-天使のデザイア- 神様

章   天使のデザイア


 

 ハヅキは広い草原の中にぽつんと立っていた。

 こんな豊かな自然、ハヅキの生まれた星では見当たらなかった。あの星は何処を歩いても硬い不毛の大地だったのだ。

 こんなに柔らかい土は初めて踏みしめた。

 初めて生き生きと生い茂った草木、緑の匂いを嗅いだ。そういえば、いつか泉と再開したあの地下も緑に覆われていた。

 ハヅキは生命力溢れる草木を踏みしめ、当てもなく歩いた。

 陽は昇っては沈み、幾日もの時が流れた。

 最初は春だった草原も、やがて夏となり気温がぐっと上がった。

 秋になった頃には涼しくなり、植物は鮮やかな黄金色と化した。

 冬が来た。

 雪が降り積もり草木は眠った。一面の銀世界をハヅキは足跡だけを残し、何日も何ヶ月も歩き続けた。

 そしてようやく懐かしい人影を見つけたのだ。

 

 

「お久しぶりですね、ハヅキ。アスペタクルの城以来でしょうか」

「ああ」

「待ちくたびれました。あれからまた永い時間が流れてしまいました。永遠に慣れた泉さんならともかく、木葉さんにはキツかったかもしれません」

 喚姫は変わっていなかった。

 あの時、最後に見た姿のままであった。だけど、あれはもう遠い昔の話なのだ。かつて、彼女と共に戦った想い出も、悠久の時の前の話なのだ。

「どうですか、無限の時の遊泳は。恋とは子孫を残すために必要な感情であり、勘定であるなら、もう、あなたは多くの気持ちを忘れたんじゃないですか、今のあなたに子供を残す必要はなさそうですから」

「――――」

 感情の磨耗。感情は勘定。

 ハヅキは確かに永い年月を旅し、多くの感情を失ってきた。何故、あれ程までに女を求めたのか。どうして木葉や泉を守ろうとしていたのか。

 記憶は残っているのに、虚しい感情が生まれていたのだ。どうせ死ねば全てが無に還る。ニンゲンの一生など、星の生に比べれば瞬き程のものであった。その星ですら、この天界に辿り着くまで幾多の命が生まれ、散っていった。

「私はあなたが約束を破る瞬間が見たかっただけです。木葉さんと泉さんは返します。

楽しませてくれたお礼に、どんな願いでも叶えて差し上げますよ。今のあなたなら、どのような願いを望むのでしょうか。それもまた楽しみでもあります」

「―――――――」

 ハヅキの願いは決まっていた。

 この暗黒の悩める世界を突き進み、そして改めて決意した願いと望みがあるのだ。

「―――俺の願いは……」

「はい」

 うんうんと頷き喚姫はハヅキの言葉を、まるでプレゼントを貰う子供のように嬉しそうに待っていた。

「俺の望みは」

「はい」

「木葉と泉を返してもらいつつ、喚姫を手に入れることだ」

「――――!」

 笑顔が凍りついた。

 正に喚姫の顔がぴくりと固まった。

 ハヅキは笑わない。

 喚姫も笑わない。

 誰も笑わなかった。

「なんて愚か―――。世界の頂点にまで達しながら、まだそのような愚かな言葉を吐くなんて」

「では聞こうか。喚姫、お前の価値観は正常か? お前の『愚か』という認識にそもそも誤りはないのか。人は生きている。各々、欲しているものがある。だからニンゲンは一生懸命に頑張って生き、そして死ぬことだってできるんだ。お前はそんなことも分からないのか。多くのニンゲンを見てきたくせに」

「この世界を創った私の価値基準に誤りがあるというのですか」

 ハヅキはふうっと嘲笑し、両の掌を上に向けやれやれというジェスチャーを取った。

「そんなこと言ったってお前、本当は俺のこと好きなんだろ?」

「――――!」

 一瞬のうちに喚姫の顔が怒りで真っ赤に染まった。

「調子に乗るな!」

「―――っ?」

 喚姫が怒りの言葉を吐いた瞬間、ハヅキは腹に衝撃を受け、後方へと吹っ飛ばされた。障害物もない真っ白な雪原を、ハヅキはごろごろと転がった。

(強い力だ……いつか戦ったアスペタクルやアンキシャス以上か……)

「誰が誰を好きですって! 他の男ならともかく。あなた程、女を周りに囲った男を、誰が好きなどに!」

 喚姫はとにかく感情のままに、ハヅキを叩き飛ばした。あの大人しい喚姫からは想像つかないほどの激昂っぷりだった。

(いや……)

 ハヅキは頭を振った。

 想像もつかなかったのは、喚姫の全てを見ていなかったからだ。これもまた喚姫の一面だったのだ。

 ハヅキは吹き飛ばされ、宙吊りにされたまま喚姫の前に引きずり出された。

「喚姫……」

「ハヅキ、私はあなたを愛してなどいません。確かにあなたのことを『感動を与えてくれる素体』として興味を持っていたことは認めます。しかし、私があなたを愛したと思うのであれば、それはあなたの『痛い妄想』です」

 くつくつとハヅキは笑った。

「なにがおかしいのですか」

「いや、なに。お前の悪癖、段々と分かってきたぞ」

「神である私の悪癖ですか? どうぞ、言ってみてください」

「お前、ムキになると感情的になるよな」

「――――!」

 喚姫の目が冷たく細くなった。

「あなたみたいなのに女の気持ちが理解できてたまるもんですか」

「分かられたいんじゃないか」

「黙りなさい!」

 喚姫が指を鳴らすと、宙から十字に貼り付けにされた泉が降りてきた。泉はまるで死者のように深く眠っており、ぐったりとしたままぴくりとも動かなかった。

「木葉さんか泉さんかどちらにするか迷いましたが…。この際、もうどちらでもいいです。ハヅキ、あなたなんか大嫌いです。私の意地にも賭けて、あなたには自分の理想を折らせてみせます」

「なにをする気だ」

「そこから動かないでください。一歩でも近づいたら」

 喚姫は泉が持っていた悩ましい剣を彼女の喉元に突き付けた。

「泉さんを殺します」

「なにがしたい」

 喚姫の力ならこの世界にいる全員を皆殺しにすることも造作もないことだろう。この脅迫になんの意味があるのか。

「次に一言でも私を欲しいと言えば、泉さんを殺します。二言目では木葉さんを殺します」

「そういうことかよ」

「彼女達を助けたいなら私を殺しなさい。私が欲しいのなら二人を犠牲にしなさい。あなたが自分の手で、必要だと言った女を切り捨てるところが見られるのなら私は満足です」

「なに戯言(たわごと)を言ってやがる。お前、みんなと一緒にいる時、楽しそうだったじゃないか。そんなことしていいと思ってるのかよ」

「ええ」

「――――」

 選べるのはどちらか片方だけ。選ばれなかったほうは殺される。その状況でも自分を選べるのか、喚姫はそう言っているのだ。

「どうせ悩むのでしょう? 分かってました。お好きなだけ悩んでもらって構いません。ノリツッコミで出した答えなど、私は欲しくありませんので」

 喚姫は「ただ…」と付け加えた。

 手にした悩ましい剣を泉のわき腹に突き刺した。

「―――っ! がっ!」

「泉っ!」

「近づいたら駄目ですよ、ハヅキ?」

 冷たくナイフのように尖った瞳で喚姫はハヅキを射抜いた。

「…………」

 泉がわき腹を突き刺された痛みで目を見開いた。

「ここは……」

「おはようございます、泉さん。今、ハヅキがあなた達か私、どちらを選ぶか天秤にかけているところです。ちなみに選ばれなかったほうは死ぬことになります」

「…………」

「状況を理解していただけたようですね。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。このヒトはおそらく最期にはあなた達を選びますから」

「喚姫! いい加減にしろ! 泉に手を出すな! 俺がお前を必要かどうかに、泉も木葉も関係ないだろう!」

「――どの程度必要なのか。どこまでがあなたが私を必要と言える限界範囲なのか。本当にあなたは私を欲しているのか。あなたは相手が女なら誰にでも手を出しますからね」

「そんなことはない。俺が手を出したのは、俺が大事だと思ったやつだけだ」

「それが複数いると、女は『誰にでも』というのですよ。さて、最後の審判を続けましょう。私かこの人たちかどちらが必要か」

 喚姫は剣で泉のわき腹をぐりぐりと、剣を刺したまま掻き混ぜた。

「ああああああっっ」

「泉っ!」

「泉さんを選ぶにしろ、見捨てるにしろ早く選ばないと可哀想ですよ。腸とか胃とか、刃物で掻き混ぜられるってすごく痛いんですよ」

「喚姫! いい加減にしろ!」

「ふふ、私を殺すと言えば簡単ですよ。その場合、殺されてあげてもいいですよ。あなたが私を殺すところを見るのも、また楽しそうです」

「――お前」

 ハヅキは喚姫に対し、怒りというよりも激しい苛立ちを覚えたのだ。ハヅキにどちらも選べるはずなどがないのだ。それを喚姫は知っているのだ。しかし、それを無理やり選ばせようとする喚姫が許せなかったのだ。

「許せないなら私を殺せばどうですか」

 喚姫は更に剣を泉の体内へと差し込んだ。

 ずぶずぶと剣がメリ込んでいく。

「あああああああああっ」

「喚起ぃ!」

「ふふ、やっと感情的になってきましたね」

 剣で胃まで刺し貫かれた泉は歯を食いしばり、稲妻のような痛みに震えて耐えていた。

「泉さん、このままじゃ死んじゃいますね。早く決断したらどうですか。このままじゃ悲惨なことになりますよ」

「――――」

「自分のせいで泉さんを傷つけられるのは、自分が傷つく以上に苦しいでしょう? 私はこんな女です。ハヅキの目が節穴だったわけです。自分の過ちを早く認め、私を選んだことを間違いだと言ったらどうですか」

「――――――――」

「……ハ……ヅキ………」

 泉は苦痛にも負けず、最後の力を振り絞ってハヅキに声を掛けた。

「ハヅキ……。そこにいるの…?」

「泉! ああ、俺はここにいるぞ!」

「目が見えない…です…。ハヅキ、大丈夫? ちゃんと生きていますか…?」

「ああ。大丈夫だ。俺はぴんぴんしているぞ」

「よかった……」

「ふふ」

 喚姫はまた剣に回転を加え、泉の胃を掻き回した。

「―――――っ!」

 泉は今度は目に涙を溜めながらも、悲鳴も上げずに痛みを堪えた。

「……この痛みを耐えられるんですか」

「が、ハヅキ…………」

「喋るな、泉っ。死んでしまうぞ!」

「…ハヅキ、なにを迷ってるのですか…。迷うことなんかないでしょう……」

「ほら。泉さんも早く私を殺せって…」

「誰が…そんなことを言いました…。まるで分かってない、貴女は」

「…………」

「―うあっ……!」

 泉の言葉が気に触ったのか、喚姫は剣をぐっと押し込んだ。

「誰がなにを分かっていないって?」

「なにも…です。ヒトの気持ちも…。自分の気持ちも。貴女、ホントは楽しんでいるんじゃないでしょう…」

「は?」

「ハヅキが貴女だけを見てくれることはない…だからせめて、選ばれなくてもいい」

「……」

「ハヅキには精一杯、自分のことで悩んで欲しい。苦しめてあげたい」

「……なにを言ってるんですか」

「苦しめて、自分を殺したっていう罪悪感を永久にハヅキに刻み付けたい。ハヅキの心の中にだけ永久に残りたい。悩んで殺せば………殺したほうはずっと殺した相手を覚えている…」

 しんと静寂が訪れた。

 ハヅキは自分が殺したメガネの最期を思い出した。

 泉はハヅキが初めて見るような、挑戦的な笑みを喚姫に向けた。

「羨ましかったんでしょう? あのビルの地下でハヅキが私のために必死になったことが」

 泉は覚えていた。あの遥か昔の時、ビルの地下にてハヅキに悩める剣を渡した時のことを。無限の時間の前では記憶など薄れると自分で言ったのに、ハヅキのことなど忘れると言っていたのに、泉はちゃんと覚えていたのだ。

「なにを」

「貴女が木葉さんではなく、最初に殺すのを私だと選んだのはどちらでもいいからじゃない。貴女は木葉さんとも旅を続けていて、彼女に情を持ってしまった。ハヅキと木葉さんと三人で遊んでそれが楽しかったんでしょう」

「黙りなさい…」

「ハヅキ」

 泉は今度はハヅキを見た。

「私がどんな目にあっても屈しないでください……」

「泉」

「もし、剣で刺される私を可哀想だと想って、どちらかを選んでみなさい。私は絶対に貴方を許さない…」

 痛くて仕方がないはずなのに、泉はまったく臆することもなく、しっかりとした意思をハヅキに向けた。

 そうだ。この目は初めてハヅキと泉が出会い、彼女が夢を輝かせていた時の目だ。

「私もこのヒトと同じ、貴方には私を求めるなって言った。だけど、それでも貴方は自分を曲げずに、多くを犠牲にしてここまできた。木葉さんや飛花さん、メガネさんを悩ませ、苦しめ、ここまで来た。木葉さん達が貴女の傍にいたのは貴女の気持ちが本当だと信じたからでしょう…。その最後の最後で私を選んだら……どちらかを選んだら……私は絶対にハヅキを許さない」

「泉……」

「私がどんなに剣で刺されても、絶対に屈しないで。それが貴方の選んだ茨の道でしょう!例えそれで私が死んでも、貴方は最後までどちらも選ばなかった。それなら私はそれでいい」

「生意気な…!」

 喚姫は剣を泉の指の付け根へとあて、掌を縦へと切り裂いた。

「……っ!」

 泉は痛みに悲鳴をあげそうになったのを必死に飲み込んだ。

「ハヅキ、こっちに来てもいいよ……」

「ハヅキ! その線を越えたら泉さんを殺します!」

「嘘! 貴女にそれはできない。ハヅキの本当に大事なものを完全に壊すことだけは絶対にできない! 貴女はハヅキに殺される時、苦悩の末に殺されたがっていた。本当は憎まれて殺されたいんじゃない。ハヅキ! 試してみなさい!」

 泉の言葉にハヅキの心は揺れ動いた。

 ハヅキも喚姫が本当に自分のことを好きなのは分かっていた。だけどこの女は素直になれないのだ。だからこんなことになってしまったのだ。

 しかし、今の喚姫は頭に血が昇っている。本当に大丈夫とは思えなかったのだ。

「ハ…ヅキ……」

「――――」

「貴方の信じた……貴方が…私と喚姫ちゃんを信じているかどうかだよ……。貴方はこの子の表面だけを見て好きになったのですか…? 私が苦しんでいて平気なのですか…?」

「―――――――」

「どっちも助けるんじゃないんですか!」

「あああああああああ」

 ハヅキは一歩、二人へと踏み込んだ。

「近づくな!」

「喚姫! 俺はもう迷わん。俺は泉も木葉も、お前も決して捨てん。俺には皆必要だ! だから俺はお前の元に歩み寄る」

 再び一歩踏み込んだ。

「いい加減にしなさい! 殺しますよ!」

「だったら私を殺してハヅキに恨まれて憎まれて、ハヅキの作る『幸せの輪』の外で生きていきなさい! メガネさんだって、ヒデヨシさんだって、死んだってハヅキの輪の中にいる。ハヅキは絶対に選んだニンゲンを捨てやしない!」

「そうだな……」

 泉が言ってくれた。

 ハヅキが一番言いたかった言葉を泉は代わりに言ってくれたのだ。

 本当はまだ恐れもあった。それでも迷いはなかった。

 だから、更に一歩、ハヅキは歩み寄った。

「――っ!」

 ハヅキは走った。

 喚姫の顔があまりにも泣きそうだったからだ。

 こんな顔の喚姫を見るのは初めてだった。

 ハヅキは喚姫が『本当に泣きそうになった顔』など見たことがなかった。初めて、ピロシを失ったと言った喚姫の顔も、ハヅキの悪戯に怒った喚姫の顔も、女心の解らないハヅキに不貞腐れた喚姫の顔も見てきた。

「喚姫! お前は俺を裏切るのか!」

「……っ!」

「お前にとって、この俺はその程度の男なのか!」

「私は…!」

「言ってみろ。お前の本当の理想を!」

「私は!」

「聞け! 喚姫! 俺には泉も木葉も必要だ! しかし、お前も必要だ! お前も俺のもとにいろ!」

「……っ!」

 ハヅキは『喚姫が必要』と言った。その言葉が喚姫の中で起爆剤となり、ついに感情が爆発した。しかし、同時に『泉と木葉も必要』だと口にした。

 ハヅキには飛花も、メガネも、ヒデヨシも、誰一人として捨てる者などいなかった。喚姫にもそれは分かっていたのだ。こんな茶番を演じる前から分かっていたのだ。

「―――――!」

 喚姫は悩ましい剣を振り上げた。

 泉の首を切り落とすために振り上げた。

「やれるものならやってごらんなさい! 貴女は私を殺せない!」

「私をバカにするな! この私が女一人殺せないと思ってるのですか!」

「やったらハヅキは貴女を絶対に憎む! それでもやれるものならやってみなさい!」

「うるさあああああああい!」

 喚姫は癇癪を起こし、剣を振り下ろした。

 

 

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