-救済の書-
永劫の2章 故郷。
従事は何処かの城下町にいた。通りはヒトが溢れ、露店が立ち並ぶ。従事はスプライト程の歴史考察力を有しているわけではないが、それでもここが中世だということは分かった。
ここは誰かの妄想が生み出した枝の世界だ。樹の世界ではない。いきなり樹の世界へは行かず、まずは枝の世界を飛び回り、世界を知ることにした。
「どうしたものかな…」
特に目的があって来たわけでもなかった。
従事は次の世界へと飛ぶことにした。
従事は無数の枝の世界を飛び回った。
枝の世界は所詮妄想だ。曖昧な理で作られている世界は、それこそ矛盾に耐え切れず、腐り消えていく。
だが、稀に本来の歴史とは別の未来どころか、別の仕組みを持つに至り、尚存続している世界もあったのだ。従事はそれらの世界も見て飛び回った。従事の生まれた枝もそのような、特殊な仕組みを持った世界の一つだった。
様々な世界を飛び回り、従事はこれからどうするか考えた。
「――――」
七瀬やスプライトに会いたい。これが率直な望みだった。
従事は自分の生まれた枝の、時間の、場所へと飛んだ。
視界に広がるのは、千年前の大惨事によって灰を被った大地だ。その大惨事に魔王が現れた時から、この世界は本来の樹の世界から分離した。
その灰色の大地に小さな村はぽつんと立っていた。まだアリカの炎に焼かれる前の時代だ。従事は遠方から村を眺めていた。村は従事とアリカとフラッタが旅立った直後だ。
「――――」
ここは枝の世界だ。歴史を変えることはできるのか。フラッタを死なせず、アリカを苦しめない世界にすることはできるのか。
そして、七瀬に会うことはできるのか。従事が数千年も捜し求めた少女と再会できるのか。だが、今この時間にいる七瀬は従事が最期に言葉を交わした七瀬ではない。従事は無事村へと帰った後、七瀬と短い間だが時を共に過ごした。それはとても大事な時間だ。
それでも七瀬を一目見たかった。従事は村へと歩を進めようとした。
「待ちなさい」
「?」
背後から声を掛けられ従事は振り返った。従事と同じ年頃の若い女がいた。
「誰かな…」
「貴方と同じく枝の世界を旅する者よ」
「そうなのか」
女は頷いた。
「なんの用かな」
「あの村へ行ってはいけない」
「どうしてだ?」
「確かに枝の世界なら私達はその歴史を捻じ曲げることもできる。枝の中なら好きにできるわ」
「らしいな」
「ただ、そんなことをすれば、本来の樹の世界のアークビショップに私達の存在は感知される。すぐに見つかってしまうわ」
「見つかるとどうなる?」
「すぐに飛んでくるわよ。一度狙われたら逃げるのは困難。どの時代、どの時間、空間に逃げても、執拗に追いかけられ、最期は滅ぼされる。多くのダークエナジーを持つものが消されたわ」
「そんなに強いのか?」
「一度でもアークビショップと合間見えれば、その強さの片鱗くらいは分かるわ」
スプライト、そしてポテチを思い出した。あの二人の絶対的な強さに従事は歯が立つだろうか、脳内でシミュレーションした。愉快な結果は出なかった。
「悪いことは言わない。村へは近寄らないほうがいいわ」
「忠告ありがとう。そうするよ」
女は安心したように胸を撫で下ろした。
「では私はもう行くわね」
「ああ、気をつけて。僕は従事って言うんだ。何処かで出会った時は仲良く頼む」
「私、ヒルダよ」
「ああ」
ヒルダは別の世界へと飛び去った。
また独りになった。
七瀬はあの村にいる。村に行けばアークビショップに見つかる。
あの時フラッタを守れなかったのは、アリカを追い詰めたのは、アークビショップ・ポテチの足元にも及ばなかった己の無力が招いた惨劇だ。
勝ちたい。
従事はスプライトから貰った銀の弓棒を手にした。無数の世界を飛び回り、多少の知識は得た。枝の世界を作り、そこで強力な兵器を作り、それをこの世界に持ち込むことも可能だ。だが、所詮作り物だ。見せ掛けだけの武器では然したるダメージを与えることもできないだろう。この弓がいい。
あの惨劇を食い止めるにはどの事件へ飛べばいいか。ポテチに勝つことも大事だが、やはり重要なのは皆が死なないことだ。従事は三人が聖都へ旅立つ時間へと飛ぶことにした。
旅立ちを思い留めることが出来れば。
ただ、従事には分からないこともあった。今ここにいる自分は一体何者なのか。歴史が変われば自分は消え去るのか。あるいは独立した存在として生き続けるのか。
「――――」
どんな結果になろうとも後戻りするつもりはなかった。
従事は時間を飛び越えた。
「む」
まだ、細かい時間の移動に慣れていなかったのだ。従事は着地した世界は、前にいた場所から二十年も前の世界だった。
「あら?」
「ん?」
声を掛けられ振り返った先にいたのは、先程分かれたばかりのヒルダであった。
「なんだ、ここにいたのか」
「うん」
そういえば、二十年後の未来、ヒルダはあそこでなにをしていたのだろう。聞いてみた。
「ヒトを探しているのよ」
「この辺りにいるのか?」
「ええ」
「誰だい?」
「アークビショップ、メイフェア」
初めて聞く名前だ。恐らく三人目のビショップなのだろう。
「会ってどうするんだい」
「殺すわ」
ヒルダはそう言うが、この細女があの絶対的な強さを持つアークビショップに勝てるとは思わなかった。
「あいつらは強い。中途半端な力で勝てる可能性は無いに等しい。そう君自身が言ってたじゃないか」
「私はもうメイフェアに何度も負けている」
「そうか」
「それでも私は勝ちたい。そしてニンゲンに戻りたい」
あの老人も同じことを言っていた。従事はまだ世界を移動する能力を身に付けたばかりだが、永く生きるとそう考えるようになるのかもしれないとも思った。
「そのアークビショップを倒せば、君はニンゲンに戻れるのかい?」
「分からない。でも可能性がないわけじゃない」
「事情が分からないが…」
「他人が聞いて愉快な事情じゃないわよ」
「差し支えなければ聞きたい。僕はまだこの世界のことをなにも知らないんだ」
ヒルダは従事の顔を探るようにじっと見ていたが、やがて肩の力を抜き、従事の隣に座り込んだ。
「私は枝の世界で生まれた。私がまだニンゲンだった頃、メイフェアと出会ったわ。神殿騎士であった私は彼女の部下であったけれど、それ以上に仲が良かったわ」
「神殿騎士団だったのか、君は」
「昔の話のとある世界の、ある一時期だけどね。メイフェアは私のことなんか覚えてもいないと思う」
「仲が良かったのか」
「それなりに」
「殺したいのかい?」
「さあね」
「そのアークビショップを殺せば、君がニンゲンに戻れるっていうのは?」
従事が聞きたかったのはここだった。完全な他人事でもないのだ。だがヒルダはつーんとそっぽを向いた。
「プライベートだから教えられませーん」
教えられないらしい。
ふと、従事は村から離れた場所に森があることに気付いた。悪魔の森だ。
「なあ、ヒルダ」
「うん?」
「あの森、なにか知っているかい?」
「悪魔の森…ね」
ヒルダはクビを横に振った。
「誰も知らないわ。ある時、全ての世界のあらゆる時代に同時に現れた。本来の樹の世界にも」
「最初からあったわけじゃないのか」
「少なくとも、私がこの世界を移動する力を手に入れた時にはなかったわ」
「そうだったのか。ふむ、ヒマなら見に行ってみないかい?」
「私はいいけど…。ただ、あの森はさっき言ってたメイフェアの縄張りよ」
「なるほど。つまり君は村ではなく、森を見張っていたのか」
「そうそう。行ってみる?」
「行こう」
従事はヒルダと共に森へ向かうことになった。女の子と歩くのは楽しいことだった。
悪魔の森へと向かう途中、ヒルダに訪ねられた。
「そういえばあなたはなにか目的があるの?」
隠す必要もないので従事は素直に答えることにした。
「女の子に会いたいんだ?」
「…あなた、変質者? 始めてあった時もずっと村を覗いていたし」
「いやいや。七瀬っていうコに会いたいんだ」
「ふうん、恋人さん?」
「いやいや…」
「片思い」
「いやいや……」
「嫌々って言ってるナナセさんってヒトを無理やり追い掛け回しているの…?」
「いやいや………」
「はっきり言えー!」
怒られてしまった。
森へと入った。
従事が慣れた足取りで森へ入ると、ヒルダは驚いたように声を上げた。
「あなた、この森に入ったことはあるの?」
「普通に生きていた頃はよくここで木の実を取っていたよ」
「そ、そなんだ。この悪魔の森に、ねぇ…」
「…? この森はそんなに危険な場所なのかい?」
「そうね。奥へ入りすぎると戻ってこれなくなる。その先は次元の狭間とも言われているわ。今までたくさんのヒトがこの森の探索に乗り出し、帰ってこなかった。私達ダークエナジーを持つ者も、神殿騎士団達さえも」
「メイフェアというやつは森を調べているのかい?」
「うん。いい? アークビショップは特別だと思って。私達では勝てない。力の差が大きすぎる」
「分かっている。僕も戦ったことがある」
「誰と戦ったの?」
「アークビショップ、ポテチだよ。全く歯が立たなかった。仲間を一人殺させてしまった。そして一人の女の子を不幸にした」
「…余計なこと聞いてごめん」
「大丈夫だ。大分奥へ来たな」
天は高い木々に覆われ、辺りは昼だというのにすっかりと暗くなってきた。いつか、アリカやフラッタと共に森に入った時のように、悪魔の視線を感じる。
「ヒルダ、気付いているかい?」
「視られている…」
従事とヒルダは立ち止まり、辺りを見渡した。
「アークビショップか…」
弓を手に取る従事にヒルダは振り返った。
「もしメイフェアが現れたら私は戦う。あなたは巻き込まれたくなかったら退避しなさい。この森の中では時間や空間は移動できないから、もしここから飛ぶなら森を抜けてからにしなさい」
「僕もそのメイフェアに会うことにしよう」
「どうして?」
「女の子を放って帰るのはよくないことだと思う」
ヒルダは肩を竦めた。
――従事は確かに悪魔の声を聞いた。
生者はそんなに死体のことを忘れたいか。
生きることが精一杯か。
死者の陰鬱など微塵も感じる余地なしか。
ならば死者や死者予備軍も生者への敬意を忘れ、世界に死を振りまくことも許されるだろう。