-救済の書-
時の流れの2章 古代。
雲は風に吹かれ、どこまでも流れていく。
空は透き通るような青さだ。
従事達の時代ではどす黒い空と、灰色の雲、夕焼けの不気味な赤いヒカリが天を覆っている。
また千年の時が流れた。
順調に行けば、あと三千年弱で元の世界に戻れる。
風の音を聞いていた。
下界ではそろそろ大きな宗教がニンゲン達の間に広がる頃だろう。
「従事」
「うん?」
「二千年経ちました。まだ七瀬さんへの想いは揺らぎませんか?」
「大丈夫だ」
揺らいではいない。
だが捩れている。ずっと七瀬を求めるこの心は、確かに長い時間の中でそれを忘れることはなかった。忘れたくなかった。それは執着心にもなっていた。
すぐに脳みそに浮かぶ夕日と七瀬の笑顔。それらは従事には七瀬しかいないと訴える。だが何故七瀬が好きなのか。七瀬の何処が好きなのか。もしもそう問われれば、従事には答えることはできなかった。七瀬を好きであることを全ての前提としている。おかしいと自分で思ったこともある。
スプライトは顔を曇らせた。
「今の貴方からはダークエナジーを感じます…」
ダークエナジー。
久しく聞いていなかった言葉だ。確かアリカもダークエナジーを持っていたと、未来の世界で始めて会ったスプライトは言っていた。
「僕にもダークエナジーがあるのか」
「今はまだ小さいですが、少しずつ大きくなっています。なにか憂いがあるのではないですか?」
憂い。
「ない」
大丈夫だ。
この異様な執着心も彼女に久しく会っていないからだ。会えば元の生活に戻れる。
誰かが山を登ってきた。
岩陰に隠れてこちらの様子を伺っていた。
「敵かな」
「そうでもないみたいですよ」
スプライトは生命のメダルをクビから外し、従事をその場に残したまま岩陰に近づいた。
「スプライト、大丈夫かい?」
「ちょっと待っていてくださいね」
岩陰の誰かはスプライトの接近にどうしていいか分からず、震えているようだ。
スプライトは相手を怖がらせないよう、両手を挙げてこちらに敵意がないことを示して近づいた。
そこにいたのはスプライトよりも少し若い少女だった。
言葉も通じない。スプライトは優しく笑いかけた。少女も笑った。
「……」
少女は胃を押さえた。どうやら空腹らしい。
友好の印にスプライトが木の実を差し出すと少女はそれに飛びついた。これは良い関係が築けそうだ。
スプライトは少女を従事の所へ連れ帰ってきた。貧しそうな少女だった。
「誰だい、そのコは?」
「なんだかおなかをすかしているみたいです。そろそろ貧富の差が大きくなってくる時期ですね」
従事はにこりと笑いかけた。
少女はびくりと震えて、スプライトの陰に隠れた。
「怖がらせたら駄目ですよ?」
「笑っただけなのに…」
「怖いのでしょう」
怖いらしい。
「言葉も通じないのにどうするんだ?」
「おなかすかせてるようですから、少し食べ物取りを手伝って家に帰してあげようかと。従事もずっと寝てばかりいては、感覚も訛るでしょう?」
「それもそうだな」
最後に弓を手にしたのは数百年前だ。たまには弓を引かねばいざ危機に面した時、腕の鈍りが敗北を呼びかねない。
「みんなで木の実と肉を取りにいこう」
女二人は喜んだ。
皆が喜ぶと従事の気分も良くなった。
スプライトはクビからメダルを下げ、少女と従事を連れ森へと入った。
本来なら寿命は無駄に削るべきではない。従事と二人、メダルをクビに紡ぎ眠っているべきだ。だが、腹を空かせた少女を置き去りにするのは、余りにもニンゲンとして優しさが欠けるとも思ったのだ。
従事にメダルを預けようと思った。
見知らぬ少女を助けると言い出したのはスプライトだ。ならば己が歳を取るべきだ。だけど、従事はスプライトにメダルを預けた。
彼はこう言った。
「僕のことは気にしないでくれ」
少女は男が怖いのか、従事から距離を取りスプライトの隣を歩いていた。時折、スプライトの腕にしがみ付いてくる。無碍に扱うのは苦手だ。
歩きにくいが我慢した。
「ここが良いですね」
見上げると、よく熟れた木の実が成っていた。
従事が弓を構え、矢を放った。
数個の木の実が大地に落ちた。スプライトと少女はそれを拾い集めた。大収穫だ。
「どうぞ」
スプライトは集めた木の実を少女に手渡した。
そして少女にそれを持って村へ帰るよう、身振り手振りで伝えた。
少女は見る見る悲しそうな顔になり泣き出した。
「え、あ、あの、どうして泣かれるのですか。じ、従事?」
スプライトは困り果て従事に助けを求めたが、従事は弓を射るのが楽しいらしくこちらを見ていなかった。
「……」
スプライトはまだこの少女の名前も知らないことを思い出した。
自分を指して、「スプライト、スプライト」と名乗った。従事を指して「ジュージ、ジュージ」と教えた。
少女は名乗りの意味が分かったのか、自分を指して言った。
「マリー」
「そうですか。マリーですね」
マリーはにこにこと笑いスプライトに抱き付いてきた。
「村に帰りたくないのですか?」
言葉が分かったのか、マリーは頷いた。
よく見るとマリーの身体には無数の傷が付いていた。鞭の跡だ。
「その子、逃げた奴隷じゃないのかい?」
従事は弓で果実を撃ち落としながらそう言った。
「奴隷?」
「ニンゲンがニンゲンをアイテムのように使うことだよ」
「いや、言葉の意味は知っていますが」
どうしようかと悩んだ。
マリーには帰る場所もない。だがいつまでも一緒にいてやれるわけもない。
「どうしましょう、従事…」
「どうしよう」
「マリーはどうしたいですか?」
マリーはスプライトにまたしがみ付いた。
一緒にいたいらしい。
だが、それは駄目だ。
この身は再び不老不死となり、従事と共に未来の世界まで生きねばならないのだ。情が移る前にマリーとは別れなければならない。
「よく聞いてくださいね、マリー。私達は今から遠くに行かなければなりません。貴女と一緒にいることはできないのです」
そう言い、スプライトはマリーを引き離して、従事と共に去ろうとした。
マリーはスプライトの腕を掴んだ。
「マリー!」
スプライトは少し強く言った。だけど、マリーは寂しさではなく、別のなにかを訴えるようにクビを振っていた。
暫くしスプライトと従事が向かう筈だった道に大木が倒れてきた。
もしも、マリーが引き止めねば今頃メダルを付けていない従事は圧死していただろう。
「マリー?」
マリーはぐっとスプライトと従事の腕を握った。
奇妙な情報が耳や目からではなく、脳にイメージとして沸いてきた。
――マリーの意思が心の中に流れ込んできた。絶望のイメージが脳みそに直接刻み付けられる。
生まれた時から死ぬまで陰鬱を約束されたニンゲンの感情。鞭を打たれる痛み。性欲の慰み物にされる身体。スプライトの中に負の感情が流れ込んでくる。傷む頭を抑えた。
従事の顔を見ると、彼も同様だったことが分かった。
「マリー、君は一体…」
従事は掠れた声でそう言った。
続いて流れてきたのは未来に起こる出来事だ。
マリーは未来を見ることができる。だから自分の残りの人生を汚物だと分かり、絶望している。スプライトと従事の中に未来の情報が流れ込んでくる。
これから従事がスプライトと歩む歴史。
今から千年の時が流れ築かれた中世。
その千年後、機械文明の頂上時代。
「――――」
従事は頭を抑え呻いた。
七瀬と一緒に夕日を見たあの未来がない。
マリーの見せる未来には従事というニンゲンはいなかった。
マリーが見た絶望の未来が従事の中に流れ込んできた。
未来の世界に七瀬もいなかった。
映像の中、従事は七瀬を探した。
未来に七瀬がいないのなら何のために永い時間を生き、何処に向かっているのか。そもそも、従事のいたあの世界は歴史に存在しないのか。頭が割れるように痛んだ。
それでも従事は七瀬を探した。
宇宙が生まれてから滅びるまでの永い時の中から、七瀬というたった一人のニンゲンを探した。
それは忘れたなにかを思い出す行為のようだった。記憶という大きな海の中にある欠片をなんとかして思い出す。それと似ていた。
七瀬を探し続けた。
そして、従事は時空の狭間にて奇妙な日記を見つけた。
暗黒の狭間に本が浮かんでいたのだ。