-救済の書-
ミドリの1章 太古への帰還。
従事は眩しい陽のヒカリを受け、目を開いた。
可笑しな話だった。
空が汚染され、地球が無数の塵に包まれているのなら、こんなにもはっきりと太陽が見える筈などなかったのだ。
草原の中で眠っていた。無数の虫が従事の足元を行き来していた。
ここは何処だと、従事は辺りを見渡した。
右を見た。
左を見た。
どこまでもミドリが広がる大草原だった。
ここは何処だろうとクビを捻った。
「目が覚めましたか」
従事が振り返ると聖なる鎧を身に着けた少女がいた。
美麗な金の髪が太陽のヒカリを受け、神々しい輝くを放っていた。
神殿騎士のスプライトだ。アリカに矢を撃たれた腹は手当てを済ませたらしい。
「ここは何処だ? 他の皆は?」
スプライトは最初の問いには答えられず、二つ目の問いには「無事だといいですね」と答えた。
従事はこの少女を好きにはなれない。あのポテチの仲間に好意など持てなかった。
そんな従事の心を読んだようにスプライトは言った。
「非常時ですしお互い手を取り合いませんか? 貴方が私達を憎む気持ちは分かっているつもりですが」
分かっているつもりらしい。
「それでここは何処なんだ? そもそもここは地球なのか?」
辺りに生い茂るミドリは、悪魔の森のように青々しく生に満ちていた。とてもあの死の大地が地平線まで広がる地球とは思えなかった。
スプライトは肩を竦めた。
「地球だとは思います。太陽の大きさや動きからそう推移できます」
「見るだけでそんなことが分かるのか」
「分かるんです」
「そうか」
分かるらしい。
「ただ、気になっていることもあります」
「僕もだ。ここは余りにもキレイだ」
「そうですね、空気も綺麗です。あと、私達以外にはヒトの気配がないです。動植物は多いですが」
ふむ、と従事は頷いた。
「あの…大変言い辛いことなのですが…」
「うん?」
スプライトは迷っていたようだが、意を決したらしく口を開いた。
「ここは私達のいた地球には違いないですが、四九九九年前に時間が移動していますね…」
君の頭はプリンでできているのか、と従事は鼻で笑った。
「この辺りにいる小動物のうち、数種は過去に絶滅したものです。見たことないものもいるでしょう?」
確かに今、足元を蠢く数十本も足がある虫などは生まれて初めて見た。
「僕達が気絶している間に何処かに運ばれたとか?」
「地球のどんな場所でも、これだけのミドリが生え揃う場所は悪魔の森くらいですよ」
確かにそうだ。だが、認めたくなかった。
スプライトの言うことが事実なら、自分達は過去へと飛ばされてしまったことになる。決定的な証拠を見せられるまで、そんな馬鹿な事態を認めたくなかったのだ。
「どうぞ」
スプライトはポケットから時計を取り出した。従事も知っている。この時計は高性能らしく、星の動きから時間を読み取り僅かな時間のずれもない、完全に信頼できる最高の時計だった。年号はマイナスを指していた。
「事態が呑み込めました?」
どうやらここは過去の世界らしい。
地平線まで広がる草原を見て、従事は七瀬がこの場にいないことに気付いた。
「ここには僕達しかいないのか?」
「あなたが眠っている間に辺りを調べました。でも誰もいなかったですね」
「ここが過去の世界だと仮定しよう。あの時、アリカちゃんの炎に包まれた皆もこの世界に飛ばされたと思うかい?」
スプライトは顔を曇らせた。
彼女とて怖いのだろう。この世界にニンゲンが二人しかいないと認めることが。
「ごめん、困らせるようなことを言って…」
スプライトはクビを横に振った。
「気になさらないでください。ところで先ほどの提案、受け入れて頂けないでしょうか」
「提案?」
「はい。七瀬さんや私の部下を見つけ出すにしろ、元の世界に戻るにしろ、それまでは協力しあいませんか」
「僕なんかが役に立つかな」
「頑張りましょう?」
スプライトの優しげな目は七瀬を思い出させた。
「わかった。お互い協力しあおう。とりあえずどうしようか」
「最初にすべきことは食べ物と睡眠を取る場所の確保でしょうか。それとこの時代にヒトがいるかどうかの調査ですね」
なにが食べられるか、従事は辺りを見渡した。確かに植物も動物もあるが、どれが安全であり、どれが毒であるのか見分けはつかなかった。
「ここは時間こそ過去に遡っていますが、位置は変わっていないようです。四九九九年後にはこの辺りに村があるんでしょうね」
スプライトは辺りを見渡し、そしてある方向で視線を止めた。その先には森があった。
「となると、あれが悪魔の森ですか。行ってみますか?」
「ああ」
森に見知った樹があるなら、食べ物の収集も安全に行えるだろう。
行ってみることにした。
森の中は昼間なのに暗かった。
成長の良すぎる木の葉が太陽のヒカリを遮断しているのだ。
「お。これなら食べられるな」
未来の世界で従事と七瀬が採っていたものと同じ木があった。
従事は小型弓を木の実に向けた。
「弓…を使われるのですか?」
「ああ。どうもナイフとかソードは苦手なんだ」
「そういえば、アリカさんも弓を使っておられましたね」
フラッタはナイフを好み、従事は弓を好んで扱っていた。アリカが弓を選んだのは他意もあったのだろうか。
従事が木の実を撃ち落し、スプライトがそれを集めていく。七瀬とも同じことをやったな、と思い出した。
「そうだ。自己紹介がまだだった。僕は従事と言うんだ」
「私はスプライトです。ジュージさんでよろしいですか?」
「呼び捨てでいいよ」
「では、ジュージ。よろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ。よろしく、スプライト」
スプライトはにこりと笑った。
笑えば年相応の可愛らしい笑顔だった。
「ジュージって変わった発音ですね。ナナセさんもですけど。どういう字を書くのですか?」
従事はどう説明しようか悩んだ。地面は草が生え揃っているので足元に書くことはできなかった。ポケットにナイフが入っていたのでそれで木に刻むことにした。フラッタの形見にと持ち帰った、彼のライトニングベインだった。
――『従事』、『七瀬』と樹に刻んだ。
「――――」
七瀬の名を刻んだ時、従事は頭を抑えて唸った。
あの時、七瀬と一緒に見た夕日が脳みそに浮かび上がったのだ。
真っ赤な太陽を忘れないと誓った。七瀬の笑顔が過ぎった。。
スプライトは刻まれた文字を見て訝しげな顔をした。
「昔のジャパンやチャイナの文字ですね…」
「…あ、ああ。そもそも誰が僕に名前を付けたのかもわからないんだ」
「そうなのですか?」
「名前だけ書かれた捨て子だったらしいよ。七瀬のほうは知らないけど」
「…あ。すみませんでした」
スプライトは慌てて頭を下げた。
「気にしないで。キミはいいヒトだな」
「そうでしょうか」
「神殿騎士団なんて大嫌いだったけど、スプライトみたいなヒトもいるんだと思い直した」
「大嫌い…ポテチのことを言っておられるのですか?」
ポテチ。
従事達を容易く倒し、フラッタを処刑したあの男の顔を思い出した。ついでに彼の部下の神官キコリの顔も思い出した。
「そうだな…」
「もしも、私がポテチと同じ立場であったのなら、やはり私は咎人を処刑していました。それが自分の仕事だからです」
「そうか」
「私もポテチと同じですよ。ただ貴方との出会い方が違うだけでした」
「出会い方か。そうかもしれないな」
ポテチとて職務を果たしたに過ぎないのだ。快楽殺人をしたわけではない。それでも、従事はあの男を許すことはできなかった。
四九九九年前でも悪魔の森はあまり変わらなかった。
幾つかは初めて見る生物こそいたものの、多くは馴染んだ動植物だった。夜になると真の闇が訪れ、なにも見えなくなるのも同じだった。
スプライトの所持していた火機で焚き火を起こし、弓で射た猪を焼いて食った。焚き火のおかげで最低限の灯りを確保することもできた。
「これからどうしましょうか」
「火が灯せるなら獣に襲われることも減るな。見張りは必要だけど、とりあえず寝場所もなんとかなりそうだ。できれば雨には備えたいけど」
「そうですね」
「これからどうするかだけど、僕は七瀬を探すか、元の世界に戻る方法を探したい」
「はい」
「スプライトは?」
「私の部下の捜索もご一緒に願えるのなら賛成です」
「もちろんだ。とは言っても、この世界に来たのは僕達二人だけかもしれない」
「はい」
「そこで明日、陽が昇ったらこの辺りの捜索を行おうと思う。探すものはヒトの痕跡」
「はい」
「じゃあ今日は寝よう」
「はい」
今後の方針を決める会議は無事終了した。
朝日が昇り、従事はスプライトと共に辺りの捜索を開始した。
ヒトの気配を探すのだ。
「……」
スプライトは妙にそわそわとしていた。顔色も悪く、冷や汗まで流していた。
「どうしたんだ? 大丈夫かい?」
「いえ…平気です…」
だけど、スプライトの足取りは少しずつ重くなってきた。
「従事、手分けしませんか。別行動の方が効率いいでしょうし。一時間後、ここに集合というのはどうでしょう」
「危険だろう? というか大丈夫かい?」
「いえ、危険じゃないです。そして大丈夫です!」
いつもと様子の違うスプライトに従事はクビを傾げ、聞いてみた。
「トイレかい?」
「な――!」
スプライトは顔を真っ赤にし、金属のグローブを装備したまま、従事の顔面に拳を叩き込んできた。
トイレらしい。
殴られた鼻頭は痛かった。多くの鼻血が流れた。