-天使のデザイア- セクタ・イービルデッド

2章 発情


 

 睡眠時、意識のみが覚醒するとハヅキは真っ暗な世界にいた。完全な暗黒。自分さえも生きていない。ここにあるのはただの意識と記憶だけだ。

目の前にいるのは等身大のマリー。

 ここがハヅキとマリーの心の世界だ。

 マリーはふんっと鼻を鳴らし、手にした本に今日あった出来事を書き殴り、書き終えた本を虚空へと飛ばしていく。ここはマリーによるハヅキの記憶管理室だ。望めばいつでもマリーが今まで書き溜めた本を取り寄せ、映像音声その他の知覚を交えて過去の記憶に浸ることもできた。とにかく彼女はご立腹のようだ。

『なに天使なんかにハナの下のばしてるのよ』

(伸ばしてない)

『こんな牢屋で油売ってる場合じゃない思うんだよね、私は。女の子探すんでしょ。なんて名前だっけ。確かイケとかいう名前の』

(…泉だ)

『そうそれ。泉ちゃんを探すんでしょ。天使に構いすぎて死刑にされたらもう会えないよ』

(ああ)

 そっけなく返すとマリーは頬を膨らませて、真っ暗な世界で地団駄を踏みまくった。

『もう。今さらぎゃーぎゃー言ってもしゃーないんだけどさ。とりあえずこれからどうするのさ』

(泉がメガアクマに捕まったなら、直接メガアクマに聞くのがいいな。さっき俺らを捕まえたやつがこの街では一番偉いんだろ)

『んー。何回でも言ってやるけど、ザコメガアクマ一人にさえハヅキが一万人かかっても倒せないんだかんね。どうやって聞き出すのさ。あんな傲慢なイキモノがニンゲン如きの言うことを素直に聞くとは思えないな』

(どうするかな)

 マリーはうーんと唸っていたけど、はっと顔をあげた。

『ハヅキ、起きて。足音が聞こえてきた』

 

 

 薄暗い牢獄の中でハヅキは目を覚ました。白髪の天使はハヅキが目を覚ましたのを知ると、にこりと微笑んだ。

 それから間もなくして牢は開かれた。

「ニンゲンー! 出ろー!」

 ゴキブリのような黒い下級メガアクマが二匹牢獄に押し入ってきて、ハヅキの腕を掴んだ。そのまま強制的に連れて行かれる。天使はハヅキの無事を祈るように目を閉じた。

 ――彼女の笑顔を見ていると、天使の味方でいてあげたいと思った。

 牢から連れ出されたハヅキはそのまま暗い廊下を歩かされた。錆びた鉄の廊下は床も壁も天井も黄土色だった。

 錆の世界。鉄の世界。メガアクマの巣の地下牢獄の中を歩かされる。二匹のメガアクマは全身が金属だ。だから歩くたびにカチャカチャと音がなる。

 ハヅキもその音に合わせて歩いた。だから足が床に着くたびにカチャカチャと鳴る。自分もメガアクマになったかのような錯覚を受けた。

「キエーッ! ニンゲンの分際でメガアクマのつもりになるなー!」

 顔面を殴られた。顔に出ていたらしい。

 その後も暗く硬く冷たく汚く臭くどうしようもないメガアクマの廊下を歩かされた。やがてある部屋の前についた。

「ここは?」

 訊ねるとメガアクマ二匹は黒い顔をさらに真っ黒にさせて怒りだした。

「グギガー! ニンゲンがメガアクマ様に発言するんじゃね! お前らは我々メガアクマに言われたことだけしてりゃいいんだ。あとは精々死なずに生きて労働力と信仰心、その身そのものを食料として提供すればいいんだわかったかこのくそったれがー!」

 このゴキブリが。そう口にしようとしたところをマリーに止められた。

『やめときなさいよ。殺されるわよ』

(うむ)

 ハヅキはそのまま部屋に通された。

「――――!」

 部屋は明るかった。明るさが災いした。なんの部屋かわかったのだ。

 拷問部屋だった。

 壁際に掛けられた凶器はニンゲンを殺すものではない。苦しめるためのものだ。あるニンゲンの言葉を思い出した。

「拷問は決してかけられるな。あれは耐えられるものではない」

そう言っていた。

 部屋の中央には椅子が置かれていた。きっとあそこに座らせて拷問を掛けるのだろう。

「グギガーッ! さっさと座れぇ!」

「……っ」

 ニンゲンとは比べられない怪力で腕を引かれ、ハヅキは無理やり椅子に座らされた。

 硬い椅子に座らされ、そのまま手足に枷を掛けられ椅子に縛り付けられた。

 メガアクマは壁からペンチのようなものを取り出した。

「口を開けろお!」

 もう一人のメガアクマがハヅキの口をこじ開け、舌を掴み引っ張った。

 舌を。

強烈に抓られ、引っ張りあげられ、伸ばされる。うげぇ、と声が絞り出された。引っこ抜けるほど強引にねじり上げられ、気管が詰まったのか息ができなくなってきた。

(痛ぇ…)

「グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ! グギガーッ!」

 奇声を発し、ペンチを持ったメガアクマが近寄ってきた。

 ペンチでハヅキは上の前歯を挟まれた。

「お前にはまず罰を与えよう。お前は天使を庇ったな?」

 べきん。

『きゃああああああっ!』

 口内にべきんという折れた音と殴られたような衝撃と血と歯が飛んだ。脳中のマリーの悲鳴が頭の中で跳びまくり、口の中で歯が飛ぶ。

「うあああああああああああああ」

 叫びと呻きは自然と出た。声を出そうと意識したわけではないのに、ハヅキは自然と涙声を出していた。

「うああああああああああああああああああ」

『歯が折れた! 折られた! ハヅキぃっ? 平気っ?』

 メガアクマはげらげらと笑っている。殺したい。痛みよりも、歯が一本減ったことが信じられなかった。

「今のは罰だ。本題はこれからだ。いいか? 天使はお前らカス未満なんだ。そこんとこよくわかっとけ? わかったか? じゃあ誓え。今度天使みたらお前も殴って蹴って、鉄棒で殴るんだ。虐待しろイジメ抜け! いいな?」

 頷かなければ次の歯を折るぞ。そういう脅しを掛けられた。

(……………………………………………………………………………………………)

 従わなければ歯を初めとして身体がどんどんと破壊されていく。

 怒りよりも恐怖の方が強かった。だから屈服しかけた。けど魂の芯はこんなゴキブリのようなやつらに屈服することを拒んでいた。

 二匹のメガアクマはハヅキから手を離し、答えを聞こうとハヅキの顔を覗き込む。

 舌が自由になり、口の中で動かせることで、抜かれた歯跡を嘗めることができた。歯があるべき場所にはなにもなく、歯の付け根を舐めることができてしまった。普段決して触れることのない場所を舐める感触はむず痒く、血の味がする。

 答えは。

「ぺっ。ぺっ」

 二匹のメガアクマの顔面に唾を飛ばした。

「ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌウ」

 ゴキブリのようにテカテカした黒い顔のメガアクマ達は、怒りによって更にその顔を暗黒に染めていく。

 もう一度唾を吐こうとした。

「キエーッ!」

「むぐぉっ?」

 メガアクマの指がハヅキの口内に突っ込まれた。唾を吐けない。口で息ができず、鼻で呼吸することになり、無理やり手を入れられているため涎が溢れた。

 右頬を殴られた。

 左頬を殴られた。

「おあ……っ」

 ニンゲンを遥かに超える力で顔面を何度も殴打された。目が潰れ、鼻が折れ、歯が砕け、死なないぎりぎりのレベルでの暴行が加えられた。

 何度も殴られた。

 殴り方もまた厭らしかった。意識が途切れぬよう、更に出来うる限りの激痛を与えるよう、二匹のメガアクマはハヅキの顔面を殴り続けた。

『ハヅキ! ハヅキ! このままじゃ死んじゃう! どうしよう! ハヅキ!』

 殴られている。

 殴られている。

 殴られている。

 ずっと殴られ続けた。

痛みはいつの間にか消えていた。感じなくなっていた。

「……」

 応急手当の奇跡。いつのまにか発動していた応急手当がハヅキの顔面から痛みを拭っていた。いつの間にか、ではない。マリーが発動させてくれたのだ。

 ハヅキがたった一つだけ使える奇跡、応急手当。

身体の破損は癒せないが、痛みだけなら和らげることができる。せめて痛みだけでもとマリーが気を利かせてくれたのだ。

 大した奇跡ではないが、今だけはこの力を持っていて良かったと思った。

 二匹のメガアクマの動きが止まった。

「…なんだこの力の流れは。お前、奇跡使いか? あ? お前奇跡を使ったのか? お前、まさか主(カスのアルジ)とかに信仰心持ってるやつか? あ? 死ね。今ここで殺してやる!」

 メガアクマは吼えた。今度ばかりはマリーも苦笑した。

『どうせ殺されてたよ。ハヅキは天使を虐待する、なんて誓えないでしょう? せめてハヅキが痛み感じないようにって、身体勝手に使って神様への回線開いて奇跡使っちゃった』

(ありがとう)

 マリーは脳内でウインクした。

「ニンゲンめ、しねえええええええええええええええええええええ!」

 メガアクマの鉄拳がハヅキの頭を叩き潰そうと振り上げられた。

 これで終わりか。そう諦めハヅキは目を閉じた。数瞬後にはハヅキの頭はグチャグチャのグジョグジョの豆腐のように潰されているだろう。

 

 

 ――死に行く者が見る幻か。

 瞼を閉じていて尚眩い光源が現れた。

 光源から感じる圧倒的な力と神聖の胎動。これは奇跡を使う瞬間、主への回路を繋いだ時に感じる強烈な波動と同じだ。

「……!」

 目を見開いた。

 いた。

 主に限りなく近い神聖の少女がいた。

「――――――――――――――――――!」

 目にした瞬間、脳が沸騰した。ような気がした。

 この少女をハヅキは知っている。

 ずっと探していた少女だ。どうして、こんなところに突然現れたりしたのか。

 死後の幻かとさえハヅキは己の認識を疑った。

「泉……」

 背にヒカリの翼を持ち金の髪を靡かせた少女は、ハヅキを庇うように二匹のメガアクマの前に降り立った。

 天使ではない。今日見た二人の天使からも慈愛の眼差しを感じたが、目の前にいる神掛かった少女から感じるものはそんなものではなかった。

 知性、精神、品位、風格。

 全てがニンゲンよりも、天使よりも更に頂点に近い。

「なんだてめえは!」

 メガアクマの汚い虚勢声に、この少女は一切臆することなどなかった。

「神罰か改心か。選びなさい、メガアクマ!」

 

 

 戦いにさえならなかった。

 逆上し無謀にも特攻したメガアクマは、瞬きする間に二匹纏めて脳天から股下までを一刀両断され、四つの鉄屑は音を鳴らし床に散らかった。

 少女の手にはヒカリの槍のようなものが握られている。それを光速で振るい敵を真っ二つにしたのだ。

 槍ではない。剣にも見える。だけど剣でもない。ヒカリは常に不定形であり、無形。

少女の意思により変形も収納も自在なのか。敵の死亡を確認すると、武器は彼女の手の中へと消え去った。戻ったという方が適切か。

「大丈夫ですか?」

「ぅ…」

 顔面に手を当てられた。メガアクマ達に殴られ、見るも無残だったハヅキの顔面は痒みを覚え、そして癒されていった。

「あ」

「もう平気でしょう?」

 少女はにこりと優雅に笑った。少女の細く白い指は眩く輝き、ハヅキを拘束していた手枷足枷を撫でる。拘束具は粉々に砕け散った。

「私のヒカリは汚れた鉄を砕き、生物を癒す力。メガアクマを倒し、この世界を平和にするため、あなたの下僕となるためにやってきました」

「お前は……泉だよな」

「――――」

 少女から表情が消えた。

「私のこと、覚えてたのですか。ハヅキ…」

 あの時のままだ。背に翼は生え、神々しいオーラを纏ったが、この少女は間違いなく泉だ。

「忘れるわけないだろう。俺はお前を探してずっと旅してたんだ。無事だったのか」

「無事……ではありません」

「なに。どういうことだ」

「私はメガアクマに殺されました」

 嫌な言葉を聞いてしまったが、話はまだ続きがあるらしい。ハヅキは努めて冷静になり、先を促した。

「ハヅキは大変な善行を働いてきたようです。主は仰られました。あなたはメガアクマに立ち向かい、世界を救う資格を持っていると。そして、その補佐をするために、生前貴方と『関係』のあった私を天使として蘇らせ、ここに遣わされました」

 先ほど天使を助けたのが功を期したらしい。ヒト助けはするものだ。

「やっぱり……殺されたのか…」

 泉は表情を暗くしたが、確かに首を縦に振った。

「剣で刺されて殺されました……」

「痛かったか…?」

「……刺されてもすぐに死ねませんでした。その時、痛くて。痛くて、早く死にたかった……意識を失いたかった…」

「ごめん。助けるって約束したのにな」

 泉は首を横に振った。

 ハヅキを気遣っているのだ。ハヅキは泉を助けなければならなかったのだ。

 メガアクマは殺す。愛する泉をこのような目に合わせたメガアクマを、ハヅキは許すことができなかった。

 剣で刺された。決して忘れはしない。

 

 

「ところで、泉は偉い天使なのか?」

 ハヅキが今まで見てきた天使は路上に虫けらのように転がり、ニンゲンに踏みつけられていた者ばかりだった。

 泉は違う。

 黙っていても全身から沸き立つ気質すら崇高なのだ。

 泉は自分の身体を見下ろし、掌を握ったり開いたりして自分の力を確かめた。

「そうですね。『第一層発情天使』というランクに当たるようですが…。普通の天使よりも強い力を持っています。さっきみたいに敵を倒すことも可能です」

 泉は自分の力を示すため、腕を素振りした。

 ぴしっと、風圧だけで壁に亀裂が入った。

 脳内でマリーは感嘆の声を上げた。

『すごいね。完璧にハヅキより強そうだね』

「うむ。強そうだ」

 泉は不思議そうに首を傾げた。

「誰と喋っているのでしょうか…」

「いや…なんでもない…」

「独り言を言ってましたよ……」

 マリーはハヅキ以外の誰にも見えない。所詮、脳内に住む妄想なのだ。ハヅキは頭を横に振った。

「すまん、気にしないでくれ。そうか。泉は偉い天使になったんだな。でも、泉だしな。いつも通り喋っても、許されるのかな俺」

 これでもハヅキは神様を敬う身なのだ。神に最も近い天使に無礼な態度は取りたくはなかった。

 泉は「いつもどおりでいいですよ」と苦笑して許してくれた。

「それに私は貴方に使役するために、ここに呼び出されたのですから」

 そう付け加えた。

「それでハヅキはメガアクマと戦う意思がありますか」

「俺にできることがあるのか?」

「最後の最後に四人のメガアクマの王の心臓をもぎ取る。これはニンゲンの仕事です。ニンゲンがメガアクマに打ち勝ったという儀式のために。私はそれを支援する。あくまで勝つのはハヅキ達ニンゲンです」

 協力するって言っときなさいよ、とマリーが耳元で囁いた。

「わかった。俺にできることならなんでも言ってくれ」

「ありがとう」

「じゃあ…」

 ハヅキは手を差し出した。

「また…よろしくな。泉」

「はい」

 発情天使の少女はにこっと笑い、ハヅキの手を取って握手してくれた。

「よろしくお願いします、ハヅキ」

 手は小さく暖かく、女の子のものだった。

 柔らかい手触りにハヅキの心臓はどきりとした。やっぱり泉の手だ。

『しんでしまえ』

 マリーは毒づいた。

 

 

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