-救済の書-

狭間の3章 友愛。


 

 スプライトに初めて矢を向けてから数ヶ月が経った。

 未だ彼女には勝てずにいた。

 戦う度に確かに従事は技術を身につけた。幾らかは強くもなった。だけど強くなればなる程、スプライトの強さの絶対性を思い知った。

「従事、朝ごはんにしましょう」

 スプライトの声が歪み、くぐもって聞こえた。水の中で声を発するように聞こえた。

 疲れているのか。

「どうしました?」

「なんでもない」

「そうですか? 顔色がよくありませんよ」

 時間移動をしたという事実が、非道く馬鹿げたことに思えてきた。

 そんなことが実際にあるのか。

 騙されているのではないか。

 従事は頭を振り、現実逃避の考えを追い払った。

「スプライトはどうしてそんなに強いんだい?」

「まだまだ未熟ですよ」

「僕から見たら十分強い」

「もし、そう見えるのならそれは守るべきものがあるからです」

「僕にもある」

 七瀬を守りたかった。

 やはり、己とスプライトの違いは鍛錬の差かと従事は思い知った。

「スプライト」

「はい、なんでしょう」

「僕は君というニンゲンが好きだ。いや、変な意味じゃなくて――――ぅ…!」

 七瀬以外のニンゲンに『好き』という言葉を吐いたことが、従事に強烈な嫌悪感を募らせた。従事の脳みそをあの夕日が焼き付ける。スプライトに好きと言ったのは恋愛的な意味ではなく、仲間として好きという意味だ。なのに『好き』という単語は魔力のように従事を締め上げた。アリカがフラッタに『好き』を連呼していたのを思い出した。『好き』というのは特別な力を持つ言葉だと思った。

 七瀬以外にこの単語を使ったという自責が従事にダメージを与えた。

「私も従事は好きですよ」

 従事は頭の痛みをスプライトに悟られぬよう言った。

「…食べたらまた君に弓を向ける」

 スプライトは肩を竦めて言った。

「いつでもいいですよ」

 

 

 矢を放つ。

「――――」

 スプライトに向かって何発も放つ。

 弓兵の戦いは己との戦いだ。相手の回避力は問題ではない。矢は「心のストーリー」だ。次の矢へ紡ぐのに最善の一手を撃ち込む。

 全ての一手は次の一手への布石だ。

 撃った矢はスプライトに当たらず、彼女の残像を突き抜け洞窟の壁に突き刺さった。

「何回も同じ手でやられるのは感心しないですよ?」

 スプライトは従事の目の前にいた。

 ソードの柄で従事の頭を叩き付けた。

 メタル製のグリーブで従事の腹を蹴り上げた。

「@@@」

 この瞬間を待っていた。スプライトのグリーブに腹を抉られ、裂かれるような痛みを覚えながらも、従事はその足を掴んだ。

「君も何回も同じ手段でトドメを刺そうとする…」

「……」

 分かっている。

 スプライトは従事を殺さぬよう、あえてソードの刃を使わないのだ。そこに付け入るのは卑怯か。卑怯だと分かっていたが、掴んだ足は離さなかった。

 スプライトは好きだ。

 だけど、七瀬はもっと好きだ。

 スプライトは強い。その強さは従事では永久に到達できない高みだ。今、スプライトを倒さねば、メダルは決して手に入らず七瀬にも会うことは適わなくなる。

 覚悟はしていた。スプライトを斬ることの。その最初で最後のチャンスがこの一瞬だ。

 スプライトの足を掴んだままのこの接触距離では弓は使えなかった。なにか武器はないかと考え、従事は懐に入ってあったナイフでスプライトの鎧の隙間を、腹を凪いだ。

 ナイフはフラッタのライトニングベインだった。

「――――」

 湯のように熱い血がスプライトの腹から流れた。

 それでも気丈にスプライトは従事の身体を蹴り飛ばした。

 

 

「……っ」

 スプライトは斬られた腹を押さえていたが、やがて立っていられなくなったのか、その場に座り込んだ。

 傷は深い。致命傷だ。

 顔色が悪くなり始めたスプライトは息も絶え絶えに言った。

「従事の勝ちです…」

 クビを横に振った。

 実力で勝ったとは思えなかった。スプライトは間も無く死ぬ。正攻法以外の戦いで、スプライトの騎士としての人生を汚したのだ。

 一緒に食を取ったことを思い出した。スプライトの笑顔を思い出した。スプライトの優しい騎士としての強さを思い出した。それらを汚い手段で踏みにじったのだ。

 全ては七瀬に会うためだった。スプライトの全てを踏みにじってでも、守りたかったものがあったのだ。

「メダルは何処にあるんだ?」

 スプライトはメダルを持っていない。もし手にしていたら、こんな傷などあの老人のように癒されるはずだ。

 弱々しくスプライトは洞窟の奥を指差した。

 そこには暗い洞窟の中でも、僅かなヒカリを浴びてきらきらと輝いているメダルが置かれていた。

 スプライトは目を閉じた。死を覚悟しているのだ。スプライトをその場に残し、メダルを取りに行った。

 従事は足元を調べた。

 生命のメダルを手に入れた。

 

 

「スプライト、このメダルはどうやって使うんだ」

 肩を揺すってもスプライトは反応しなかった。激しい出血が彼女の意識を既に奪いつつあるのだ。

「スプライト! 教えてくれ!」

「――」

 スプライトの目は既にヒカリを失っていた。なのにまだ死ぬことも許さず、従事はスプライトの肩を揺すり続けた。

 使い方が分からなければ、なんのためにスプライトを斬ってまでメダルを手に入れたのか。それは非道い結末だ。

 スプライトの口が動いた。従事は口元に耳を近づけ、弱々しい言葉を聞いた。

「――クビに―――掛ける――」

 クビから掛ければ効果が出るらしい。

 スプライトを助ける。スプライトを助けない。選択できるのだ。

 従事はスプライトのクビにメダルを掛けた。

 

 

「なにをしてるんですか…」

 メダルの力によって傷の癒えたスプライトは、呆れたように肩を竦めた。

「せっかく勝ったのに。もう勝てませんよ…」

「僕は」

 情けない話だった。

「…スプライトともう話すことができないのも、笑ってもらうこともできなくなるのも嫌だった。この身は七瀬のためにあると信じていた。彼女を守ると約束した。なのに…」

「私を倒さないと七瀬さんに会うことはできないんですよ…?」

「僕にはできない…。クチだけだった…見知らぬやつなら百万人殺せても、スプライトは殺せない…」

 従事は七瀬を守り、彼女と幸せを掴むことを目的として生きてきた。その道を自分の手で閉ざしてしまった。

「泣いているのですか」

「馬鹿な」

 スプライトを失いたくなかったのだ。本当はフラッタやアリカも失いたくなかった。皆が幸せになれるならそれが良かった。

「背負いすぎなんですよ…」

 スプライトは従事の頭を抱き寄せた。

 柔らかな胸の感触は味わえなかった。彼女が鎧を着ていたからだ。

 

 

「失礼します」

 スプライトは従事の胸元に頭を預けた。

「なにをっ…! 腐っても僕には七瀬という大事な女性がいるんだっ!」

「なんてことを言うのですか。こうするのです」

 怒ったようにスプライトは言い、生命のメダルの紐を従事とスプライト、二人のクビに掛けた。

 従事は不老不死の力を得た。

 スプライトは不老不死の力を得た。

「スプライト…」

「はい?」

「最初からこうすれば、二人でメダルが使えたんじゃないのか…?」

「従事はもう少し強くならないといけませんから」

 スプライトは従事を鍛えていたのだ。

 命を賭けてまで、従事との戦いに付き合ってくれたのだ。

 それなのに、従事は姑息な勝利を選んだ。己を恥じた。

「僕は馬鹿だな…」

「そうですよね。馬鹿正直ですよね」

「僕はまだこのメダルを身に付ける資格なんてない。まだ弱いんだ」

「そんなことありません。強くなりましたよ」

 それでもスプライトには勝てなかった。

「私とここまで戦いあったのは、ポテチと貴方だけです」

 スプライトと戦い合えるのだ、ポテチは。彼には勝ちたかった。そういえば、従事はスプライトのことをなにも知らないのだと気づいた。

「僕はスプライトのこと、まだなにも知らないや」

「なにか知りたいことありますか?」

 従事はなにを聞こうか迷ったが、無難なことを聞くことにした。

「好きなヒトとかいる?」

「いきなり野暮な質問ですね…」

「そうかな」

「そうですよ」

 野暮だったらしい。

 

次へ進む  タイトルに戻る