-天使のデザイア- メガクラックション
2章 鎮痛
『アスペタクル様。最近はニンゲンの抵抗も激しくなってきました』
『―――――』
美の少女は部下の報告にも繭一つ動かさなかった。彼女の目にはニンゲンはおろか、メガアクマすら映っていない。
それでも部下は続けた。
『既に陥落した要塞の数は十を超え、また、我らを裏切り、敵に寝返ったメガアクマも現れ始めている始末です。如何致しましょうか』
アスペタクルはただ無表情に玉座に腰掛けているだけだ。それでも部下は主の意思を理解した。
頭を下げ退室しようとする。
『―――待て』
鈴のような声が男を引きとめた。
アスペタクルだ。彼女が声を出すことがそれだけでも重大な命令の前触れでもある。男は再び膝を付いた。
『は』
『引き連れている男がいるな。その男の名は?』
『ハヅキと言う乱暴な男です』
『ハヅキ』
アスペタクルは薄く笑った。
無限に近い寿命を持つアスペタクルが久しく興味を覚えたのだ。
『アスペタクル様の興味を引かれるとは。いやはや珍しい』
呼んでもいない男が玉座の間に現れた。
通常、部外者などこのノーブルメガアクマが許す筈もない。だが、今日現れた男は主と同格の王なのだ。
『アンキシャスか』
『ははは。その男、私も一度見たことがありましてな』
『ああ。以前、発情天使を連れて歯向かってきた男か?』
『発情天使を“取り上げれば”歯向かうこともないだろうと、見過ごしたのがまずかったですかなぁ』
『どういう男だ?』
『頭のいい子供のような大人でしたな』
『なるほど』
アスペタクルは低く笑った。
「飛花の様子はどうだ」
「部屋の中で塞ぎこんでいます」
『ヒ、ヒヒ飛花さん。しし心配なんだな』
『ずっと自分を責め続けているみたいだよ…』
メガネの死からも戦いは続いた。新たな拠点を更に数箇所手に入れ、また仲間もたくさん迎え入れた。たが、ハヅキ達の心は決して晴れやかではなかった。
あの時のメガネの死は皆の心に影を落としている。飛花は陰鬱に陥った。そしてハヅキも反省していた。飛花への配慮の甘さが、彼女をあの暴走に至らせてしまったのだと。
反省はしたが、代償がメガネの命だった。失った物が大きかった。
「国王」
将軍が駆け寄り、ハヅキの前に膝を付いた。
「新たな志願兵が集まっております」
「む、そうか。わかった、すぐに行く」
「は」
ハヅキはうぅむと唸った。
「兵が集まるのは良いことだが、こう忙しくてはやりたいこともできんな」
「王様ってのはそういうものですよ」
『てか、ハヅキ。いつの間に王様になってたの…?』
「お前が昼間、寝ている間にだ」
『ヒトを昼寝屋みたいに…』
木葉は項垂れた。
「本当はこういう役目はヒデヨシ辺りに任せたいところだ。飛花の所に行きたいのだが」
『お、おおおおら。王様のためならがが頑張るんだな!』
「駄目ですよ。ちゃんと王様が姿を見せないと、高まる士気も高まりませんよ」
「そうだな。難しいもんだ」
「飛花さんの方は私が面倒を見ておきますので、ご安心ください」
「うむ、後で俺も行くと伝えておいてくれ。では、新たな兵に顔を見せに行こう」
ハヅキは木葉の方もちらりと一瞥した。
「今日はお前も来い」
『へ? 私?』
「うむ。この戦いは全てお前のために始めた。これが俺のお前への愛情だ。だからお前には見せておきたい」
こくりと木葉は頷いた。
「ではいくぞ」
『うん』
「ああ、そうだ。喚姫」
「はい?」
ハヅキは喚姫の手を取った。そして、その人差し指を立たせた。
「……? なんですか?」
ハヅキは言葉では答えず、いきなり喚姫の指を銜えた。れろれろと舌で喚姫の指を舐め回した。
「きゃああああああああああっ?」
『うわ…。ハヅキ、なんてことしてるの…』
「いや、前から綺麗な指だと思ってて、一度くわえてみたかったのだが」
「な、な、な…!」
顔を真っ赤にして喚姫は憤るが、相手がハヅキだと思うと、怒りよりも諦めが勝り、溜め息を吐くだけで終わった。
「なんだ、怒らんのか。つまらん」
「私がムキになって怒ったらハヅキが喜ぶじゃないですか…」
「うむ。よし、木葉。食後の腹ごなしに兵のところへ行くぞ」
『はい』
「食事って私の指ですかぁ…」
「いや、顔を赤らめる喚姫だ」
「むっかつきます……」
テラスへと向かうハヅキと木葉の背を見送り、喚姫は溜め息を吐いた。
飛花は食欲がまるで湧かなかった。ほとんどなにも口にしていないい。
どうしてあの時、メガネは自分を庇ったのか。
死に際、口づけまでされたメガネを、不謹慎ながらも羨ましく思った。そう思うと、罪悪感に更なる拍車が掛かった。彼女が死んだのは自分のせいだと思っているからだ。
(メガネちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい)
今頃になって涙が出てきた。
ただ、それも自分を可哀想と思う余りに出た涙だと思うと、自己嫌悪はより深みにはまっていった。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ)
「―――っ?」
部屋に誰かが、まるで闇が滑るかのようにぬうっと入ってきた。
突然の来訪者に飛花はびくりと震えた。部屋に入ってきた少女には実感がなく、暗い影のような存在だった。死んだメガネが幽霊となり現れたような気がした。
「誰…?」
よく知っていた少女のはずなのに、まるで別の誰かのように見えたのだ。
『あなたを元気にするために来ました』
「あ」
少女は飛花に近づき、すっとその頬を両手で包み込んだ。
まるで発熱した時のように、脳髄が痺れ、夢を見ているかのような気持ちになった。
『彼に甘えてみなさい。彼はきっと、女の愛情を幾らでも受け入れるでしょう』
飛花の口の中に少女は人差し指を押し込んだ。
「んっっ?」
『舐めて』
「んんんっ」
『あなたが羨ましがったキスの味です』
飛花は少女の指を貪るように嘗め尽くした。
『いい子です。もう少し元気になりなさい』
飛花はこくこくと頷いた。
「俺は約束しよう。皆の力があれば、必ずや如何なる強敵をも撃破してみせると。勝利を約束しよう。戦いに志願した君達には是非誇って欲しい。胸を張って欲しい。その覇気がなによりも人の心に勇気を与えるのだ」
ハヅキは兵達に熱い胸の内を聞かせながらも、心の中では別のことを考えていた。一流のニンゲンというのは今の仕事を遂行しながらも、同時に次の行動の段取りを考えるという。ハヅキもそれに倣い、常に先のことを考える癖を付けている。
飛花のことも気になっていたが、ヒデヨシのことも気になったのだ。
兵達の未来を祝福したあと、ハヅキはマントを翻し背を向けた。
「木葉、ヒデヨシは何処だ」
『ヒデヨシさん? 地下で片付け物をしていたよ』
「片付け物…」
ヒデヨシはよく働く。
ハヅキの命令などなくとも、戦時でなくとも、普段から雑用をなんでもこなしているのだ。
「分かった、俺は少しヒデヨシに会ってくる。お前は少し休んでろ」
『はーい』
ハヅキは木葉と別れ、一人で地下へと降りた。
真面目な話をする時は二人っきりのほうが良いとハヅキは考えている。第三者がいると、どうしても心の中を全て吐き出すことが難しくなるからだ。
「ヒデヨシ、いるか」
『あ、ああああ兄貴っ! どうしたんだな?』
掃除用具を持ち、地下室の埃を払っているヒデヨシがいた。
「掃除中か」
「おおおお! おおオラ皆で使うこの城を綺麗にするんだな! 住む場所が綺麗だと心も綺麗になると聞いたど!」
ハヅキもヒデヨシの弁に頷いた。
「しかし、お前は休んでいないではないか。ずっと働き通しだろ」
『オラは平気なんだな』
「ヒデヨシ」
『あ?』
予め用意していた茶菓子をヒデヨシの前に出した。
「これは喚姫が作ってくれたものだ。お前はメガアクマだから食っても栄養にならんかもしれんが。まあ、俺と一緒にこれを食うぞ」
『も、ももももったいないんだな。オラみたいなのにそんなの。兄貴は女の子が大好きだ。だから、それは女の子と一緒に食べてくんろ。オラはそれで満足だ』
「俺はな。お前と食うためにここまで来たんだぞ? お前はこれを食う権利と同時に、食う義務もある」
『兄貴…』
「たまには休め。それもまた仕事だ」
ヒデヨシは涙を流していた。
『ありがたいお言葉だだだ。だけど、このヒデヨシ、仕事を途中で投げ出すわけにもいかねぇ。そのお茶菓子は掃除し終わった後に頂くといことでもいいだすか?』
「分かった。では、これは保管しておこう。早めに戻って来い」
「おお!」
ヒデヨシはまるで新たな燃料を注がれたかのように、全身の力を漲らせ清掃に取り掛かった。
たまにはこういうのも良いとハヅキは思い、地上へと戻った。
ハヅキが王間に戻った時、喚姫の隣には飛花も立っていた。
「飛花、大丈夫なのか」
「うん。あたしなりに色々考えてた。それで答え出した。これからもあたし、ハヅキさんのために戦うよ」
「そうか。だが、命は粗末にするな。お前の命はお前だけのものではない。お前は俺に命を預けたはずだ。少なくとも俺のものでもある。それにその命はメガネのものでもある」
飛花は頷いた。
「よし。じゃあ、二度と無謀なことはするな。なにか憂いがあるならば、まずはこの俺を訪ねてこい。お前にはそれだけの権利があり、義務がある。お前のために、この俺が時間を割いてやる。誇れ」
「うん。ありがと、ハヅキさん…」
「よしよし。俺を悲しませるな。俺を幸福にしろ」
ハヅキは飛花の頭を撫でてやった。
「さて」
ドカっと玉座に座り、ハヅキは皆を見渡した。
「状況の報告を頼む」
「はい」
喚姫が皆にプリントを配る。
そこにはハヅキがこれまでに制圧してきた地区と、その周辺の地図が示されている。
ハヅキの進攻は破竹の勢いであり、ニンゲンばかりではなく、メガアクマすらも城を明け渡し、傘下に下ってくる者も現れ始めた。
ハヅキはその全てを信用しているわけではないが、降伏は受け入れた。ある程度の領域を確保するようになってからは、食物や武器の生産ラインなども安定させた。難しいのはメガアクマの扱いで彼らの食料、すなわちニンゲンはそう簡単には供給を安定することができないでいた。
「なんとか、こう、ニンゲンをぱぱっと増やせないものかなあ」
「家畜じゃないんですから…」
「ん、家畜…?」
家畜という言葉でぴんと来た。
「そうだ。ニンゲン養殖工場を作ろう」
「なんですか、それは?」
「とりあえず、入れ物を作って、男と女と水と肉と米と野菜を放り込み、適度な光を当てておけば、発情するよな。ほっといたら増えていくという、俺の画期的アイデアだ」
「全然画期的じゃありませんよ…」
「喚姫、最近生意気だぞ」
「はいはい。誰のせいでしょうね」
喚姫は大きな地図を、皆に見えるように玉座前に広げた。
ハヅキ達の目指す場所は西だ。
西へ、西へと攻め続ける。西の王、アスペタクルをなんとかするために。
「現在、私達は既に四人のノーブルメガアクマを味方に引き入れています。通常、敵の砦にいるノーブルメガアクマは一匹しかいないはずなので、制圧する時に二人以上を向かわせれば、数の差で押さえ込むことができます」
「うむ。俺の目論見通りであったな」
最初の一人を味方に引き入れる時は苦労した。相手は気位の高いノーブルメガアクマだ。そう簡単にはニンゲンに力など貸してはくれなかった。そもそも、ハヅキも最初は味方に引き入れるつもりなどなかったのだが。
『ハヅキ』
天井裏からにゅっと現れ、メガアクマの童女がハヅキの首筋へと巻き付いた。
「こら。後で遊んでやるから、少し大人しくしていろ」
『もう待ちくたびれたあああああ。遊んでくれないとコロスよおおおお』
「冗談でも殺すっていうな。俺が死んでも平気なのか、お前は?」
『うう…』
しょんぼりとノーブルメガアクマの童女は表情を沈めた。戦場で彼女を見つけた時、ハヅキは殺害ではなく、仲間に引き入れることを思いついたのだ。
善悪が未分別なこの少女を見た時、ヒデヨシの時のように交渉次第では仲間に引き入れる自信が沸いたのだ。
「俺は今大事な話をしているんだ。この話し合いは必ずお前のためにもなる。だから、少し待ってはくれんか?」
『うん、待つ。ワガママいってみただけ』
「よしよし、いい子だ。飛花、この子と遊んでやっててくれ」
「はーい」
飛花が少女を連れ、部屋から出て行った。
丁度、それと入れ替わりに掃除が終わったらしいヒデヨシが戻ってきた。
『お。おおおおおオラも遊んで欲しいんだな?』
「気持ち悪いことを言うな」
『ガーン』
「あの早く話を進めましょう…」
喚姫は呆れ顔だった。
「うむ。今後の進路だが、こちら側から攻めよう」
「北からですか? でもそれなら…。……っ?」
喚姫の言葉は爆音で遮られた。
突然、広間の中央に落雷が落ちたのだ。急の轟音と爆発で耳も目も役に立たなくなった。
「な、なんだっ―――!」
煙が晴れたそこには、華美な衣を纏った二人の男女が立っていた。
「なんだ――――!」
正に威圧感。これでもかという程の圧倒的なパワーを二人は撒き散らしている。
特に少女の方からは、まるでこの世の者とは思えないような、神々しさすら全身から放っている。その輝きは何処か泉にも通じるものがあった。いや、泉よりも、更に近い男がいた。
「メ、メガアクマだあああああっ!」
広間はあっという間にパニックとなる。が、それも一瞬の内に治まった。
なんとこの場にいた全員が少女へと跪いたのだ。
ハヅキですら、額を床に擦り付けて少女へと頭を下げた。
「ぬぬぬぬ…!」
強制的にそうさせられているのではなく、なんと自らの意思が彼女を敬うように捻じ曲げられているのだ。
ハヅキだけではない。木葉も、喚姫も、ヒデヨシも、他の将軍達も、皆、完全に服従の意思を少女に見せた。
それを満足そうに見渡し、男は厳かな声を持って告げた。
『我らが生きとし生ける者全ての万能なる新しき主、アスペタクル様から諸君らにお聞かせ頂ける言がある』
ハヅキの全身がどくんと冷たくなった。
アスペタクル。
いつか殺そうと思っていた相手だ。それがまさか、突如この場に現れるなど想像もつかなかった。
『この私がこの場に突如現れるなど、考えも付かなかったか?』
凛とした声だった。
硬くは無い。更けてもいない。正しく少女の鈴のような声なのに、その言葉には絶対的に逆らえない強力な意思が込められていた。
『少々目障りになってきた』
「…………」
『お前達に命じる。死ね』
その言葉も絶対だった。
ここにいる皆がそれぞれ自分のコメカミに銃口を当てた。
「――――――――――――!」
広間に銃声と悲鳴が響いた。
緑の服の将軍が自害した。
赤い服の兵士が自害した。
皆、次々と自分の頭を撃ち抜いていく。
(な、な、な、な…)
ハヅキは吼えようとした。
引き金を絞ろうとする指に抗った。なのに、少しずつ指が引かれていく。
指を引けば死んでしまう。
「――――――!」
視線だけを惨劇の舞台に移した。
「――――!」
ヒデヨシが自らの頭を撃ち抜いた。
「ヒデ―――――――――――!」
死んだ。
ハヅキの制止も間に合わず、ヒデヨシは自らを撃ち抜き、脳みそを散らばせて死んだ。
木葉も喚姫も自らを撃ち抜こうとする。
ヒデヨシの死に様を見て分かった。
銃で頭を撃とうものなら、頭部は破裂しその死体は醜くなる。
「ああああああああ――――!」
ハヅキは叫ぶが、引き金を引くことを止められない。
完全にハヅキの意思は制圧されていた。
「!」
ハヅキの身体を自由に扱うことが出来た、もう一人の人格。『彼女』がハヅキに渇を入れてくれた。ような気がした。
腕力を持って金属の銃身を握り潰した。
「やめんかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
広間を一括した。
惨劇がぴたりと止まった。大丈夫だ、間に合った。木葉も喚姫も気を失っているが生きている。
『ほう…』
アスペタクルは笑った。
『私の目には……お前の中に奇妙な魂が混ざっているように感じるが』
「ヒデヨシは―――」
ハヅキは慌ててヒデヨシの下に駆け寄った。
死んでいる。
銃弾が撃ち込まれた頭は破裂し、完全に絶命していた。
『貴様! アスペタクル様は死ねと仰られたのだぞ!』
「死ぬのはお前だ!」
ハヅキは王室に飾ってあった、初めてメガアクマの主婦を殺した思い出の金属バットを手に取り、ノーブルメガアクマへと殴りかかった。
『グギガっ?』
見事に頭を叩き割られ、ノーブルメガアクマは目玉を飛ばして絶命した。
『ふむ。そんな原始的な武器でこいつを殺すか』
アスペタクルは笑っている。
ハヅキは怒りに震えながらも死を間近に感じた。
この敵はやばいと、脳みそが全力で赤信号を点灯させている。彼女が言葉を発しただけで、それが絶対的な命令となるのだ。
今も真っ直ぐと相手を見ていることすら難しい。
『どうした。お前もその程度か?』
「俺は」
どうすればいいと自問した。
ただ、敵の姿を見るだけで抵抗する意思が急速に萎えていく。
(メガネ。俺はお前の死の時に感じた。もう誰も失いたくないと。しかし、今ヒデヨシを失った。俺はどうすればいい。メガネ。頭のいいお前ならどうする)
ハヅキの頭の中は死んだメガネのことで一杯になった。
(メガネ―――!)
まるで閃光のように、メガネから究極の発想がハヅキの頭に湧き出した。
ハヅキはメガネの残した眼鏡を装備しアスペタクルを睨み付けた。歪んだ視界がアスペタクルへの敬愛を止めた。
「死ねえぇぇぇぇ!」
ハヅキは金属バットを振りかぶり、メガアクマの王を殺さんと全力で駆けた。
『大したものだ』
だが、メガネの奇跡もアスペタクルには届かない。
『止まれ』
少女の厳しい声に今度こそハヅキは逆らえなかった。
身体が完全に止まり、ぴたりと硬直してしまった。
「き、貴様……!」
『ふふ。私を殺せば、そこの女は消滅するのだぞ?』
そうだ。アスペタクルを殺すだけでは駄目なのだ。だから、殺さずに抵抗力を奪えれば良いと思っていたが、彼女の強さは桁が違った。
『最初の言葉で死んでいたら、もはやお前にかける期待などなかったのだが。さて、どうしたものか』
少女の姿をした悪魔はゆっくりとハヅキに近づき、頬を撫でてきた。メガアクマ特有の冷たい肌がハヅキの体温を奪った。
アスペタクルはハヅキから離れ、指を二本立てた。
『選ぶが良い。一つ目。私の物となり、私のためにお前の覇気を振るえ。二つ目だが。一つ目を選ばなかった未来など、言うまでもないな?』
圧倒的な死の選択だ。助かるのなら助かりたいとは思った。
ただ、ハヅキには命よりも大切なものもあった。木葉や喚姫を守ることが使命だ。
強大であり、畏敬の念すら覚えてしまうアスペタクルを、可能な限り注意深く観察した。
(そうか…)
この少女は自分と似ていると思った。
アスペタクルは決して、ハヅキが他の女を見ることを許さないだろう。それはかつてハヅキが喚姫の恋人、ピロシとの仲を気にしたように、また、あるいは最初に処女かどうかを聞いたように。
服従する条件として、木葉や喚姫の安全を保証して欲しいなどと言えば、その瞬間に二人は殺されてしまう。
『どうした。早く選べ』
選べという言葉もまた絶対的な命令であった。
ハヅキは強制的にどちらか『マシな方』を選ばされそうになり、それを理性で強引に押さえつけた。
「一つ頼みがある」
アスペタクルは年相応のきょとんとした顔をした。そして破顔した。
『ふふ…。この私に頼み事か。良い。聞き遂げるがどうかは別だが、話してみるが良い』
「俺には大事な女がいる。俺はその者達を守らねばいかん」
アスペタクルの表情が凍りついた。そして、憤怒の色へと変わっていく。
『私の前で他の女を選ぶか?』
静かな声だったのに、その声は地獄の冷気となり広間を支配した。それでもハヅキは生き残るために次の言葉を発した。
「分かっている。俺がそういう選択を取れば、あんたはこの場にいる全員を皆殺しにするであろう」
『ほう…』
僅かだがアスペタクルの怒りが和らいだ。ハヅキは一気に畳み掛けた。
「俺も自分の命は可愛い。同時に俺の女も可愛い」
『――――』
「今すぐには答えは出せん。俺は必ずあんたの城まで行く。それまで、この俺の戦う姿をよく目に焼き付けておけ。俺もその時に答えを出そう」
先延ばし。
それまでにアスペタクルと戦う有効な術を見つけるのだ。また、どうしても見つからないなら、木葉達を連れて逃走するのもいい。
『ふふふふ』
アスペタクルは低く笑った。
『結論を先延ばしにし、それまでにこの私を倒す術を見つけるというのか。それとも逃げるか?』
笑っている。
ハヅキは息が詰まるような緊張の中、額から汗を流した。
『お前は…。他の者とは違うな。恐怖や緊張を覚えながらも絶望はしていない。良い。私はお前が気に入った。城にて待っていてやろう。その時に答えを出せばよかろう』
ハヅキは心が一瞬晴れた。だが。
『ふふ』
「―――っ! ああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
左腕に赤い線が走り、灼熱を感じた。
真っ赤な断面が見える。左腕が肩から切断されたのだ。
「ぐああああああああああああああああああああああああああああああっ」
アスペタクルは悲鳴を上げるハヅキに背を向け、木葉へと向かった。
「こ、木葉っ?」
『来い』
『は、はいっ…』
木葉もアスペタクルには逆らえない。命じられるまま立ち上がった。
『お前の左腕とこの女は預かっておく』
「貴様ああああああああああああ!」
『これだけ圧倒的な違いを見せ付けられても諦めぬか。城で待っている。せいぜい、私を失望させるな』
アスペタクルは木葉の腰に手を回し、冷たく笑いながら消え去った。
「アスペタクルぅぅぅうううう!」
ハヅキは吠えた。
左腕からの出血が激しい。
喚姫が駆けてきたところまでは覚えているが、その先の記憶は途切れた。