-救済の書-
――救済。
やがて真っ白な開けた世界へと抜けた。
右を見た。
左を見た。
正面には扉が浮かんでいた。その前に立っていたのはあの白い少女の影だった。
従事は不意に二人の少女を思い出した。
リンカがヒトを好きになり負の感情を抱いたのに対し、何処かで会った少女はヒトと疎遠でありすぎた故に負を抱いていた。リンカはヒカリ、その少女は闇。そんな気がした。
「七瀬を何処にやった」
「――イウ――コト――キカナイカラ――――ブチブチニヒキサイタ」
少女の足元には無数の女の身体の破片と血が散らかっていた。
従事はそれが七瀬の物だと思うと心臓を掴まれ息が苦しくなった。そして、もう七瀬に会えないという悲しみと、この少女を殺したいという憎しみに駆られた。
脳みそに焼き付いたヘイトレッドの刻印が再活性し始める。
――スプライトの最期の言葉を思い出した。
憎悪は消え去り、従事は冷静になることができた。そして考えた。
「嘘だ。お前はリンカの負の感情を食べたんだ。七瀬への執着心なら僕にも理解できる。お前は絶対に七瀬を殺せない」
「モウヘイトレッドノチカラハイラナイノ? アークビショップニモカテルコノチカラ」
「必要ない。僕は自分の力でポテチを倒した」
「――勘違い野郎め」
突然白い影はポテチの声で喋りだした。形もポテチの影に変わっていた。
「お前が勝てたのは運だろう。あの嫌われ者のナイフを懐に入れていたからだろう」
これはポテチではない。従事は直感的にそれが分かった。ポテチは死んだのだ。
ポテチの無念をこの白い影が喰ったのだ。
この影は最後のアークビショップだ。世界に渦巻く無数の悪意を喰べていた。同じ仲間のポテチやスプライト、メイフェアに討たれるために。
この白い影の中には無数の悪意がある。従事の負の感情もあった。
「僕がお前を倒してやる。そして七瀬を助ける」
「オマエナンカニコロサレテタマルカ」
白い影は少女のものに戻った。
そしてスプライトを撃ち抜いた時のように、周囲に無数の尖った二等辺三角形を作り出した。
少女のヘイトレッドの刻印が醜く輝いた。
「死ネ」
飛来する無数の凶器。
従事も負けじと、白姫に教えてもらった正三角形を無数に作り迎撃の態勢を取る。
「ああああ――――!」
従事は吼えた。キコリのように吼えた。ヒルダのような鉄の意志で目の前の敵に向かって吼えた。
三角形を作れば作る程、脳みそがずきずきと痛んだ。ポテチに斬られていたのか、あるいはメイフェアやキコリに斬られた古傷が傷んだのか。まるで三角形を作ることが強烈な負荷になっているかのように、従事は強い痛みを覚えた。
(頭が破裂する――!)
従事は敵の二等辺三角形を迎撃するべく、同じ数の三角形を作り続けた。
「―――!」
少女の指先が向けられると同時、凶器の三角形が従事に飛来した。従事はそれを作っていた正三角形で迎撃する。
だが数も攻撃力も違いすぎる。
従事の作った正三角形は容易く撃ち抜かれ、従事は全身を串刺しにされた。
「クダランナ――コレデハマダポテチカ、スプライト、メイフェアガイキノコッタホウガタノシメタナ」
従事は諦めかけた。
だが、身を挺して従事を庇ってくれたスプライトの最期の言葉を思い出した。
彼女は従事なら大丈夫と言った。しかし現実はこの有様だ。なにが大丈夫なのか。
(スプライト…僕じゃこいつには勝てない…)
肉をずたずたに引き裂かれた従事は、白い少女が次の二等辺三角形の群を作っているのが見えた。
ポテチを倒した時の気力を思い出した。あと少しだけ頑張ろうと思った。ここで死ねば苦労してポテチを倒したことの意味もなくなってしまう。
従事は正三角形を作った。強度は及ばずとも、せめて敵の二等辺三角形と同じ数になるよう、三角形を作り続けた。
脳みそがずきずきと痛む。痛みは増していく。発狂するまでにいったい幾つの三角形を作れるのか。
「ホラ。モットハヤクツクラナイトオイツカナイゾ」
敵の二等辺三角形の数が増える。
従事も負けじと正三角形を作り続けた。
(――痛い―――痛い―――!)
クビを跳ねられて死んだフラッタの痛みを想像した。彼の方が自分より痛かったんだろうと思うと、従事は痛みを我慢した。
「デハイクゾ。ダイタンニダイニダンダ(大胆に第二弾だ)」
白い少女の指先が従事を差した。
従事は必死に頭を巡らせた。ポテチやスプライト、メイフェアならこの化け物を倒すことはできたのか。どうすれば倒せるのか。それはヒルダがメイフェアを倒そうとしていた思考と似ている気がした。
思考の合間にも二等辺三角形は飛来する。
強度で負けているならと、従事は三角形の数を増やすことにした。作り続ける。敵の二倍の数を作り、二重にして盾のように防げば止められるだろう。だが脳みその軋みは更に増した。
(――――! ――――!)
頭の中で苦痛が弾け回る。
(スプライト…! 僕ではこいつには勝てない…!)
敵は誰であったかと思い出そうとした。何処かで会ったことがあるのだ。何処かの時代の逃げた奴隷の名を思い出そうとした。
「マ――!」
だが、その思考をリンカと白姫の影が邪魔をした。
二等辺三角形と二重になった正三角形が激しくぶつかりあった。甲高い音を鳴らし、全てが砕け散った。
少女の影の周りに新たな二等辺三角形が作られ始める。
(このままじゃ殺される)
少女は笑っていた。
ポテチを連想した。あの男も笑い従事を馬鹿にしていた。口には出さないだけで、フラッタやアリカ、ヒルダ、キコリ、メイフェア、スプライト、そして七瀬も従事を馬鹿にしていたのではないか。そんな被害妄想が頭を駆け巡った。
「―――!」
従事は余計な考えを振り払い、目の前の二等辺三角形を破壊する正三角形を作ろうとした。だが、脳みそが鈍く痛み上手く三角形を作ることはできなかった。
作れて三つだ。だが三つの三角形では少女の無数に作れる二等辺三角形を撃破することなどできやしない。
それでも最期まで足掻きたかった。
白姫の最期の言葉を思い出した。
「七瀬ちゃんとリンカちゃんを救ってあげてください」
従事は自分をそんな大それたことが出来る程、質の良いニンゲンとは思っていない。それでも白姫の最期の願いをなるべくなら叶えてやりたかった。
目の前の怪物にはリンカの悪意も混ざっている。鋭く尖った二等辺三角形は一点だけが他の二点と余りにも掛け離れているために鋭利な凶器となっているのだ。
「死ネ」
二等辺三角形は二つずつ重なった。平行四辺形やひし形となった。即ち敵の攻撃力は二倍となった。これでは正三角形を二重にしても防げない。そして喰らえば即死だ。
無数の図形が従事に飛んでくる。
いずれにせよ三角形はこれ以上無駄には作れない。従事は地面を転がって平行四辺形やひし形を避け続けた。
芋虫のようだと自分で思った。
ただ、自分のことを芋虫未満と思っていたニンゲンがいた。生まれながらの奴隷の少女は、芋虫は気楽でいいなとさえ感じたのだ。
「―――!」
三角形が作れないのなら肉弾戦だ。
従事はキコリを見習い、雄叫びをあげて敵に突っ込んだ。
「バカメ」
少女の指先に応じて飛来物は進路を変えた。従事の全身に隈なく平行四辺形やひし形、二等辺三角形が突き刺さった。
それでも従事は前進した。
吼えた。キコリのように吼えた。
少女の周りに次の二等辺三角形が生成された。従事は構わず敵に向かった。
白い指先の合図一つで再び従事の身体は滅多刺しにされた。従事は吼えた。全身の肉が捥げても相打ちに持ち込むべく、図形の嵐の中を突き進んだ。
「シツコイヤツメ――」
この痛みは報いだと従事は受け入れた。
最初から強かったならフラッタを死なせずに済んだ。アリカを悲しませることもなければ、七瀬と村で暮らすことだってできた。
痛みは受け入れた。
敵の図形が脳や心臓、喉、肺を突き破った。それでも従事は最期の力を振り絞り、敵へと駆けた。その行進は三角の嵐に押され微々たる物ではあったが、確実に敵との距離を詰めた。
目前まで迫った。
「ヒイ」
少女の影が怯え震えた。キコリを連想した。
従事は正三角形を作り振り下ろした。
少女の影は真っ二つになり死んだ。
だが、生き返った。
「ハハハ―――ワタシハアークビショップデナケレバコロセン」
「―――!」
従事は蹴り飛ばされた。
それでも立ち上がった。作れる三角形は残り二回。顔を上げた従事の前には一振りの美しいソードが地面に突き刺さっていた。
それはポテチのソードだった。彼の死と共に消滅したと思っていたソードが従事の目の前に刺さっていた。
従事は迷わずそのソードを掴んだ。ポテチが七瀬を助けろと言っている。そんな気がした。
ソードを掴み従事は敵を見据えた。ソードから放たれた輝くヒカリが敵の腹の中を架ざした。白い影の中には七瀬が詰まっていた。
従事は計画を立てた。この悪魔を殺す。それから腹を割き七瀬を助ける。この順番どおりの作業になんら問題ないと信じた。
従事は吼えて敵に再び駆けた。
「ソンナミグルシイトッコウナドミタクモナイワ」
横に回転した三角形が従事目掛けて飛んでくる。従事は避けなかった。
「ぎゃああ」
従事の身体は見事に上下真っ二つに裂かれた。だが、従事はこれを狙っていた。敵は油断した。
「――――!」
走っていたのだ。勢いのついていた上半身は、下半身と泣き別れになりながらも、白い影へと飛び込んだ。
そしてポテチのソードを振り下ろした。
「@@@」
白い影は悲鳴を上げた。
アークビショップの聖剣は少女の右肩から股間までを一振りで斬り裂いた。真っ白な少女の影は真っ赤な血を吹いて倒れていく。
従事は影ともつれ合いながら、三角形を一つ作った。
正三角形のカドを使い、少女の腹を抉った。
「@@@」
少女の悲鳴が上がる。従事は構わずほじった。そして七瀬の身体を毟り抜いた。七瀬は血に塗れていたが、それでも確かに生きていた。従事の腕の中で呼吸をしていた。
助けた。そして抱きしめた。
この感触を欲しいが為に命を賭けたのだ。
少女の白い影はぴくぴくと痙攣していた。
「――七瀬――七瀬――」
従事は七瀬の髪を撫でた。
全身の血を拭ってやろうと撫でた。
多くのニンゲンが従事の前で死んだ。皆、血塗られて死んだ。せめて七瀬だけは血を拭ってあげたかった。
早く七瀬に目を覚まして欲しい。
間もなく従事の命は燃え尽きる。
最期に一言、七瀬と言葉を交わしたかった。
今の自分を見て欲しかった。
それだけで救済される。七瀬の心の中に残りたかった。
「――――」
七瀬が目を覚ました。
驚いたように従事を見ている。そしてすぐに従事が死に行く身体だと気付いたようだ。
「じ、従事――? なんで…どうして…! そんな怪我…」
「いいんだ」
七瀬は半ば混乱していた。
「じ、従事の私を好きという感情はリンカちゃんの作り物なのに! ばか! なんでそんなに傷ついてまで私を好きでいるのよ!」
「作り物でもいい…。僕は七瀬が好きだ。それでいいんだ。その理由も自分では分からない。例えこの感情が作り物でも…そんなことは途中で薄々気づいていたけど…。それでも僕は七瀬を好きでいることが幸せだって思ったんだ」
「従事…」
七瀬が従事の腕を掴んでくれた。
死に際を看取られるキコリはこんな気持ちだったのかと想像した。悪くない気持ちだった。己が道化であったとしても、悪い気持ちではなかった。
「―――マテ」
白い影がゆっくりと起き上がった。
それは少女ではなく、男の影へと形を変えていた。従事の影だった。従事の中の醜い執着心が白い影の中で比重が大きくなり、姿を現した。そう従事には思えた。
従事はもう動けない。この白い世界に来た時、最初に見つけた扉を指した。
「七瀬…君はあそこへ逃げるんだ――」
七瀬は頷いた。だけどすぐには逃げずに従事の身体を抱き起こした。
「馬鹿な…。下半身のない僕はもう歩けない…。捨てて早く逃げるんだ…」
七瀬に背負われ従事は申し訳ない気持ちになった。好かれていない相手に同情心で拾われるのは辛かった。そんなことのために命を張って助けた七瀬が死んだら嫌だ。負の従事の影が近付いてくる。
「ヒヒヒヒヒヒヒ」
「七瀬…僕を捨てるんだ…。僕の命を無駄にしないでくれ…! 僕は君を助けたいために死を選んだんだ…」
七瀬はクビを振った。
「私は――もう従事もリンカちゃんも、ひめちゃんも――アリカちゃんもフラッタもポテチも―――誰も失いたくない…」
従事は涙を流してしまった。
恥ずかしかった。七瀬のこんな単純な好意にすら気付かない愚鈍な自分が恥ずかしかった。リンカもこの一言で救われると思った。
「―――マテェ」
従事を背負う七瀬よりも、白い影の接近は近い。このままでは追いつかれる。
従事は七瀬に背負われながら最期の三角形を作り出した。
それは今までのどんな三角形よりも美しかった。
従事は吼えた。
これから向かう扉は重く厚い。非力な女の腕では扉を開くことは適わないだろう。あの扉を破壊するのは従事の役目だ。
だが、これが最後の三角形だ。ここでこの白い化け物を攻撃せねば、扉に辿り着くこともできない。
「七瀬――」
「従事――?」
「僕はあいつを破壊する。降ろしてくれ…」
「絶対に嫌だ…従事が死んだらヤだ…」
「意地を張るんじゃない…」
従事は七瀬の背で暴れたが、七瀬の腕を振り解くことはできなかった。
「私は頑張って歩くから……もう…悪い感情に皆が流されるのは嫌…」
従事は頷いた。
七瀬を信じることにした。
そしてこれで大丈夫だという奇妙な確信があった。
「ヒヒヒ」
白い従事の影が迫ってくる。
従事は影に対し、自信という己の軸をぶつけるかのように睨み付けた。
「アアアアア」
睨まれた影は怯み、怯え、崩れていった。
負の感情を滅ぼすものは武力ではなく、正しい感情である気がしたのだ。
しかし、それでも影は執念だけで追ってくる。
それを後ろから優しく抱きしめた者がいた。
「オマエハ――」
白い影を捉えたのは従事が長年追い縋ろうとした聖騎士の一人だった。
「キサマ―――スプ―――うげ」
何度も斬られ、貫かれた従事の脳みそはもう多くの記憶を忘却していた。だが七瀬と同様、もう一人の大事な仲間の名は覚えていた。
「スプライト――」
自然と声が出た。スプライトと口にした時、彼女がまだこの世界に生きているということを嬉しく感じた。
「キサ―――イキテイタノカ―――ギャア」
スプライトは白い影を掴み、闇へと堕ちていく。
「ハナセ―――ハナセ――!」
「―――」
「!」
スプライトは少女の名を口にした。
従事も忘却していた記憶の名をスプライトは口にした。それはヒルダがメイフェアの名を呼んだ時のように。
白い影の憎しみが溶けていく。
少女の額に刻まれたヘイトレッドの刻印も砕けていく。やはて白い影だった少女は、従事が何処かで見た少女の姿となった。
スプライトは少女を抱いたまま、闇の中へ消えていった。
従事はスプライトが生きていたことが嬉しかった。
そして自分のやるべきことをやることにした。
七瀬は従事を扉の前まで運んでくれた。
従事は三角形を力一杯、扉に突き刺した。
白姫の心の氷と溶かすように、頑強な扉は従事達の前から崩れ去った。
「七瀬―――」
「ん?」
「ありがとう――」
従事は身体に暖かさを感じた。
七瀬が抱いてくれているのだと分かった。
嬉しかった。