-天使のデザイア- 神様
1章 喚姫
「神様……」
泉がぽつりと漏らした。
喚姫を見て『神様』と言った。
「え?」
木葉だけは訳も分からず、おろおろと喚姫の顔を伺っていた。
喚姫の表情はいつもと違いはない。本当にただの「ヒト」であった。
「ハヅキはあまり驚かないんですね」
「ああ」
「気づいていたんですか?」
「さあな」
ハヅキは肩を竦めた。喚姫はふふっと笑った。
「私はずっとハヅキの傍にいて、あなた達を見てきました。本当によく頑張りましたね」
いつか見たあの『カチューシャ』を喚姫は頭に当てた。
そうだ。喚姫とはピロシの死以前にも会っていたのだ。あの街で天使の少女を助けた時から、ずっとハヅキのことを見ていたのだ。
「愛するヒトを守るが故、ニンゲンではとても敵わない相手に勇気を振り絞って挑む。また、大事な者を失い涙流す。あなた達の戦いを見、私は手に汗を握ってしまいました」
「そうか」
「私を喜ばせてくれたあなた達に、なにかご褒美をあげたいんですが。ハヅキはなにが欲しいですか?」
「――――」
以前、喚姫に問われたことがあった。
もしも神様が一つだけ願いを叶えてくれるのなら、なにを望むか。
「泉さんとの仲を取り持って欲しいですか? それくらいならお安い御用ですよ」
「――っ」
泉が息を呑んだ。
一度は死を迎えた後、天使として蘇生され『使命』を刻み付けられたのは泉だ。神に都庁の下へと呼ばれ、剣を護るように命じられたのは泉だ。神の力の絶対性を誰よりもよく知っているのだ。
「彼女を抱きたいのでしょう? 意固地にならずとも良いのですよ。なんなら、この場にいる全員の、この場での記憶を消してあげても良いです」
「喚姫」
「はい?」
「随分とお喋りになったな」
喚姫の目が冷たく座った。
「そういえば、あなたには願いがないんでしたね。いえ、あったけど、それはもう叶ったのでしたっけ」
「――――」
「しかし、本当に見事な戦いぶりでした。地上のニンゲンも七十五パーセントが死滅してしまいましたが。すごいですよ。見渡す限りニンゲンと……ニンゲンの死骸」
「…そうだな」
「願いますか? 犠牲になった人々の蘇生を」
『やめておけ』
背後から威厳に満ちた少女の声が聞こえた。
『命とは、ヒトとはそんなものではない。それは、お前達ニンゲンのほうがよくしっているだろう』
喚姫が目を細め、ハヅキ達の背後に視線をずらした。
「そういえば。役目の終えた屍がそこにありましたね」
アスペタクルは満身創痍ながらも、王者の如く美しく、凛々しく佇んでいた。例え神を前にしても彼女は決して諂うことはなかった。
『享楽に溺れた神よ。お前は滅ぼされる時が来たのだ』
「は?」
喚姫が間の抜けた声を上げた。
『この者達は凄いぞ。決して抗えぬはずの上位種族をも超え、上からの言葉も受け付けぬ。お前はそのままではこの男に焼かれるだろう』
「……やはりあなたの目は節穴ですね。ハヅキは私を殺せませんよ。彼は約束を違えることはできません。彼が私を守ると言った以上、決して殺すことはできないでしょう」
『愛とは…そのような歪んだ感情か?』
「…………」。
喚姫が初めて怒りを露にした。
冷たく、命を命とも見ていない神の目であった。
しかし、その瞳を受けてもアスペタクルは物怖じもせず、ハヅキ達の前へと進み出た。
『―――――』
神と最強の魔人の戦いが始まる。そう思っていたが、それは戦いにすらならなかった。
僅かな時すら必要としなかった。
『――!』
喚姫はアスペタクルを一瞥しただけだ。なのにアスペタクルは全身に亀裂が入り、腕、足、腰、胸、頭とバラバラにされ、床に転がった。
「ふふ…」
肉片と血が広がっていく。
死ねば西の王も単なるバラバラ死体であった。
木葉と泉が息を呑んだ。
「馬鹿な子。せっかく私の褒美をもらい、永遠の命を得たっていうのに」
「どういうことだ?」
「ここは、アスペタクル達四人、現在の東西南北四方の王が願った理想の世界です。永遠に生きたい。彼女達はそう願いました。私はその願いを叶えたのです」
「…………」
「かつて、ここよりも前の世界がありました。アスペタクル達は世界を救うために戦い、素晴らしきストーリーを織り、この私を感動させました。アスペタクルの少女でありながらも、王者としての誇りはこの私の胸をも強く打ちました。しかし私は新たな感動が欲しかったのです。世界を救うために立ち上がる勇者の、血を滾らせる愛のドラマを見たかったのです。だから私はニンゲンの世界に入り、ニンゲンとして生き、そしてハヅキ達と出会いました」
喚姫の表情は優しかった。悪魔のように優しかった。
ハヅキの願いを叶えてくれるというのだ。
「俺の願いか」
「決まりましたか?」
「ああ」
泉が生唾を飲んだ。
「泉」
「…なに?」
「俺とて譲れぬ部分がある。お前を落とすということは…。それは俺とお前の戦いだ。何者もそこに介入することは、この俺が許さん」
「……そうだよね」
泉もそうだったと肩を竦ませた。
「喚姫、俺がお前に願うことならとっくに決まっている」
「はい。どうぞ」
喚姫はどんな願いを告げられるのか、童女のように楽しそうな笑顔を作っていた。
木葉も泉も、もうハヅキがなにを願うのか分かっていた。分かっていないのは喚姫だけだった。
「喚姫。俺の女となれ」
「…………」
喚姫が呆れた表情となり、こりこりとコメカミを掻いた。
「私の話を聞いていましたか? 私があなたと共にいた時の態度、行動は全て演技だと言ったのですよ。名演技です。うまかったでしょう?」
「演技、か。まあ、それもよかろう。では、改めてお前を俺のものにしよう」
今度は喚姫はくすくすと笑い出した。
「そんな小さな願いを叶えるためにあなたはここまで来たのですか? どんな願いでもいいのですよ?」
「喚姫を俺の女にできるんだ。そんなに安い願いでもないだろう」
「なるほど。言いますね」
「俺はお前を俺のものにすると口にした。そしてお前を必ず守り抜くとも約束した。だから、引けん」
「ですから、それはあなたの目が曇っていたと…」
「いいか、換姫。俺にはお前が必要なのだ」
「……私にあなたが必要だと思うんですか?」
喚姫は笑みを止めた。
鋭い瞳を持ってハヅキを射抜いた。
「ああ、そうだ。お前に俺は必要だ」
「とんでもなく傲慢なヒトですね…」
「そうだ、だから俺のもとに来い」
「嫌ですよ。誰があなたのようなヒトを…」
ハヅキが一歩前に歩み寄ろうとした。
「お前。俺を愛しただろう?」
「!」
その一言は喚姫の表情を怒りに染めた。
「ふざけるな!」
喚姫が叫んだ。
これまでの喚姫からは想像もつかないような怒声と共に、強烈な衝撃波がハヅキを吹き飛ばし、遥か後方の壁へと叩き付けた。
「ハヅキ!」
木葉が近づこうとする。
が、喚姫が指を回転させると、木葉と泉の身体は宙に巻き上げられた。
「言うに事欠いて、この私があなたを愛していたと?」
「―――喚姫」
「……気が変わりました」
喚姫は女二人と共に高く舞い昇って行く。
「どうしてもあなたが約束を破る瞬間を見たくなりました。きっとその時、あなたは激しい感情を持つでしょう。私はそれが見たくなりました」
高く高く上昇し、この王間の天井に達すると思われた時、喚姫達は姿を消した。
「痛つつ…」
ハヅキは叩きつけられた背を擦り、むくりと起き上がった。
やれやれと肩を竦めた。
喚姫達を追わなければならない。
まるで、それは亡霊のような姿であった。
ハヅキは自由気ままに生きているように見え、その自由意志は限りなく少なかった。女が連れ去られれば追わなければならない。
ただ、それが上位種族の言葉や、神の筋書きよりも強かっただけだ。
『……待て』
足元には首だけになったアスペタクルが、最期の命を振り絞ってハヅキを見上げていた。
「生きていたのか」
『直に消える…。あの女を追う気か…?』
この少女はヒデヨシを殺し、また、この少女の部下がメガネを殺したのだ。恨みがないわけではなかった。だが、今消え去ろうとする少女を見れば、手を差し伸べてやりたくもなったのだ。
ヒデヨシとメガネの二人に心の中で詫び、ハヅキはアスペタクルの最期の話を聞くことにした。
『このまま行ってもお前は遊び殺されるぞ』
「しかし、まあ、このまま、家に帰って寝るわけにもいかんだろう」
『私はあの女のことをよく知っている。あの女はお前が思っているような、心のできたやつではない』
ハヅキは目を閉じ、喚姫のことを考えた。
そうだ、ハヅキは喚姫のことをなにも分かってはいなかったのかもしれない。彼女の綺麗な部分、可愛い部分しか見たことがなかった。
良い部分ばかり見ていた。ニンゲンには良い部分と、同時に悪い部分があるはずなのだ。好きな相手の良い部分しか見ない、あるいは嫌いな相手の悪い部分しか見ない。それは即ち相手を『ニンゲン』として見ていなかった。飛花にも言った言葉だ。
『私が、永遠の命を望んだのは。彼女と共に時を過ごしたかったからだ。あの女は、私達と共に旅をし、冒険をし、世界を救った。だから、私達も、彼女と、共に、ありたかった』
あの気位の高かったアスペタクルが表情を歪め、喚姫に対し、憎悪を吐いていた。アスペタクルは信じ、友情を深めた(と思っていた)喚姫を好きになり、そして、一緒に生きたいが故に永遠を望んだのだろう。
ハヅキと同じように。
が、その暮らしは如何なるものであったか。アスペタクルの冷たく荒んだ心を見れば想像もできた。物語を綴り終えたアスペタクルは喚姫にとって、用済みとなったのだろう。
泉が言っていた。無限に近い命はとても苦痛だと。その間を悲しみと共に過ごしてきたのだ。
『それでも、お前は行くのだろう……』
「ああ」
『あの女は天の階段へと向かった。ニンゲンでは辿り着くことも難しい』
「どうやったらいける?」
『――――』
アスペタクルは目を閉じた。もしや言葉を吐く前に死んでしまったのではないかと、ハヅキは心配したが杞憂だったようだ。
彼女の胸部、背中から生えた悪魔の翼が浮かび、ハヅキの背に装着された。
『その翼があれば天まで跳ぶこともできる』
「もらっていいのか?」
『消え行く身だ。あの女に対し、一片でも牙を突きつけたいのだ』
ハヅキは「そうか」と頷こうとしたが気が変わった。アスペタクルの言葉が真実ではないと思ったのだ。
「それだけなのか?」
『――――』
「お前が彼女に抱いた感情は憎しみだけなのか?」
『――――――』
アスペタクルは笑わなかった。初めて神妙な顔となってハヅキを見上げた。
愛を知るハヅキには分かったのだ。憎悪と愛情は表裏一体。アスペタクルは喚姫の傍にいたかったのだ。
『大した男だな、お前は。あの時の仲間にお前がいれば、また結果は変わっていたかもしれないな…』
アスペタクルの身体が灰へと変わっていく。
『私も星に還る時がきたようだ』
「なにか残す言葉はあるか」
『――――』
「身体は死すとも、言葉は決して死なない。お前の言葉は俺が覚えておいてやる」
『―――私は彼女に愛されたかった』
それがアスペタクルの真実の言葉だったのだろう。
「アスペタクル」
『なんだ?』
「喚姫は嘘つきだ」
『そうだな』
「あいつは好きな相手を好きだと言えんやつだ。形式に拘り、見た目に拘る。しかし、あいつの心が無防備になる瞬間がある。二人だけの時間だ。俺とお前は喚姫の何処に惹かれたのか。俺達の目はそこまで節穴か?」
『――――』
アスペタクルは笑っていた。
『慰めでも嬉しい』
「俺は女に嘘は言わん。部下に嘘は言わん。慕ってくる者に嘘は言わん。俺の言葉はなによりも正しいぞ」
『私の相手がお前でよかった』
「ああ」
『ありがとう。脱出しろ、私の死と共にこの城は崩れ落ちる』
ハヅキは頷いた。
『私の翼を持って、彼女のもとに行って―――――――――――」
彼女の言葉通り、城は崩れ落ちた。
崩れた石や宝石の残骸は巨大な墓標のようであった。
悪魔の王、アスペタクルはハヅキの背に翼を与え、その命を星へと還した。