねえ、いい? わたし、あなたと友達になりたいの、だめかな?」

 理香は月白の表情をちろっと盗み見た。くすくすと笑っている。

 色々と悪い噂ばかり飛び交う月白。実際こうやって話しあっていても、何処か精神の破綻が目に付く。それでも理香に悪意を持っているようには見えなかった。むしろ好意的に見えた。

 噂はあくまで噂だ。

 それに理香も今は独りだった。誰か話せる相手が欲しかった。

「うん、いいよ。私でいいなら」

「ほんと?」

 月白の表情がぱーっと明るくなった。童女のように無邪気に喜んでいた。

「ありがとう! あなたのこと、りかちゃんて呼んでもいい? いいよね?」

「う、うん」

「それじゃあ、私の事はなんて呼んでくれる?」

「え、えっと…………月白…さん……じゃだめ?」

 月白はだめだめと首を横に振った。

「そんな他人行儀の呼び方は嫌だな。もっと親しみを混めて呼んで欲しい。もっと頭を捻った考えて。大事なことなんだから!」

「え、えっと………それじゃ………つ、月白ちゃん……」

 口にしてから理香は、ロクなもんじゃないと思いなおしたが、予想に反して月白は上機嫌だった。

「うん、それ可愛い! それがいい! もっかい呼んでみて、りかちゃん!」

「え、そ、そう……? 月白…ちゃん………?」

「うん可愛い! じゃ、これからもよろしくね、りかちゃん!」

「う、うん……よろしくね……」

「あははははは☆」

「…あはは……」

 とりあえず理香も愛想笑いを浮かべておくことにした。

「はい☆」

「……っ」

 こつんと月白に額を小突かれた。

「え、な、なに?」

「りかちゃんに幸運をプレゼント」

 月白が言う事はよく分からなかったが、理香は曖昧に笑って月白に礼を言っておいた。

「あ、ありがと」

「りかちゃん、明日もまた来てね。私はここでまってるから」

「う、うん……」

「…ん、月白ちゃんって言って」

「ま、またね、月白ちゃん」

「あはは☆ うん、また明日ね!」

 また明日も会う約束をしてしまった。

 友達が一人増えた。

 

 

 午後の講義のある教室に顔を出すと、心配顔の春奈と芹沢が駆け寄ってきた。

「何処いってたのよ、理香! いきなり医務室から消えてるから心配したじゃない!」

「大丈夫なのかい、理香ちゃん?」

「…………」

 朝ほどではないけど、それでもこの二人の顔を見ていると、胃が重たくなってくる。

「別に平気だから……」

「何言ってるのよ、あんた! 顔色、まだ悪いじゃない!」

「理香ちゃん、何か悩み事でもあるのかい? 僕達は仲間なんだよ! いくらでも頼ってくれていいんだよ! あはははは!」

 じゃ、あなた達、あっち行って。そう口に出かけた言葉を理香は喉元ぎりぎりで飲み込んだ。そんな事を言ってはいけない。

「…大丈夫………」

 とりあえず、そう言っておいた。

 

 

 疲れた。

 電車にゆらゆら揺られながら、理香は大きな溜め息を吐いた。

 芹沢と春奈の顔を見ていると、吐き気がする。

(なんでだろ……)

 そう思いながらも、理香も薄々気付いていた。

 たまに見る変な夢。内容は詳しくは覚えていないが、その夢が春奈と芹沢の二人を敵だと言っている。だから頭が痛むのだ。

「……!」

 そんな考えを、理香は頭を振って否定した。

 何を馬鹿な事を考えているのだろう。夢と現実を混同している。

「はぁ……」

 疲れているのだ。

 家に帰ってさっさと寝よう。そう思っても、それすらも気が進まない。寝ると変な夢を見るし、緑色の液体の入った瓶を懐に入れられる。

 理香は懐の瓶を取り出した。美味しそうだった。

 なんだろう、この液体は。ジュースかもしれない。

 暑くて喉が渇いているので、ついつい飲みたくなったが、怖いのでやめておいた。

 

 

 散々くたくたになった理香は、ようやく辿り付いた自宅の鍵を開けながら大きく溜め息を吐いた。

 本当に疲れた。なんだか眠たい。

「ただいまぁ……」

 誰もいないとも思いつつ、いつものようにただいまを口にする理香だったが、理香の目に飛び込んできたのは予想を大きく覆す光景だった。

「やあ、理香ちゃんお帰り! 具合はどうだい?」

「あ、お邪魔してるね、理香」

 芹沢と春名がいた。

 激しい胸の動悸が理香を襲った。嫌悪感が身体中の体温を下げていく。どうして、彼らがここにいるのだろう?

「あはは、理香ちゃん。不思議そうな顔をしているね。理香ちゃん家の合鍵がこっそり作っておいたんだ」

「あーあ。あなた、それ犯罪よぉ? いくら理香でもそのうちキレちゃうわよぉ? あはは」

 楽しそうに笑う芹沢と春奈に、理香はついカっとなって、喉の奥に閉ざしてあった言葉を漏らしてしまった。

「……出て行って…!」

 感情に任せて言葉を漏らした理香を、二人は『?』という表情で見つめ返していた。

 全然意思が伝わってない。出て行ってと口にしたのに伝わってない。二人とも今、理香がどんな想いでこの拒絶の言葉を口にしたかわかっていない。

「…ふざけないでよ……! なにが合鍵よ! 私をなんだと思ってるの! 出て行って! 今すぐ帰って! 顔も見たくない!」

 もう我慢の限界だった。この家は理香が唯一独りになれる安息の場所だ。こんな所まで友人とはいえ、他人に干渉されるのは堪らなかった。

「出て行って!」

 理香がもう一度叫ぶと、二人はすごすご帰っていった。

 

 

 自室に戻った理香は独り、泣きながらベッドを両手で殴っていた。

 胸が苦しい。

 最低だ。芹沢と春奈にあんな風に当り散らしてしまった。あの二人は理香の具合が悪そうだったから見舞いに来てくれたのだ。

 二人に謝らないといけない。

 けど、あの二人の顔を思い出すだけでも、嫌悪で胸がいっぱいになる。

 訳の分からない精神状態に理香は、ただただ泣いてベッドを殴り続けた。

 

 

 ガタガタガタ……。

 老人は叫んでいた。

 

 やつらを追え!

 すぐに始末するんだ!

 あの二人は人類の敵なのだ!

 

 

(はぅ〜)

 理香は涙に濡れた顔をベッドからあげた。

(また変な夢みるよぉ…………うぁ…)

 さっきまで独りでいたかったのに、今は逆にあの二人に会いたい。

 なんとなく、あの二人をナイフで刺したくなってきた。

「……!」

 理香は激しく頭を振ってベッドを殴りつけた。なにを考えているのだろう。

 けれど、独りでいると段々と気持ち悪くなってくる。あの二人に会いたい。

 ふらふらと台所へ向かう。果物ナイフがあった。

(うぅ〜……!)

 ナイフを持って、理香は玄関から飛び出した。

 キた……!

 なにか分からないけど、理香の身体になにかが降臨した。それが自分で分かった。

 芹沢と春奈の二人は敵だ。

 老人はそう言っていた。老人が誰だか知らないけど、そう言っていたのは間違いない。敵を倒した後で薬を飲めば、世界中の人が救われるとも言っていた。

「……! いやあぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ?」

 理香は我に返り、その場に蹲って泣き叫んだ。もう訳が分からない。頭がおかしくなってしまったように、理香は思考を一定に保てない。気を許すと、すぐにおかしな考えに走ってしまう。

 周囲の人間が、蹲って泣いている理香に注目していた。そういえば、ナイフを持って外に飛び出したのだった。

 どうしよう? 胸が激しく高鳴っている。

 芹沢に会いたい。春奈に会いたい。

 理香は駆けた。彼らが自宅に帰るなら駅に向かうはずだ。

(頭が…痛い……!)

 そういえば老人も頭が痛いと言っていた。

 

 

 芹沢と春奈は駅にいた。切符を買おうとしていた。

 見つけた。

 もうこの不快感は耐えられない。早くこの二人をやっつけて、薬を飲みたかった。

(違う……そうじゃないっ………!)

 理香はこの二人に優しく抱かれたいのだ。不快感が出ないように、優しく抱かれたいのだ。吐き気を催さない方法で抱き締めて欲しいのだ。朝のように抱かれたら吐いてしまう。

「理香ちゃん、どうしたんだい?」

「せ…り………ざわ………くん………!」

 芹沢に声を掛けられて、理香は堪らなく悲しくなって涙を流した。

「理香ちゃん!」

「……!」

 芹沢が肩を揺すってくる。たくさんの感情が理香の中に溢れて、もう理香は考えるのが嫌になって、感情に全部を任せたくなった。頭の中の老人が芹沢を殺せと泣き叫んでいる。

「いやああぁぁああぁぁぁあぁあぁぁ!」

 理香は無我夢中でナイフを振るった。芹沢の服を切り裂いて、僅かだが胸元を斬った。

 周りから悲鳴が聞こえる。春奈も悲鳴をあげている。

「理香…ちゃん……?」

 芹沢だけが出血した胸を押さえながら、驚きに満ちて理香を見返していた。

 これでは死なない。もっと深く斬らないと、刺さないと死なない。

「理香ちゃん………!」

「ごめん………ごめんね……! 私、別に芹沢くんのこと嫌いじゃないの! わかんないの!」

 自分でもなにを言ってるのか分からなかった。分からなかったが、頭の中の老人が叫んでいるので、芹沢に斬りかかった。

 芹沢がなんとか身を捩ってナイフを避けようとするが、ナイフは肩に刺さった。

 出血した芹沢は春奈と一緒に逃げ出した。人波が二人を避けていた。

 理香も二人を追った。

 

 老人は言っていた。

 もうすぐ人類は宇宙から来る敵に一人残らず抹殺される。

 それを救えるのは天使になれた理香だ。薬を飲んで、天使になれた理香なのだ。

 だけど、あの二人は天使の力『ABC』を奪う悪い敵。あの二人がいると、理香は世界を救えない。ABCは正しい天使のみに与えられた神聖な力だ。

 

 よく分からないけど、あの二人を殺さないと駄目なのだ。

 そう決まっているのだ。

 

 

 と、老人は言っていた。

 

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