-天使のデザイア- メガクラックション

4章 天使の少女


 

 特に部下は付けなかった。

 飛花だけを連れ、ハヅキは都庁へと向かった。喚姫も誘ったのだが、彼女は王国の留守を守ると言い残ってしまった。

 ハヅキと飛花の二人だけを行かせたかったようにも見えた。

「――――」

 誰もいない【砂と炭と鉄屑の荒野】を飛花と二人っきりで旅をする。目指すべきものは神をも屠る最強の武器だ。

 昔、ここで『彼女』と再会した。

「こんなクライマックスなシーンにあたしも連れて行ってくれるなんて、なんか嬉しいな。ハヅキさん、あたしにあんまり構ってくれないもん」

「む、すまんな。決して蔑ろにしているわけではない。飛花は俺を大事に想っている。だから、俺も飛花のために生きることもできる」

「じゃあ、もし、あたしがハヅキさんのことなんかどうでもよくなったら、ハヅキさんはあたしを見てくれないの?」

「飛花は俺のことをどうでもいいとは思わんよ」

「たいした自信。手懐けた女の子には絶対に裏切られないってこと? あたしみたいな軽い女の子は心変わりも早いよ、きっと」

「そうだな、飛花は確かに軽い」

「……むっ」

「だが薄情ではない。一度仲間と認めた相手をどうでもいい、などと考えることはお前には無理だな」

 飛花は俯いてしまった。

「孤独だったお前は仲間といる幸せの味を覚えてしまった。だから、お前は俺の元にずっといるさ」

「ハヅキさんよりいい男見つけるかもだよ」

「そんなやつはおらん。この俺が世界で一番いい男だ」

「ほんっとに自信満々だよ。どこからそんな自信が出てくるんだか」

「俺は世界一でなければならん。もし、そうでなければ、飛花や喚姫に失礼だろう。この俺を選んだお前達の目に間違いはなかったと証明する義務がこの俺にはある」

 顔をあげた飛花は不思議なものを見るような目でハヅキを見上げた。

「あたしはそんなふうに自分を持てないな…。あたしなんか、何処にでもいる普通の女の子だもん」

「飛花、お前は俺を愛しているか?」

「――うん」

「では誇れ。胸を張れ。人を愛することのできるニンゲンは素晴らしいやつだ」

 都庁が見えてきた。

 そのビルはまるで星の芯まで突き刺さっているかのように、しっかりと大地に根を下ろしていた。

 ハヅキは思い出したように言葉を付け足した。

「ましてや、その相手が世界一のこの俺であるなら言うことはあるまい」

「うん」

 飛花は元気よく頷いた。

 ハヅキは都庁の入り口の扉を蹴破り、飛花を連れて乗り込んだ。

 

 

 都庁の中はしんと静まっていた。

 外ではまだ風の音が聞こえていたが、ここではそれも聞こえない。ハヅキと飛花の足音だけがリノリウムの床と打ち合い響いていた。

「ハヅキさん、いきなりメガアクマが飛び出してきたりしないかなあ…」

「まあ、油断せずに行くぞ」

 しばらく辺りを捜索していたが、ハヅキ達は地下へと降りる階段を見つけた。

 その階段はなんと表現するべきか。『不自然』なものに見えたのだ。

「変な階段ですね」

「そうだな」

 神をも屠る悩ましい剣が存在するというのも不自然な話だった。それが都庁の地下にあるのが不自然であれば、なにもかもが不自然な気はした。

 しかし、臆することもなく階段を降りた。確かに不自然さは些かの恐怖も覚えさせたが、それとてアスペタクルの前に立つことに比べれば小波程度のものであった。

 飛花もハヅキの後をついてくる。

 ずっとずっと、地下へと続く螺旋階段を降りている内に飛花は沈黙が耐えられなくなってきたようだ。話しかけてきた。

「そういえば、ハヅキさん」

「なんだ」

「ハヅキさんは、あたしがハヅキを大事にしているから、あたしを大事にしてくれるっていってたけど」

「ああ」

「ハヅキさんは、相手が自分を大事にしてくれないのに、相手のことを好きになったことはないの?」

「――――」

 飛花はただ沈黙を紛らわせるために吐いた、何気ない質問のつもりだったのだろう。しかし、その質問に対する答えは、ハヅキの根幹を貫くものであった。

 だが、出された質問には残さず答えなければならない。それもまた、ハヅキの務めであった。複数の少女に手を出している以上、他の女の事を故意に隠しているのは不誠実だと思っている。

 だから、他の女の子とも仲良くしていることをハヅキは隠さない。隠してまで、こそこそしてまで好かれたいとは思わなかった。それに自分がそんな卑怯な男であれば、飛花も今頃はここにいてくれはしなかっただろうと、ハヅキは考えている。

「そうだな。一人だけいる」

「木葉さん?」

「違う」

「……じゃあ、喚姫ちゃん?」

「違う」

「ヒデヨシさん…?」

「なんでやねん」

 がすっと飛花の頭にチョップで突っ込みを入れた。

「昔、この俺が始めて好きになった子がいた」

「うん」

「お互い愛し合っていた。当時の俺は他の女など目もくれんかった。その子だけを見ていた」

「へえ…」

 誰か一人だけを愛するハヅキを想像できなかったのか。飛花は色々と想いを巡らせているようだ。

「まあ、初恋なんてそうそう上手くはいかん。あの時の俺は女の子の扱いもヘタだった」

「意外」

「飛花。俺にも当然弱い部分も汚い部分もある。そこもしっかりと見ておけ。綺麗な部分だけを見て好きになるのなら、それはただの憧れだ」

「うん」

 会話は途切れた。

 またこつこつと足音を鳴らしながら、二人は黙って螺旋階段を降り続けた。すると、やはり沈黙に耐えられなくなった飛花が話しかけてきた。

「ハヅキさん、そのヒトのこと、ずっと覚えてるんだね」

「ああ」

「あたしはきっと、そのヒトには勝てないんだろうな…」

「なにを言うんだ?」

「そのヒトは別れた今でも、ハヅキさんに思ってもらってる。あたしはそんな風にはきっと思ってもらえないって」

 ハヅキはなにかを言おうと思ったが、やめた。

 言葉は簡単にヒトを騙せる。けれど、取り繕った言葉で飛花の機嫌を回復させるのは卑怯だと思ったのだ。

「ごめんなさい。困らせるようなこと言って」

「構わん」

「メガネちゃん、最後にハヅキさんにキスしてもらってるの思い出してた」

「――――」

「ホントはちょっとだけど羨ましかった。あたしもされたかったから」

「飛花」

 ハヅキが足をぴたりと止めると、飛花が背中にぶつかった。鼻をぶつけたらしく、痛がっている。

「ハヅキさん? どうしたの?」

「お前は俺についてきてくれている。お前が欲するものがあれば……それが、俺に用意できるものならくれてやる」

「ごめんなさい。また困らせるようなこといってた…」

「俺も飛花を泣かせたこともあるかもしれん。だから気にするな」

「うん。もっと甘えてもいいの……?」

「良い。許す」

「甘えさせるだけ甘えさせて、あとでポイとかやだかんね……?」

「俺は誰かをポイしたりはせんよ」

「そうだよね…」

 飛花は腕にしがみ付いてきた。

「へへ。喚姫ちゃんのいない間にひっついちゃおっと」

 まただんまりになった。

 けれど、先程とは違い、飛花は沈黙が耐えられずに話しかけてくるようなことはなかった。

 沈黙が居心地の悪かった関係から、心地良いものへと確かに変わったのだ。

「ねえ、ハヅキさん」

「うん?」

「さっき言ってた女のヒト……名前教えてもらっていい?」

「どうしたんだ?」

「ん。なんかあたしもハヅキさんのこと、知りたいなって…」

「――――」

「あ。言いづらい……?」

「いや」

 久しく口にしていなかった名前だ。

 だから少し躊躇われたが、飛花に尋ねられたのなら答えなければならない。

「泉という」

「泉さんかぁ…」

 決して忘れたことのない少女の名だ。

 

 

 地獄よりも更なる深みを目指すような、永遠を思わせるような、長い永い螺旋階段はようやくその終わりを迎えた。

 地下の地下まで降りた二人の前には広がっているのは石造りの間であった。重厚な扉がその奥の秘密を守るように、しっかりと閉じられていた。

「ハヅキさん、どうしよう…?」

「どうするもなにもない。この俺にあるのは前進のみだ。行くぞ」

「う、うん」

「俺が前進できるのは、常にお前達が後ろにいてくれるからだ。初めて喚姫と出会った時も、あいつには俺の後ろを守らせた」

「うん」

「任せたぞ」

「わかった」

 役目を与えられた飛花は緊張しながらも、力強く頷いた。そうだ、多くのニンゲンは自分の役目を欲しがる。必要とされたがる。以前は飛花に対し、ハヅキは役目を与えていなかったのだ。

「―――――!」

 ハヅキは扉を勢いよく開け、部屋の中へと踏み込んだ。

 肩で風を切りながら、ずかずかと奥へと進む。

「なんという緑」

 壁も床も天井も、この部屋はまるで黒と緑の二色が、まるで蛇のように相手の頭を噛み切ろうと首を伸ばし絡みあっている。ハヅキにはそう見えた。

 部屋の中央はまるで『泉』のように、水色の光が床から放たれていた。もしも、神をも屠る武器があるというのなら、おそらくここにあるのだろう。

 ハヅキは輝く泉の前に立った。

「ハヅキさん、これからどうするの?」

「わからん。色々と試してみるか」

 ポケットからボタンを取り出し、ハヅキはそれを泉の中へと投げ入れた。

 ぽちゃん、と音を鳴らしボタンは泉の中へと落ちた。

「本物の水なのか、これ」

「わかんないけど、迂闊に触らないほうがいいかも…」

「そうだな…ん?」

 泉の中からぼこぼことなにかが浮かび上がってきた。

 まるで『キコリと泉』の物語にあるように、泉の中から少女が浮かび上がってきたのだ。

「――――――」

 ハヅキは息苦しさを覚えた。

 心臓が鷲摑みされたかのように胸が痛み、呼吸が困難になる。遥か昔に味わった、あの喪失感と悲しみが蘇ってくる。

 

 ハヅキは少女を知っていた。

 少女もハヅキを知っていた。

 

「――――」

 ハヅキの中に眠っていた感情が火を噴いた。あの時魔法の弓で射られなかったリンゴのように、赤い炎がハヅキの心を焼き始めた。

 再び目の前に現れるあの天使の翼。

 しかし、ハヅキはその激情を冷たい理性で押さえ込み、冷静さを取り戻した。

 目を閉じて落ち着く。

 急な不意打ちの再開だった故に動揺してしまった。そうだ、今の自分はかつての弱かった頃の自分ではない。ハヅキはそう自分に言い聞かせた。

「今頃、この俺の前に姿を見せるとはな」

「私だって別に姿を見せたくて見せたんじゃないです…」

「では、何故ここにいる」

「無理やり  にここに連れてこられました」

 誰に連れてこられたと言ったのか。それは、ハヅキが最も聞きたくない名だったのではないか。

 この少女が誰か分からない飛花だけは、話にも付いていけず不安そうにハヅキの背を見守っていた。

「辛かったです…」

「なにがあった」

「ニンゲンじゃなくなったから、時間が無限になりました。みんなにとっての一秒は、今の私には数億年よりもずっと永い。もう遥か昔だけど  に言われました。ここで待ってて、いつかやってくるハヅキにこの剣を渡せ、と。それまでは死ぬことも許されなかった」

「――それを命じたのは神様か?」

 もしも、神様が願いを一つだけ叶えてくれるなら。少し前に聞いた言葉が蘇った。

 少女はきょとんとした顔になった。

「うん。知ってたの?」

「いや。そんな気がしただけだ」

 ちりちりと脳髄が痛んだ。ハヅキの愛した少女が一秒を数億年よりも永く感じるような場所で、たった独りで暮らしていたという事実が、吐き気を覚えさせた。

「―――とにかく」

 少女はゆっくりと息を吐いた。あの螺旋階段のように長い永い息を吐いた。

「疲れた…」

「その剣を俺はもらいにきた」

「はい…」

「剣はもらう。そしてお前も来い。今の俺は昔の俺とは違う。今度こそ、俺はお前を幸福にできるだけの力をつけてきた」

 泉の少女は暗く俯いた。

「私。貴方とは結ばれない。もうそう決めたんです」

「俺以上の男を見つけたのか?」

「違う…」

 首を横に振った。悲しくも固い決意を持った眼をしていた。

「決めました…」

「理由を聞かせてもらおうか」

「言いません…」

 ハヅキの心に苛立ちと怒りが湧き上がってくる。

 この少女からの否定の言葉は、世界の終焉よりも許し難いものであった。それだけハヅキは目の前の少女に入れ込んできた。だからこそ許せないのだ。

 それでも、その感情を冷静に押さえ込んだ。

「俺はお前がいなければ幸福にはなれん」

「そんなことない。私は全部見てたんですよ。私を失った後の貴方を。新しい女の子を次々と手に入れているのを私は見てた。もう新しい恋人もいるんでしょう? いつまで過去にしがみ付いているつもりですか?」

 少女は飛花の方へと視線を向けた。飛花はびくりと震えた。

「その子も貴方の新しい女の子でしょう? 私はいなくても貴方は…」

「俺にはお前が必要なんだ! お前の代わりになるやつを探したことはあった! ただ、誰がいようとも、何人いようとも、それは決してお前の代わりなんかではなかった! 俺にはお前が必要なんだ!」

「でも…」

「俺のところに戻ってこい! 今の俺は昔の俺とは違う! 今度こそお前とは」

 また悲しげな表情を返された。

「貴方の気持ちはよく分かった。でも、私は貴方とは行かない…」

「頑固な所は変わってないんだな」

「はい。もう決めましたから」

 ハヅキも少女も昔を思い出した。

 あの頃は恋することを素晴らしいと互いに思っていた。いつから愛は苦しい感情になったのか。

「私に構ってたら木葉さんが可哀想ですよ」

「あいつはお前のことは全て知っている。あいつにも言った。いつか必ず俺はお前も手に入れてみせると。そう木葉に『約束』し『誓った』」

「あなたが変わったのは……私のせい?」

「そうだな…。俺も辛かった。お前がいなくなってからの俺には、この世界は地獄のようであった。呼吸をすれば胸は焼き付き、食べ物の味も忘れた」

「ごめんね……」

「構わん。許す」

 決して歩を共にすることはできなくとも、この泉の少女と言葉を交えるだけでも、胸に溜まった蟠りは氷のように溶けていった。

「俺はお前が好きだった。お前さえいればそれで全てがよかった」

「この剣は」

 少女は悩ましい剣をハヅキの前に翳した。

「神様が言っていた。貴方が連れてくる女の子よりも、私を選ぶのなら差し上げてもいいって」

「――――」

「その子をこの泉に突き落としたら、この剣は貴方にあげられるし、私は泉の呪縛から解き放たれることができる…」

 飛花一人と、ハヅキの最愛の女と悩ましい剣の抱き合わせの選択。

 ハヅキは唸った。

 きっと欲望のまま選ぶのなら、少女と剣を選ぶ。寧ろ剣などおまけだ。ハヅキはこの少女のことだけは決して忘れたことはなかった。

 飛花の言葉が脳裏に蘇る。

(あたしはきっと、そのヒトには勝てないんだろうな…)

 そうだった。ハヅキは取り繕った言葉を口にしていたが、こうしてこの最愛の少女と顔を合わせれば、また気持ちも揺らいだ。

 初恋だった。無数の女に囲まれようとも、木葉がいようとも、喚姫がいようとも、この少女だけはハヅキの中では別格だったのだ。

 そして、悩ましい剣がなければ木葉を助けることもできない。

「―――――」

 飛花はハヅキに取ってなんだったのか。

 正直に告白するならば、ハヅキは木葉や喚姫ほどには、飛花を愛してはいない。木葉と喚姫、あるいは目の前の少女の中からならば、誰かを選ぶことはできないだろう。しかし、飛花が彼女達と同じだけ大切だと言い切れるのか。

 飛花を犠牲にすれば。そんな考えが僅かだが頭に過ぎり、ハヅキは苦悩した。

 ハヅキは飛花の方を振り返った。

「――――」

 飛花は震えている。目を閉じてがたがたと震えていた。

 捨てられることが怖いのだ。誰かに切り捨てられることが怖いのだ。信じていた者に捨てられることが怖いのだ。

 いつか、ハヅキが目の前の少女と破局した時のように震えているのだ。

 泉の少女へと振り返った。

「俺はお前が欲しい」

「…………」

「しかし。俺は二度と約束を破るわけにはいかん。俺は飛花を守ると約束した」

「私との時はお互いに約束を守れなかったもんね…」

「ああ。もう、俺は誰かとの約束を破るわけにはいかん」

「うん」

「ただ。お前とも約束をしていたことを俺は今思い出したぞ。俺は一生かけてお前を守り抜くと約束していた。お前の価値は俺が証明するとも約束した」

「そんな約束もう無効でいいですよ…」

「約束が効力を失くすのはこの俺の誇りが没した時だ。認めん」

「私と貴方の関係はもう壊れたんですよ…」

「俺は学んだぞ。お前を失った後、木葉や喚姫と知り合い、多くのことを学んだ。欲望だ。欲しいものは決して諦めん。この俺の全身全霊がお前を欲しがっている。それが」

「もうやめて…」

「よくその眼球に焼き付けろ! それが俺の戦いだ! 人生の戦いだ! お前が俺を拒むというのなら、お前を倒してでも俺はお前を手に入れる! 俺がお前を欲しいと言ったことは戯言でもなんでもなく、紛れもなく『本気』であったことを証明してやる!」

「――――」

 少女は悩ましい剣を後ろに下げた。

「その子を選んだ以上、この剣は貴方にはあげられない…」

「構わん。その代わりお前を寄越せ。それで許す」

「神様が言ってた。もしも、悩ましい剣をあげられない時はこの悩める剣を」

 悩ましい剣の代わりに差し出されたのは、一振りの見事な光り輝く剣であった。

「もらっていいのか?」

「はい」

 ハヅキは悩める剣を手に入れた。

「これがあればあのメガアクマにも勝てるか…」

「わかりません。用事が終わったのなら、もう帰ってください…」

「まだ終わっていない。お前を連れて帰る」

「貴方は私じゃない子を選んだんですよ…。なにいってるのですか…」

「俺は飛花を捨てないと言ったが。お前を諦めんとも言った」

「欲張りです…」

「欲張りのなにが悪い。この俺が世界を俺の望む形に作り変えてやる。欲張りが悪だと言うのなら、欲張りが正義と呼ばれる時代を俺が作ってやる」

「強くなりましたね……。私がいない今のほうが貴方は輝いてるかもしれない…」

 かつて、ゴキブリと見下したメガアクマの拷問に掛けられ、歯を折られ、泉に助けられた。あの頃よりもずっと強くなった。

 失った感情もあった。

「そうだな、昔の俺はバカだった。ただ、もしもお前と知り合い、傷ついていなければ、今も俺はバカなままだっただろう」

「うん…」

「お前と知り合えてよかったぞ。それは真実だ」

「うん。良かった…」

 泉は足元に持ち主の現れなかった悩ましい剣を沈めた。

「――――」

 地響きと共に部屋が崩れ始めた。

「ここはもう用を成さない間となったから、もうすぐ壊れます。もう帰って」

「お前はどうするのだ」

「また永い時間、独りで眠るだけです…」

 一秒が数億年にも感じるあの世界に戻るという少女の腕を、ハヅキは掴んだ。昔と火傷を直してやった時とは違う。ストレスと悲しみが肌を傷めていた。

「そんなこと許さん。俺と一緒に来い」

「行かない…」

「何故だ」

「もう決めたから」

「お前の『決めた』において、この俺の感情は一切考慮に値されないのか?」

「――――」

 少女は口篭った。

「俺が不幸になろうとも、お前はなんら不都合がないのか?」

「―――――」

「お前は本当に―――!」

 最後の一言を吐こうとしたハヅキの口に少女はそっと手を当てた。

「言っちゃダメ」

「――」

「……分かった。全部が終わったらもう一回ここに来てください。その時は私にとってはまた遥か先の未来。役目も失い、記憶も飛び飛びになっている私を……もしも、貴方を好きにさせてくれるって思えるのなら。ここにきてください」

「ああ」

「でも、そんな可能性は万に一つもないって覚悟はしておいて。私はもう貴方とは結ばれないって何億、何兆、何京年もかけて決めたのですから」

「俺はやるといったらやる」

「駄目。期待しないで」

「それこそ駄目だ。欲しいものを絶対に手に入れるという意気込みなくして戦えるものか」

「これから貴方がここから去ったあと、無限とも思える時間、貴方を拒み続ける。普通の時間しか体感していない貴方に、その時の私の心を揺るがすことは不可能です…」

 今度はハヅキが少女の口を押さえ黙らせた。

「男には決して引けない戦いというものがある。お前のこともそうだ。お前は俺の戦いをしっかりと目に焼き付けていろ! これがかつてお前が愛した男だ! お前を失って苦しみ抜き、その果てに至った 男の姿だ! その姿が本物であれば、決して幾年の時が流れようとも忘却するものか!」

 少女はもうなにも言わなかった。

 悲しい目でハヅキを見つめていた。

「愛情に障害は付き纏う。お前はここで俺の勇士を見ていろ。再びお前の心を俺は手に入れる」

「期待しちゃダメだって…」

「まあ見ていろ。最後まで諦めない男の強さを見せてやる」

 部屋が崩れ始めた。もう時間は残されていなかった。

 ハヅキは一時の別れの言葉を口にした。

「お前と会えて俺は幸せであった。昔も。今も」

「私もです…」

「ありがとう、泉」

「ありがとう、ハヅキ」

 

 

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