-救済の書-

終わりの3章 ポテチ。


 

 白い影は森の奥へと消えていった。

 従事は敵としてすら認められなかったのだ。スプライトは従事のために粉々になって死んだのだ。

 従事は蹲った。

 全身に浴びたスプライトの血液はまだ熱い。

 スプライトは自分のために死んでしまった。そんなことを考えると、従事は立ち上がることができず涙を流してしまった。

 七瀬以外のために涙を流す自分に驚いた。

 フラッタやヒルダ、メイフェア、キコリが死んだ時も従事は泣かなかった。

 もう世界にはスプライトは存在せず、彼女と喋ることができないという事実が辛かった。

 従事は非道いニンゲンだと自分で罵った。スプライトが可哀想ではなく、彼女と話せない自分を可哀想だと思っているのだ。

 そしてスプライトを傷つけたのは自分だと責めていた。

「――――」

 従事は蹲ったまま、立ち上がることができなかった。

 スプライトと過ごした数千年の時間を思い出した。

 彼女と一緒に食事を摂ったことを思い出した。

 戦いの手解きをしてもらったことを思い出した。

 一緒に寝た夜を思い出した。

 

 

 ずっと蹲っていた。

 とても永い時間のようにも感じた。

 数千年間、蹲っていた気がする。そして、七瀬を助けなければならないと思い出し、立ち上がった。

「――――」

 従事は立ち上がり、森の奥へと向かった。

 七瀬に会おう。

 独りで森を歩いた。枯れ枝を踏み躙って歩いた。虫の死骸も踏み潰した。たくさんの死体を踏み躙ってきた自分には似合いの光景だと、従事は自嘲した。

 一緒に森を歩いたフラッタもヒルダもスプライトももういない。従事は闇の中へと歩き続けた。

 ――なにか踏んだ。

 従事は足元を調べた。女の手が落ちていた。

 七瀬の死骸の破片。そんな可能性が従事の脳裏に過ぎった。七瀬には死んで欲しくない。例えその恋慕の対象が自分に向けられていなくても、彼女が生きている間は希望も零ではなかった。

 辺りにはたくさんの身体の破片が落ちていた。

 クビも転がっていた。

 従事は恐る恐る転がったクビが誰のものであるか、顔を覗き込んだ。

「―――」

 従事は自分を最低と罵った。顔を見て安心した自分がいたのだ。ばらばらになった死体はアリカのものだった。

 七瀬でなくて良かった。それはアリカの死を悲しむより先に生まれた感情だった。その後でアリカが死んで悲しいと思い始めた。

 昔、アリカがフラッタと従事の命を天秤に掛けられ、泣きながら従事を選んだことを思い出した。まったく悲しくないわけではない。だけど、最愛のヒトが死ぬよりはマシだと思っている自分もいた。

「七瀬じゃなくてほっとしたのか」

 血の付いたソードを持っていたのはポテチだった。

「お前がアリカちゃんを殺したのか」

「襲い掛かってきたから止むを得なかった」

「殺すことはないだろう。お前程の腕ならアリカちゃんにトドメを刺さなくても良かったはずだ」

 ――足元から「馬鹿…」と聞こえた。

 クビだけになったアリカが声を上げているのだ。

「アリカちゃん!」

 従事は膝を付いた。アリカが生きていたこともだが、「馬鹿」などと言われるとは思わなかった。

 アリカは息も絶え絶え口を開いた。

「ま、まだ…そんな甘いことを言ってるの? ジュージくん…」

「アリカちゃん…」

「もっと憎悪に身を任せれば…私達は誰にも…負けない…。私にも浮かんでいたヘイトレッドの刻印…私達は…無能…ゴミ…嫉妬深いイキモノ…なんかじゃ…ない…」

 アリカのクビは灰へと化していく。喋っているだけで死を早めているのだ。

「もういい、喋るなアリカちゃん」

「私達は…弱者だった…。すぐに嫉妬し、陰鬱になる…。弱者…弱者…弱者…でも、弱者でも…私達にだってできることがあるって…あの男に思い知らせて…」

「クビを跳ねたのに随分としぶといな」

 ポテチが肩を竦めて笑った。

「フラッタを殺したあいつを…私達の手で…殺して…」

 アリカは泣いていた。

 従事はアリカのために彼女のクビを抱き寄せた。

「私達は…無能じゃない…って……証明して…」

 そしてアリカは死んだ。

 頭は灰になり、従事の腕の中から消え去った。

 従事はやはりアリカのために泣いてあげることはできなかった。スプライトや七瀬のために涙を流すことはできても、アリカのために泣いてあげることはできなかった。

 フラッタのために涙を流したアリカを思い出した。

 従事は灰になったアリカを握り締め立ち上がった。

「七瀬は何処だ」

「俺の背後、あの暗黒の深遠にさっき自分から飛び込んだぜ。生け贄としてな」

「もう一つだけ聞きたいことがある。ここに白い影の女の子は来たか」

「ああ。七瀬をくれてやったら、喜んで穴の奥へと消えていったぜ。今頃喰っているのかもな」

「お前は七瀬をどう思っているんだ」

「アイテムだ、とでも言えば、お前が俺を憎む大義名分ができて嬉しいか、勘違い野郎。大方、スプライトを汚い手段で殺してきたのだろう」

「黙れ」

「今死んだ女のように、お前もヘイトレッドの刻印を脳みそに持つ、できそこないの弱者だろう? え? 見せてみろよ、その力を。そんな歪んだ力では俺は倒せんぞ」

 従事はスプライトにより切断された両肘の断面から、二つの正三角形を生やした。

「僕はもう憎悪の力で戦わない。お前を切るのはこの三角形だ」

「嘘だろ。俺に嫉妬しているんだろう。できそこないめ」

 七瀬の好意を向けられているのはどちらか。それがポテチと決まっているわけではない。だが、従事はその可能性を考慮しただけで悔しい想いで胸がいっぱいになった。

 従事はポテチへと斬り掛かった。

 ポテチの鉄拳が従事の顔面に直撃した。

 従事は倒れなかった。鼻血を噴きながらも堪えた。

「何度も同じパンチで…倒れるか…」

「うぜえよ」

 第二第三の拳が従事の顔面に入った。

 それでも倒れれば負けだと従事は思ったから、必死に堪えた。膝に力を入れ、ポテチの拳を全て顔面で受け止めた。

「ふん、ふん」

 ポテチの拳は容赦なく従事の顔面に打ち込まれた。

 サンドバックのようだと従事は自分で思った。

 ――ジュージナラダイジョウブデスカラ。

 スプライトの言葉を思い出した。

 ポテチを打ち負かすのは憎悪の力ではない。憎悪を押さえ込んだ誇りの力だ。従事はがむしゃらに三角形を振るった。

「馬鹿め死んでこい」

 あっさりと三角形は避けられ、従事は反撃の拳を顔面に受けた。

 それでも倒れずに踏み止まった。

「しつこいやつめ」

 更に無数の拳が従事の顔に放たれた。従事の顔が醜く変形していく。それでも従事は耐えた。

 スプライトは誰のために傷付いたのかを考えると、従事は倒れたくなかった。そしてもう弱い姿を見せたくなかった。

 女に恥ずかしい姿を見せるのは苦痛だった。また見せるなら死んだ方がましだった。従事は今まで出会った女を出来る限り思い出した。七瀬、スプライト、ヒルダ、メイフェア、リンカ、白姫、アリカ。他にも名前も忘れた無数の女を思い出した。彼女達に恥ずかしくない、誇れる自分を見せたかった。女達の名を思い出した時、一人だけ思い出していない少女がいる気がした。

 従事はいらぬ考えを捨て、目の前に敵に意識を集中した。

 ポテチは苛立ちを表情に出し、更に容赦のないパンチの嵐で従事の顔面を蹂躙した。従事の鼻頭も歯も既に砕け、目は抉れて掛けている。それでも倒れなかった。

「貴様! 何故死なん! 早く死ね!」

 頭に血が昇り始めたポテチとは逆に、従事は弾幕のような鉄拳の嵐に打たれながらも冷静になっていた。

 ポテチが始めて感情を表にした、そんな気がした。

 

 

 ポテチは両の拳を叩き込めるだけ男の顔面に叩き込んだ。

 この弱者はまだ倒れない。

「ぬぅ…」

 ポテチは唸った。

 アークビショップと言われる男の拳を数十発と叩き込んでいるのだ。何故倒れないのか。

「この! 無能が! 無能が! 嫌われ者が! 嫌われ者が! お前如きが七瀬を救おうなどと笑わせるな!」

 ポテチは苛立ちに任せ、男の顔面を殴りまくった。

 決してマトは硬いわけではない。肉と骨のニンゲンだ。だが数度と拳をぶつける内にやがてポテチの指先は痛みさえ覚えてきた。

「僕達は…」

「弱者の遠吠えなど聞く気もないわ! 死ね! ―――っ?」

 男が不意に頭を突き出した。

 それは倒れる拍子に偶然当たっただけなのか。ポテチの拳は男の額に辺り、額を打ち抜くどころか、逆にポテチの拳は砕かれてしまった。

「僕達は…」

「ぬぬぅ」

「僕達は弱者だけど…」

 ポテチは駄目男の言葉など聞きたくなかった。

 己の内側に閉じこもっている負け犬などの言葉を認めてしまうわけにはいかない。アークビショップ、ポテチは生きる気力こそが強さだと信じていた。目の前の無気力な駄目男を一撃で倒せない拳の無力さを恥じた。

 そして次の一撃でこそこの虫のような男を倒せると、その顔面に鉄拳を見舞った。

「―――!」

 だが。まだ倒れない。代わりに敵の顔面を殴りすぎた指の骨が一本折れた。

「僕達は弱者だけど…」

「死ねぇ! 蛆虫野郎―!」

「それでも僕達は生きている! その命の価値をスプライトは認めてくれた! お前なんかに殺されて終わる程安い命じゃないんだ!」

「うぜえ!」

 駄目男が三角形の凶器を振るった。

 ポテチの腕が一本切り飛ばされ宙に舞った。

「馬鹿な――!」

 唖然とした。

 確実に勝てる筈の戦力差であった。なのに目の前の無能は最強のアークビショップ、ポテチの腕を切り飛ばしたのだ。

 

 

 従事はもうなにも見えなかった。

 幾度となく顔面に叩き込まれた鉄の拳は、従事から視力も思考力も奪っていた。

 それでも前に敵がいるのなら三角形を振るった。ヘイトレッドの刻印の力は抑えた。ポテチを叩き伏せるのは、もはや憎悪などではなかった。

 踏みにじってきた命への償いだ。フラッタは何故死んだのか。従事が死ねば今まで糧とした無数の命の意味がなくなる。そんなことを考えると死ぬに死ねなかったのだ。

「き、貴様ぁ――! そんなに意地を張ったところで今更七瀬は帰ってこんぞおおお!」

「僕は…! 七瀬に振り向いて欲しいから…! 死なないんじゃ…! ない!」

「ではなんだと言うのだ! この蛆虫! 吐け! ぐへ!」

 三角形が遂にポテチの腹を突き破った。

 鎧を割り、腹の肉を抉った。

「恥ずかしくないニンゲンになるためだ!」

 

 

 ポテチは既に何百という拳を駄目男の顔面に叩き込んだ。

 だが、依然としてこの男は倒れない。

 まさかこの男の鼻頭の骨一本よりも、己の体力が尽きてしまうのではないか。そんな有り得ない焦りがポテチの中に生まれた。

 アークビショップが内向的なニンゲン一人に精神力で負けることなど、あってはならないのだ。

「恥ずかしくないニンゲンになるためだ!」

 駄目男は叫んでいた。

 この男は何度拳を叩き込んでも倒れない。ポテチはそんな気がした。この男の無駄な足掻きを止めるにはもはやそのクビを刎ねるしかない。

 ポテチは遂に腰のソードを抜き、天に架ざした。

「お前は恥ずかしいニンゲンだ! 死ねぇ!」

 ソードを男のクビへと振り下ろした。

 敵は落ちる必殺の刃を避ける程の敏捷さはない。

 この一撃でソードはクビを容易く切り落とし、ポテチは次の任務に移る。筈だった。

「なに!」

 避けたのだ。

 幾度となく放った鉄拳により男の眼球は損傷している。見えるはずがない致死の一撃を男は避わしたのだ。

 決して優雅とは言えないこの男の動きが、どうしてポテチの振るうソードを避けることができたのか。

 ポテチも認めていた。目の前にいる男は単なる無能ではなく、全力の攻撃でなくては倒せぬ相手だということを。

 ポテチは腰を下ろし構えた。

 先程のアリカという女をばらばらにした究極の剣閃。今一度、目の前の敵をばらばらにすべくポテチは星を割るような斬撃を放った。

 アークビショップが全力で放つその一撃を止められる者などいやしない。如何に目の前の男に強い未練や執着心があろうとも、身体をばらばらにすれば死ぬ。

「先程の女のように…ばらばらになって――――死ね!」

 ポテチの無数の剣閃が男の身体を縦横無尽に切り刻んだ。

 胸を裂き、腿を裂き、顔面を裂く。クビを斬り、腹を薙ぎ、眼球を貫いた。全身を斬り付けられ明らかに目の前の男は死に足を一歩踏み込んだ。

「トドメだ! 死ね! 蛆虫! 野郎! うおおお!」

 男の身体を真っ二つにするべく、ポテチは横一文字にソードを力任せに凪いだ。

「―――!」

 男の腕を斬り飛ばした。

 それでもソードの勢いは止まらず、胸へと刃を食い込ませた。まだソードは止まらない。真っ二つにするべく、肉を千切り心臓を通過しようとする。

 このまま殺せる筈だった。

「なに…」

 だがポテチのソードは金属質ななにかに受け止められた。

 

 

 従事は死の間際、痛みに顔を歪ませていた者を思い出した。メイフェア、キコリ。痛みは嫌ではなかった。飛びそうになる意識は痛みが引き止めてくれた。

「なに…」

 ポテチのソードが止まった。

 胸の中に入れてあったフラッタの愛刀、ライトニングベインがポテチの攻撃を止めたのだ。そしてライトニングベインは見事に砕け散った。

(フラッタ…ありがとう……)

 従事は身体がばらばらになることも厭わず、残った側の腕で三角形を振るった。

 その瞬間、三角形は限りなく正三角形に近づいた。美しいトライアングルの攻撃をポテチは防ぐことはできなかった。

「げはー」

 鎧を容易く貫き、ポテチの身体は真っ二つになり地面に落ちた。

 

 

 ヒトを助けるはずのないニンゲンが、誰かを助けたとしよう。

 これは、なんらかの作用により感情が動いているわけだ。

 つまりこれを感動という。成長とも言う。

 ヒトはこれを見て涙を流すのだ。

 

 

 従事は本の一説を思い出した。

 リンカが残した本。その何処かに書かれていた文章だ。

 何故そんな文章を不意に思い出したのか分からなかった。

 

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