-救済の書-

終わりの1章 キコリ。


 

 白姫に突き飛ばされ、従事の意識は何処までも暗黒へ落ちていく。

 真っ暗な世界で声を聞いた。

 ――もう一度頑張れるかい?

 誰の声だったかは忘れてしまった。だけど従事は七瀬に会いたかった。だから目を覚ました。

 灰色の砂に覆われた村だ。

 従事の生まれた村だ。こんな所まで弾き飛ばされていたのだ。

 右を見た。

 左を見た。

 村は滅んでいる。悪魔が焼き払い、数百年が過ぎているのだろう。右手には悪魔の森がこの死の世界の中で尚、緑を放っている。

 あの深遠にポテチやスプライトは向かっているのだ。だが従事は森へ向かうことはできなかった。無様にポテチに敗れたことを思い出したのだ。

「……」

 竦んでいる。七瀬やスプライトの前で強烈な醜態を晒してしまった。拭い様のない失態に、従事は身悶えした。できうるならなかったことにしたかった。

 胸の中の三角形が従事に心を突き刺した。白姫が怒っている。そんな気がした。

「――――」

 従事は物音が聞こえたので振り返った。そこには遥かな昔、一緒に旅した少女が立っていた。

「お久しぶり、ジュージくん」

「ああ」

「もうあたしのことなんか忘れちゃった?」

 従事はクビを横に振った。ニンゲンを忘れることなんてない。

 ずっとこの滅びた村で待っていたのだろうか。いつか従事が帰ってくるのを。

「覚えているよ、アリカちゃん」

「ありがとう。お礼にあたしの力で役に立つならジュージくんに貸してあげるよ」

「僕はこれから悪魔の森にいかなくちゃいけないんだ。女の子を巻き込みたくない」

「あたしはジュージくんの役に立てるならそれでいいんだ」

「――――」

 従事は余計な言葉を呑み込んだ。言えばアリカは傷つく。

「分かった、一緒に行こう。でも危なくなったらすぐに逃げるんだよ」

「うん」

 アリカと共に森へ向かうことになった。

 

 

 ポテチやスプライトに勝てるのだろうか。

 七瀬の前でポテチに殴りかかった時、従事は手も足もでなかった。

 自身に一切の成長がないまま再び戦いを挑み、勝てる道理など何処にもなかった。さらに森にはポテチやスプライトが苦戦する程の邪悪なものがいるのだ。

「ジュージくん、頑張ろうね」

「ああ」

 アリカと共に従事は森へと入った。

「あたしは――」

「うん?」

「憎しみに任せてジュージくんを焼き払おうとした」

「気にしないでいいよ」

「七瀬さんに嫉妬していた」

「うん」

「でも、ジュージくんは今から七瀬さんを助けに行く」

「ごめん」

「あたし、みんなが消えてからずっと考えていた。ジュージくんも七瀬さんも本当は好き。フラッタも好き。私の黒い憎しみはどこにぶつけたらいいか、考えていた。何処かにぶつけないと私は――悔しい」

「うん」

「神殿騎士団を殺すことにした」

 ヒトヲニクムノハヨクナイコトダヨ。

 そんな言葉も従事には言うことができなかった。アリカを傷つけたのは自分だと従事は認めていた。

 

 

「――あなたの前に餓死しそうな見知らぬニンゲン一人と猪が一匹いたら、その人に猪を食べさせますか」

 昔、誰かにそう問われた。

 そんなことを思い出した。

 

 

 従事の目の前に現れたのは元神殿騎士団の男だった。

 全身に火傷を負い、眼鏡は割れているが、右手に持った聖なる斧だけは相変わらず煌びやかな輝きを放っていた。

「生きていたのかキコリ…」

「きさんを探していた。きっとここに来ると思っていたぞ」

「僕を?」

「きさんを殺してやる。あの嫌われ者のフラなんとかという奴と同じく、そのクビをちょんぎり落としてやる」

 後ろにいるアリカは今どんな表情をしているのか。従事は怖くて見ることができなかった。

「フラッタを侮辱するのも許せないが、お前に聞いておきたいことがある。どうして僕を狙うんだ」

「きさんの弓に撃たれた足が痛いのだ!」

 キコリは斧をぶんぶんと振って威嚇している。

「僕は急いでいる。戻ってきたらいつでも相手をするから、今はここを通してもらえないだろうか」

「我輩を倒して通るがいいわ! いくぞー!」

 キコリは斧を振りかぶって、従事に駆けてきた。

 お世辞にも綺麗な走行とは言えない。だが、従事は真っ直ぐ走るキコリのパワーに見惚れもした。己は臆病だ。ポテチを恐れて真っ直ぐ走ることもできない。

 従事は作り出した三角形の面でキコリの斧を受け止めた。思った以上にキコリの一撃は重く、従事の足は地面へとめり込んだ。

「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」

 キコリは顔を真っ赤にし、何度も三角形を斧で殴りつけた。

「なにがポテチを倒すだ! スプライトを倒すだ! あいつらを倒すのは我輩だ! きさんのような弱虫の出る幕ではないわ!」

「―――!」

 従事は三角形の盾に隠れながら、キコリの腹を蹴り飛ばした。

「ウギャアーーー」

 キコリは腹を押さえて地面を醜く転がった。

「これでも僕は弱虫か」

「ひ、ひぃ――」

 キコリは転がりながら従事から距離を取ろうとする。だが大木に当たりそれ以上逃げることはできなくなった。

 キコリは悔しそうに歯軋りした。そしてメイフェアに焼かれたのであろう、煤だらけの割れた眼鏡を正位置に掛けなおし言った。

「眼鏡さえ壊れていなければ、きさんの攻撃など喰らわなかったものを…」

「目も悪いのか」

「おのれ…おのれ…」

 キコリは再び立ち上がり、吼えた。

「キコリ。お前では僕に勝てない。フラッタのこともあるが、今はそこを退くんだ。命までは取らない。僕は行かなくちゃいけないんだ」

「抜かせー! 我輩はきさんと違うのだ! 勝てない相手だからと、背を向けはせんのだ!」

 キコリは斧を振りかぶった。

「―――!」

 従事は止むを得ず、三角形の尖った先でキコリの腹を貫いた。

 キコリは血塗れの腹を押さえ、目を剥いて倒れた。

 

 

 従事とアリカはキコリを見下ろした。

 キコリの傷は深い。間も無く息耐えるだろう。厭らしいニンゲンと思っていたが、従事は死に際のキコリを見ていると、同情を覚えてしまった。

「我輩は…死ぬのか…」

「言い残すことがあったら聞く」

「遺言などないわ。やりたいようにやって生きてきたからな」

「そうか」

 キコリは顔を顰め、血が溢れる腹を両手で押さえている。

「痛ェ…」

 従事はポケットに入っていた痛み止めの粉をキコリの腹に振り掛けた。命は救えないが、痛みを和らげることくらいはできた。

「――――」

 キコリは腹から灰化し始めた。

 キコリは思い出したように口を開いた。

「我輩はアークビショップを殺したかった」

「何故だ」

「そう大した理由ではない。ただ我輩を馬鹿にする奴らを見返したかったのだ。結果はこの様だが」

 従事はなにか言おうとしたが、言葉を呑み込んだ。死に行く者の心を荒げる必要もないと思ったのだ。そしてキコリは誰にも愛されたことがないのだろうと思うと、哀れにも見えたのだ。

「我輩の死を見取るのか」

「ああ」

「死ぬ時は孤独と思っていた。それも自分の所業のためだ」

「ああ」

 キコリが安らかに死ぬまでここに居ようと、従事は決めた。

 

 

 スプライトは神殿騎士団や七瀬と共に森の奥へと向かっていたが、背後で戦いがあったことを知り振り返った。

「誰と誰が戦っていたんだ?」

「キコリと従事です」

「ダニと勘違い野朗か」

 ポテチの暴言に七瀬は俯いた。

「ポテチ、もう少し言葉を選んでください」

「ダニを庇うのか、スプライト」

「…キコリではなく、従事の方です」

「お前はあいつと長く居すぎたせいで情が移ったのだろう」

 ポテチは部下に声を掛けた。

「お前達。なんたらっていう男を成敗してこい。疲弊した今ならお前たちでもできるはずだ」

「ポテチ!」

「スプライト。俺達にはせねばならんことがある。雑魚に構っている暇などないのだ」

 言葉こそ悪いが、ポテチの言葉は正しかった。今は従事の相手をしている事態ではないのだ。だが、できるなら七瀬は従事に返してあげたかった。七瀬がなにを望んでいるのかはスプライトには分からなかったが。

 スプライトは七瀬の表情を盗み見た。

「……」

 あまり楽しそうではなかった。

 

 

 キコリの全身が灰へと化し始めた。

「従事とやら。最期に頼みがある」

「なんだ」

「我輩は誰とも握手というものをしたことがないのだ。もし、差し支えないなら、我輩を倒したその手を握らせて欲しい」

「ああ」

 従事は快く手を差し出した。

 罠に嵌める気もキコリにはなかった。どうせ消え行く命だ。最期に従事に名を覚えておいて欲しかったのだ。

 キコリは従事に手を伸ばした。

「…………」

 遠くから風を裂く音が聞こえてくる。

 キコリにはそれが従事を狙った神殿騎士団の銃弾だと分かった。

 この身体は灰化し、死に行く定めだ。だが、キコリは今一度身体に鞭を打ち、奮い起こした。そして身を盾とし従事を庇った。

 ぐさりと弾丸はキコリの胸に突き刺さった。

「ぎゃあああ」

「キコリ!」

「うが…うが…痛ぇ…うが…」

 神殿騎士団が取り囲んでいた。

「き、きさんら…」

「反逆者のダニ、ジュージ、及び女! お前達をここで成敗する!」

 神官達は皆火炎放射器を抜き構えた。

 リーダーの男が叫んだ。

「熱菌消毒開始ぃっ!」

 囲まれた従事達に逃げ場などなかった。

 三人は抵抗する術もなく、炎に包まれた。

「よーし! 撃ち方やめい! あとは勝手に焼け死ぬだろう。俺たちがゴミの死に際を見たくない! ポテチ様のところまで戻り、決戦に備えるぞー!」

 神殿騎士団は帰っていった。

 

 

 辺りは既に火の海だ。

 従事は三角形を団扇のように振るい、風を起こし炎を退けているが、このままでは三人とも焼け死ぬのは分かり切っている。

「キコリ。アリカちゃん。無事か…」

 二人は頷いた。

 従事は焦っていた。

 辺りは既に炎に包まれている。徐々に三人を焼き殺そうと迫ってくる。逃げ道など何処にもなかった。

「ジュージ君…」

 アリカが地面の砂を掴み、炎の海に投げかけた。だが、もちろんそんなことで炎の勢いを止めることなどできなかった。

 三角形を振るう従事の腕も徐々に痺れてきた。このままでは三人とも死んでしまう。

「――」

 自身が死ぬのは今まで踏みつけた多くの屍を思えば仕方ないとも思った。フラッタ、ヒルダ、メイフェア、白姫。だがアリカを巻き込んだことはやはり心苦しかった。

「ごめん、アリカちゃん…」

「うん?」

「関係ない君を巻き込んでしまって」

「いいんだよ、あたしはジュージ君と死ねるならそれでいいから」

 なんとかしてアリカを生かしてやりたかった。だが、もはやこの炎から脱出する術などない。従事はがくりと項垂れた。三角形を持っていた手が自然と降りた。

 キコリは笑い出した。

「少々骨があると思ったが我輩の見込み違いであったか」

「なに?」

「所詮はカスのゴミのクズだな。あの嫌われ者のフラなんとかも、こんな連中のために死んだと思うと、笑いが止まらんぜ」

「この期に及んでまだフラッタを侮辱する気か!」

「そうやってすぐに諦める。強い者には立ち向かえない。きさんの弱虫は我輩未満だな」

「キコリ! 僕は…弱虫じゃない」

「そうかね」

「そうだ!」

 アリカが不安そうな目で従事を見ている。

 従事は今一度、三角形を振るい、風を起こし炎を退けた。

 悔しかった。敵だったキコリの言葉で再び立ち上がったことが。

 だが、炎は依然として従事達に迫ってくる。このままではやはり三人とも焼け死んでしまう。なんとかしなければならない。

「アリカちゃん、よく聞くんだ」

「うん?」

「僕はこれから力いっぱい風を起こす。うまくいけば一瞬でも、炎が二つに分かれるかもしれない」

「うん」

「そこを逃げ出すんだ。僕も逃げる」

「わかった」

 だが、従事は気が進まなかった。

 今も地面を這い蹲っているキコリを見た。

 この男にはもう走る余力もないだろう。灰化も進んでいる。

「どうした。逃げる方法が見つかったのなら早く試せ。焼け死ぬぜ」

「ああ」

「我輩のことは気にしなくて良い。どうせ消え行く定めだ」

「ああ」

 従事は覚悟を決めた。

 屍を踏みにじるのはこれで何度目か。今まだ生きているキコリを、従事とアリカの命の延長のためにこれから見捨てるのだ。

 スマンキコリと詫びた。

「いくぞ…!」

 従事は三角形を振り上げた。

 そして大きく力の溜めを作る。この炎の海を真っ二つに裂けるだけの風を起こすのだ。

「――!」

 だがその間、従事が炎を仰ぎ止めることはできなかった。炎は見る見る従事達に迫る。このままでは強烈な風を起こす溜めを作る前に従事達は焼け死んでしまう。

「どうしたらいい――!」

 従事には分からない。だが、例え焼け死ぬ運命であろうとも、最期まで諦めたくはなかった。

「@@@」

 

 キコリが吼えた。

 

 キコリが立ち上がった。

 

 キコリが斧を掴んだ。

 

 キコリが炎の海へと飛び込んだ。

 

「うおおおおおおお」

 キコリは無我夢中、炎の中で斧を振り回した。炎はキコリの迫力に負け、その勢いを一時だが確かに押し止めた。

「馬鹿な! なんてことをするんだ、キコリ!」

「うるさい、我輩の勝手だ! ぎゃあああああ! 焼け死ぬぅぅ! きさんはさっさと風を起こしこの炎の海を割れ!」

「しかし――」

「やれ! いけえ! 我輩の命を無駄にするなぁ!」

「―――!」

 従事は三角形を振り下ろした。

「うおおおおお!」

 キコリが叫んでいる。炎の海が一瞬だが割れた。

 従事はアリカの腕を掴み、炎の中を突き抜けた。

 

 

 キコリの頭は熱さで混乱していた。汗がだらだらと額から垂れた。

 ――オマエガニゲラレナイジャナイカ。

 ――ボクハオマエノサイゴヲミトルトサッキヤクソクシタジャナイカ。

 従事の苦悩の心の声が聞こえた気がした。

(おおおおお)

 キコリは生まれて初めて後悔した。他人との約束など踏みにじって生きてきたキコリが、よりにもよって最期に不必要な約束を交えてしまったのだ。

 従事に約束を破らせてしまった。すぐに思いつめるあの青年に、願わくば約束を破ったなどという負い目を与えたくはなかった。

 キコリは腹に焼けるような熱さを覚えていた。

 そして視界はオレンジの光に包まれていた。

 もう、間も無く死は訪れる。

 キコリは己を恥じた。

 走り去ったあの男と自分がもしも友人であったのなら、ここまで腐ったニンゲンになることもなかったのではないか。

 友人はいなかった。愛するべきニンゲンも、尊敬するニンゲンもいなかった。

 キコリは神官だが神を信じてはいなかった。しかし今だけは祈りたかった。

 ――我輩のような悪魔のために、あの男に罪悪感を与えないでくれ。

「――――」

 それは奇跡か。

 炎は僅かだが、その勢いを緩めた。

 キコリは這い、手を伸ばした。

 従事が手を差し伸べてくれた。

 キコリはその手を掴んだ。そして消え去った。

 

 

 握っていたキコリの手は灰となり、従事の手の中から消え去った。

 キコリは死んだ。

 焼け跡には彼の自慢の斧が墓標のように地面に突き刺さっていた。

 もしもスプライトを殺せば彼女も灰になるのだろうし、ポテチも同様だ。七瀬が灰になり、どの世界にも存在しなくなることを想像した。

 彼女があらゆる歴史から消え去る。それはとても悲しいことだった。

 キコリが死んだ。

 敵だった男だ。フラッタを殺した男だ。それでも従事はキコリの冥福を祈った。

 誰も死なない世界がいい。

 リンカもそう願っていたような気がした。

 

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