-救済の書-

地球原生期の4章 テンシ。


 

 従事と七瀬が森に向かうのを、アリカはずっと窓から見ていた。夜になってもまだ帰ってこない。

 二人が仲良くしているのを見ると、胸が痛くなり悲しくなった。

 ――私は裏切り者。フラッタを裏切った。

 何度もそんな言葉が頭に過ぎる。眠っている時間だけが安息だ。

「――――」

 自責だけではなかった。フラッタを失った悲しみと七瀬への嫉妬もあった。

 流してはいけないはずの涙が零れ続けた。

 大事なフラッタを犠牲にしてまで従事を生かしたのだ。だけど、従事を手に入れることはできない。七瀬がいるからだ。

 従事はずるいのだ。神殿騎士団から逃げる時、悪魔の森でもアリカに好意があるように見せかけ、その実好きなのは七瀬なのだ。

 だけど、己もフラッタを好きだと欺き恋人の役を演じ続けた。一番好きなのは従事だったけれど、それを言えばフラッタを失った。従事も自分もそう変わらない。

 それでも二番目には好きだったのだ。

(あたし、裏切り者だ)

 涙はいつまでも枯れなかった。

(幸せになる資格も権利ももうないね)

 ――ソンナコトナイヨ。

 そう言って欲しい従事も今はここにはいない。七瀬の隣にいる。七瀬と森にいる。彼女に優しい言葉を掛けてもらっているのだろう。

「―――」

 非常に勝手だと分かっている。

 だけどフラッタまで失ったのだ。

 神も神殿騎士団も残酷だ。やはり自分が殺されていたほうがよかった。

 ――扉がノックされた。

(今は誰とも会いたくない)

 アリカは膝を抱き、蹲って泣き続けた。

 だが、ノックの音はいつまでも止まなかった。やがて、扉を叩く音は徐々に大きくなっていった。

 アリカには分かった、これは地獄からの使者だ。

 そう思い扉を開けた。

 

 

「従事?」

「ん?」

「もう陽沈んだよ、帰ろ?」

 七瀬はなんだか哀しそうな顔をしていた。

「どうしたんだい、七瀬?」

「なんでもない」

「大丈夫かい?」

「だいじょぶ。帰ろ?」

「ああ」

 名残惜しいがいつまでもここにいるわけにはいかない。

 村へと帰ることにした。

 立ち上がり、辺りを見渡すとすっかりと暗くなっていた。

 村への道のりはガラスと砂鉄の荒野だ。足元を気遣わねば傷を負ってしまう。だが、こう暗くては足元の状況は分からない。

 天を見上げたが、月は見えなかった。今日は新月だ。

 従事は七瀬の手を握り、自ら先行した。

「七瀬は僕の後ろをついてきて」

「ありがと」

 こうすれば七瀬が怪我をする可能性は減る。

 七瀬の手は冷たく、小さく、柔らかかった。強く握ると骨を砕いてしまいう程儚かった。従事はその手を大事に引いた。

 大事な七瀬は自分が歩いた安全な道を歩かせる。ガラスや砂鉄などで怪我をさせたくない。

「痛っ…!」

 振り返ると七瀬は足を押さえて蹲っていた。

 七瀬は運動神経も鈍ければ、不器用で鈍感なのだ。

「足、見せてごらん」

 守ってあげたいのだ。

 

 

 村が近づくに連れ、従事は明らかな違和感を覚えた。

 エネルギーが少ない村は、夜は死の村と呼んでも差し支えないほど暗く、静まるのだ。だが遠目に見る村は明るかった。

 そして騒がしかった。

「……村が燃えてる」

 七瀬がぼそっとそう言った。

 言われてみれば、確かにそう見えないこともなかった。どちらにせよ、あの村の灯りは尋常ならざる事態の報せだった。

「――――」

 早く村に戻らねばならない。七瀬を連れていくべきかどうか。もし村が危険に満ちているのなら七瀬を巻き込みたくない。だが、この荒野も安全とは言えないのだ。

 悩んでいると、悪魔の森から無数の足音が聞こえてきた。

 現れたのは神殿騎士団達だった。だが、ポテチやキコリやその部下ではない。隊長は従事達よりも若く、美しい顔立ちをした少女だった。

 胸のネームプレートには『スプライト』と刻まれている。

 黙っているとスプライトは声を掛けてきた。

「失礼、村の方ですか?」

 従事はすぐには返事をすることができなかった。この女の仲間がフラッタを殺し、アリカの心を地獄に突き落としたなどと考えると、とても友好的に接することはできなかった。その原因が自分達の窃盗であったとしてもだ。

 だが、神殿騎士団の向かう先には村がある。

 捨てて置くわけにはいかなかった。

「ああ。僕達はあの村のニンゲンだ」

「避難されているのですか?」

「避難? 村でなにが起きているんだ?」

 神殿騎士団などと話したくない。だが今は好き嫌いよりも七瀬やアリカ、村のニンゲンの安全を選んだ。己の感情など二の次だ。情報が欲しい。

「悪魔が逃げ込みました。我々はそれを追っています」

「悪魔?」

「一刻を争います。質問があるなら移動しながらお願いします」

 スプライトはそう言い、従事達の隣を通り過ぎた。

 従事は七瀬の手を引きながらスプライトの横に並び、駆け足のまま質問を続けた。早足で連れられ七瀬は苦しそうに喘いだ。

「悪魔ってなんだ?」

「千年前、当時の支配者に甘言を吐き、惑わし、最終戦争を勃発させた悪魔です。奴は我らが聖都の地下に封印していたのですが、先日の盗賊騒動により、その邪悪な精神が逃げてしまったのです」

「盗賊か。だが盗まれたお宝は神殿騎士団が取り返したんだろう?」

 スプライトは振り返った。哀れむような目をしていた。

「やはり貴方達でしたか。もっとも貴方達は既にポテチから罰を受けた身です。古い悪行について責めはしません」

「言っておくけど七瀬は窃盗には関わっていないからな」

「分かっています。罪人の名前と顔は全て覚え、ここに来ています」

 スプライト達は再び駆け足で村に向かいだした。

 従事と七瀬もその後に続く。

「僕達はポテチという男にお宝は返した。どうして悪魔が蘇るんだ?」

「確かに肉体とも言えるメダルはポテチが取り返しました。だけど、その邪悪な意思はダークエナジーを持つ者へと憑依したようです。やがて、肉体を得た悪魔は本来の肉体を取り戻すべく、聖都へ攻め込んでくるでしょう。私達の任務はそれを未然に防ぐことです」

「ダークエナジー?」

「負の感情です。痛み、悲しみ、妬みなど」

 真っ先に思い浮かんだのはアリカの顔だった。

「…誰に憑依したんだ」

「神殿騎士団は全て検査に掛けました。フラッタさんは死亡、残りは貴方と、アリカさんだけですが、貴方からは邪悪な力は感じませんね」

 じゃあアリカなんだな、と従事は思った。

「従事、あれ…」

 七瀬が前を指した。村は燃えていた。よく燃えていた。

 まだ生き残っている数人の村人は、災禍の村から逃げ出そうとしていた。その村人の背に少女のヒト影が飛び掛かった。

 村人の頭を少女の両手が掴んだ。村人の頭はぐるぐると回転させられ、捩じ切られた。従事はフラッタを思い出した。

 死んだ。

 炎を身に纏った少女はアリカだった。燃える村を背に、神殿騎士団と従事、七瀬と向かい合った。

 その間に他の村人は逃げようとするが、アリカはそれを見逃さなかった。一瞥するだけで、逃げていた村人達は悲鳴を上げ、燃え上がった。

 死んだ。

 七瀬が痛い程、従事の腕を掴んで震えていた。

 

 

 外見はいつものアリカと同じだった。

 よく笑い、よく泣き、従事やフラッタ、七瀬とともに森へ狩りに行っていたアリカだった。だけど、その身体からは炎が燃え盛っていた。

「アリカちゃん!」

「――――」

 敵意を撒くアリカに従事の声は届いたか。

 アリカはゆっくりと近寄ってくる。アリカの身から吹き上がる灼熱の炎は踏みしめた大地すら溶かし、沸騰させていく。

「退がって」

 従事や七瀬を庇うように、スプライトがアリカの前に立ちソードを抜いた。スプライトのソードは美しい銀色の輝きを放っていた。

「あの炎は強い放射能を含んでいます。千年前、世界を焼いた悪の炎です。私の後ろから離れないでください」

 小柄なスプライトから発される黄金の闘気はバリアのように、神殿騎士団や従事、七瀬をアリカから守るように包み込んだ。

「アリカちゃんはどうなるんだ」

「ああなってしまっては、もはや救うことはできません。クビを撥ね再びメダルに封印します」

 ――クビヲハネ。

 クビを刎ねられて死んだフラッタを思い出した。クビが取れて死ぬアリカを想像した。

 スプライトはジョークを言っているわけではなかった。静かだが、強すぎる闘気がその身から吹き上がっていた。あの強かったポテチにも負けない程の闘気だ。

 従事はアリカを見た。アリカは哀しそうに従事を見ていた。

 今でも好かれている。それが分かった。

 アリカの身体がゆらりと傾き、こちらに飛び掛ってきた。狙いはスプライトでも神殿騎士団でも従事でもなく、七瀬だった。

 獣のような動きだった。一足でヒトの頭を軽く超え、天上から七瀬のクビを掻き斬ろうと手を伸ばしてきた。

 夜の空を走る炎は一本の矢のようであった。

「――――」

 七瀬は悲鳴を上げ、従事にしがみ付いた。

 従事は腰に備えた弓に手を伸ばそうとした。その瞬間、二つの未来が見えた。

 ――アリカを殺して七瀬を守るか。

 ――アリカを殺せず七瀬を見殺しにするか。

 選ぶのは自分だ。七瀬だけは守る。そう決めたのだ。

 弓に手を掛ける。

 アリカが飛び掛ってくる。

 彼女の狙いは七瀬だ。

 従事は七瀬を庇い、弓を構えた。

「――!」

 だが、矢を射るよりも早く、スプライトのソードがアリカを大地に叩き落した。ハエのように叩き落した。

 スプライトは息を大きく吸い、アリカに向かって吼えた。

「間違えるな、悪魔よ! 貴方の相手はこの私だ!」

 空気を震わせる覇気は、まさしく神殿騎士団の隊長の名に相応しい迫力だった。少女であり闘神。それがスプライトだ。

 アリカの相手はスプライトらしい。

 

 

 アリカは身に滾る、強すぎる怒りと悲しみと悪意の矛先を七瀬に向けた。

 大きな力の胎動が身体の芯から波打ってくる。心の臓が鼓動する度に、血液が凶暴に体内に押し流され、アリカに興奮を覚えさせた。

 ――ヘイトレッド(Hatred 憎悪)

 憎悪の刻印がアリカの脳みそに焼き付いた

 悪魔はこの身に宿っている。

 悪魔は本当の身体を取り返そうとしている。そんなことは関係ない。誇りも自由も感情も身体もなにをあげても構わない。

 だけど、七瀬だけは道連れにする。

 七瀬は嫌いではない。好きでもない。だけど死ねば従事は悲しむ。大好きな従事は殺したくない。ただ、その心に一生晴れない傷を刻み付けてやりたかった。

 大事なものを失う傷を負わせたかった。不条理だと感じたのだ、フラッタの死が。己の悲しみが。従事がのうのうと生きていることが。

 従事は七瀬を守るために、アリカへと弓を構えた。あれが決定的な境界線だった。七瀬とアリカの境界線。七瀬は救ってもアリカは救わない。

 従事は七瀬かアリカなら、七瀬を助けるのだ。

 その境界線を引く従事が憎かった。

 七瀬の名を叫んだ。殺してやると叫んだ。

 聖騎士の少女が従事達を庇うように立ちはだかっている。

 あれは神殿騎士団だ。そうだ、フラッタを殺した神殿騎士団だ。

 脳みそがずきずきと痛んだ。早く七瀬を殺したかった。そして楽になりたかった。

 

 

 従事は情けなくも、戦いを見守るしかなかった。やはりなるべくなら、アリカに弓を向けたくはなかった。

 スプライトの強さは圧倒的だった。悪魔が宿ったアリカを一撃ごとに確実に押していく。彼女が聖剣を振るう度にアリカは苦痛の叫びを上げ、一歩後退する。後ろへ退こうとするアリカに対し、スプライトは容赦なく足の腱にソードを叩き付けた。

「@@@」

 アリカの悲鳴があがった。

 七瀬はアリカが悲鳴をあげる度に、ぎゅっと従事の腕にしがみ付いた。

 ――ちりちりと。

 アリカの憎悪の視線を感じた。

 アリカは今にも泣きそうな顔をしていた。従事へと注意を向けるアリカに隙が出来た。

「もらった!」

 スプライトは声を張り、白銀の刃をアリカのクビに振り下ろした。

 従事はアリカのクビに下ろされる断頭のソードをじっと見ていた。七瀬を抱きしめながらじっと見ていた。もうすぐアリカのクビが跳ねられる。

 それはフラッタが死よりも更に悲しい事実だった。

「@@@」

 成す統べもなくアリカはクビにソードを叩きつけられた。

 

 

 アリカは泣いた。

 悲しくてどうしたらいいのか分からなかった。

 本当は七瀬だって好きだ。従事が大好きだ。フラッタも好きだった。

 フラッタは己を恨んだだろう。宿った悪魔は彼の怨念なのではないかとさえ思った。

 ――時間を戻して欲しい。

 聖騎士の少女にクビを刎ねられる直前に願った。

 もう一度、やりなおしたい。

 ソードの刃がクビ筋に当たる。

 一刻先には切り落とされる。

「@@@」

 アリカは力の限り吼えた。

 体内の最期の炎を燃やすように。

 せめてここに自分がいたと覚えていてもらうために。

 

 

 スプライトはアリカのクビに直撃したソードを、そのまま振り下ろそうとした。クビを刎ねようとした。

(おかしい…)

 咄嗟にそう思い、後ろに飛びのいた。

 アリカの身体はびくびくと震えていた。

 深い悲しみや怒りが渦巻いている。

 スプライトとてニンゲンだ。アリカには同情できる。だがアリカをここで殺さないと、世界の民に被害が出るのだ。

 分かっているのに、悲しい瞳を向けられてはソードの切れも鈍った。

「スプライト様! トドメを!」

 部下の声が背後から聞こえた。

 振り返ると従事や七瀬もいた。避難もせずに見ていたのだ。友人の最期の姿を。

 炎を纏うアリカへと禍々しいエネルギーが集中する。

(あ…)

 スプライトは圧倒的優位に進めていたこの戦いにおいて、初めて恐怖を感じた。あの身体は悪意の詰まった爆弾だ。

 悪魔は滾るアリカの憎悪と悲しみを貪り、あの身体の中で肥大化している。

 さっき、もしもクビを斬っていたら、アリカの中に溜まった悪意の放射能で辺りは汚染されていただろう。ここでアリカを殺せば聖都まで壊滅しかねない。

(これじゃあ殺せない…)

 アリカはスプライトを見、にっと笑った。

 飛び掛ってくる。

 その炎の拳をスプライトはソードで受け止める。だが反撃はできない。

 スプライトは唸った。己よりも力量の低い敵を仕留めることができないのだ。

 防戦しかできない。

 やがて、攻撃を受け止めきれず、一歩後ろに飛び退いた。

「危ないぃっっ!」

 男の声にスプライトは我に返った。従事の声だった。

「――――」

 アリカの右腕には従事と同じような小型弓が装備されていた。

 真っ直ぐにスプライトの腹を狙っていた。

 油断した。まさかアリカがアーチャーだとは思わなかった。

 この弓は正にアリカの切り札だったのだ。それを知らず、距離を取ろうと後ろへ跳んだのは失策だった。

「――!」

 矢はスプライトの腹に突き刺さった。

 血が出た。

 

 

 七瀬はなにもできなかった。

 震えて従事にしがみ付いているだけだった。

 これから起きる悲劇は想像できる。

 アリカは皆を恨んでいる。特に七瀬への恨みは他の比ではない。絶対に一番苦しめられて殺される。それが怖かった。

「……」

 ちらっとアリカの方を見た。

 可愛らしく笑っていた彼女はもういない。耳まで避けるように口を広げて笑う様は悪魔だった。

 そして、終末の炎がアリカの身体から吹き上がった。

 

 

「シ・ン・ジャ・エ」

 アリカから従事達に向かって暗黒の炎が放たれた。従事にできることは七瀬をぎゅっと抱きしめ、不安を忘れさせ、守ってあげることだけだった。

 森で七瀬に約束した。

 必ず守り抜くと。

 アリカの身体から吹き上がる炎が灼熱であろうとも、この身が焼け爛れようとも七瀬は守り抜く。

 スプライトが退避してきた。矢を撃たれた腹からは血が溢れている。金色のバリアで神殿騎士団や従事達を守ろうとする。

 だけど無理だ。

 こんなもので、アリカの憎しみは止められない。

 アリカは燃えていた。

 ここで全員死ぬのだろうか。

 

 

 七瀬だけを生かすのと、全員が等しく死ぬのと、七瀬はどちらが幸せだろう。

 アリカは確かに神殿騎士団に処刑される時、生き残った。フラッタを犠牲にして生き残った。だがその結果がこの悲しみだ。

 ただ、七瀬が悲しまない結果だけを祈った。

 ぎゅっと抱きしめた。

 七瀬も従事に抱きついてくれた。

 こんな状況だけど幸せを感じた。

 身体が熱い。いつの間にか身体は燃え始めていた。

 足元から燃える火傷の痛みはちりちりと従事を焼く。それはアリカの視線と似ていた。

 身体が燃えて灰になっていく。

 

 

 意識が混濁し、天へと昇っていく。

 これが死か。

 先に死んだフラッタを思い出した。

 彼もこのように天へと昇っていったのだろうか。それとも恨みが残留し現世に留まったのか。

 感覚のなくなる腕だけど、七瀬だけはしっかりと抱きしめた。

 握り締めた。

 これで七瀬を抱きしめるのが最期だと思うと、涙さえ流れた。

 涙もすぐに蒸発した。

 もっとたくさん抱き締めたかった。

 

 

 夕日を思い出した。

 あの時に見た夕日が従事の頭に鮮明に浮かび上がった。

 他の皆が死んでも、どうなっても、七瀬だけは死んで欲しくない。七瀬が大好きだ。従事は吼えた。

 

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