-天使のデザイア- セクタ・イービルデッド

1章 殴打される天使


 

 ハヅキは【砂と炭と鉄屑の荒野】を歩き続けた。

 焼けた地球は死に絶え、生前の文化の欠片が散らかっているだけだ。

『――――! ――――!』

 炭化した残骸の荒野を、ハヅキはひたすら歩き続けた。

 依然として脳内では鐘のように騒がしい少女の声が響いている。

『聞いてるの、ハヅキ? 鼻につくのは強烈な火薬の匂いばかり。景色なんてない。一面に広がるのは汚い灰色の大地のみ。陽の見えない重いお空のみ。あなた東西南北も分かってないでしょう? だからこんな無茶な大地横断なんて反対だったのよ私は。ボケハヅキしねしんでしまえ! 聞いてるのっ?』

(聞こえてるよ)

 脳内少女のマリーに返事すると、彼女は頭の中で怒り狂った。

『きいいいいいい聞こえてるってなによ! 聞いてるって言いなさいいいい!』

 ハヅキは命許す限り死の大地を歩き続けた。身体は乾き、疲労は蓄積する。それでももう一度会いたいニンゲンがいるからこの地球を旅し続けた。

『前から私は言おうと思ってたんだけど、あなたは自分が死ぬのは自分の勝手だって思ってない? あなたが死んだらあなたの脳味噌にいる私も死ぬこと忘れてない? 一心同体、一蓮托生、己の身の省みは同時に相手の安全への心遣いとなる。わかるハヅキ?』

(お前さっき俺に『しねしんでしまえ!』とか言ってたじゃないか)

『しねえええええええええええええええええええ』

(気を付けよう)

 マリーはハヅキの頭の中で地団駄を踏んでいる。物心ついた時から頭の中にいる少女は今日も元気だった。

 マリーはハヅキの妄想の産物か。生まれつき脳味噌に異常があるのか。とにかく頭の中にマリーはいる。

 歩き続けた。

 

 

 やがて街が見えた。頭の中のマリーは上機嫌だった。

『街ー。まぐれでもちゃんと着くものなんだ。ちょっと見直した。でもなんか暗くてしょぼそうな街ねー』

 陰鬱の空気を感じる街だが、それでもヒトの姿は幾つか見えた。ここに探し人はいるかもしれない。ハヅキは歩を早め街に向かった。

 街は錆びた鉄でできていた。ヒトは錆びた家に住み、錆びた建物で仕事に就き、錆びた店で静かに賑わう。

『さびくさい。超さびくさい』

 生活臭はあるが活気はあまり感じなかった。

 街に足を踏み入れたハヅキを街の住人達は一瞥したが、声は掛けてこない。擦れ違っても目も合わされなかった。

『きっとあれよ。メガアクマが支配してるのよ。こんな辺境の土地まで! この街もニンゲンは労働力であり食料なのよ。ああ恐ろしい。恐ろしい! 超恐ろしい! ぱっと見てメガアクマいなくても、きっと奴らはあちこちにいるのよ。今もこうして街に入ったハヅキを見張ってるわ! 悪さしたらきっとやつらは即座に飛びかかってくるわ! ハヅキ、くれぐれもやつらに目をつけられないでね。めんどいのは嫌いよ。大嫌いよ。間違っても見知らぬニンゲンがメガアクマの趣味娯楽のために虐待されてても助けにいかないでよ。死ぬから。ああそれから』

(お前さっきから元気だな)

『目をつけられないでねえっっ!』

(善処しよう)

 こんな街でも身体を癒す事はできる。早く宿に入りたかった。

『宿ー! 宿ー! 旅の疲れを癒すのだー! 宿屋は旅の華よ。あのふか!ふか!のベッドで眠るともうこの世の幸せが全部つまったああもうなんかよくわからんけど幸せ!』

(うむ)

 珍しく意見も合い、とりわけ宿を探し街道を歩くことにした。

 街の空気は嫌いじゃない。

 貧しいながらも、昔一緒に暮らしていた女の子とはよく買出しに街へと出掛けた。二人で一緒に食材を選び、一緒に料理をしたのだ。

 彼女がメガアクマにさらわれたのはいつだったか。もう遥かな昔の事のように感じる。いつだったか。まだ死体を見たわけではない。だから探そう。もし死んでいたらメガアクマは一人残らず地獄の道連れにする。

『なにいってるの。ニンゲンが千人いたって一番ザコのメガアクマ一人にだって勝てるわけないでしょ』

 それでも皆殺しにする。

 それだけハヅキにとって大切な少女なのだ。

 

 

「うん?」

 暗い街中を歩いていると打撲音が聞こえてきた。

 これはヒトの肉を殴る音だ。

『ハヅキ、あそこ!』

 視界内の一角をマリーはピックアップした。

 マリーにはハヅキの知覚を必要に応じて制御する権限を与えている。マリーがピックアップしたポイントでは背から白い翼の生えた少女が大人に囲まれ、殴られ蹴られていた。

 男の拳、女の足、そして鉄パイプ。彼ら彼女らは寄り集って少女を殴打していた。

「お前らが弱いから俺達はメガアクマの奴隷にされたんだ!」

「お前らが私達を守ってくれなかったから、世界はぼろぼろになったんだ!」

「お前らは天使じゃない! ニンゲンがカスなら、お前らはカス以下の未満だ!」

「嘘吐きめ。嘘吐きめ。しね。し・ね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」

「そうだしね」

 翼の生えた少女。昔は世界を守っていた天使の一人なのだろう。

 これだけ派手な暴行を加えられていても、通りかかるニンゲンは誰も止めようとしなかった。マリーが間髪いれずに警告してくる。

『助けるとか言わないでよー』

 更に男女は殴る、蹴る、鉄棒で強打する。

 天使の少女の背中や頭が陥没していく。

(でも、あのままでは死ぬだろ)

『さあ? 天使って死ぬのかな』

 マリーは拡大表示した天使の身体状況を分析した。細部に至るまでを調べ上げる。胸や背の筋肉の収縮からは呼吸状況を調べられるし、殴打された場所とそこを殴っている物の強度、速度から被害者のダメージが算出できる。

『うーん。あと二分殴られたら危ないかな。言っとくけどね。助けたりで面倒に巻き込まれるの、私やーだかんね』

(ほっとくわけにはいかないだろ)

『あんたゎ…っ!』

「待ってください」

 マリーが何か言い始める前に背後から女に呼び止められた。

「?」

 ハヅキが振り返った先には見知らぬ少女がいた。

 カチューシャの似合う可愛い少女だった。

「あの子を助けるつもりですか。大変な目にあいますよ」

 まるでハヅキの心の中を見透かしているように、『カチューシャの少女』はそう言った。

『あんたの心を見透かせるのは、前にも後にもこのマリー様だけですよーっ! それより、この人の言う通りだよ。そう、ここで天使少女を助けるメリットはなにひとつ…』

「君は誰だ?」

『マリー様の話を最後まで聞けーっ!』

 ハヅキの問いに、少女は首を傾げた。

「まあ、私の名前なんてどうでもいいとして。どうするんですか。助けるのですか、あの子を」

「ん、ああ、そうだ。助けよう」

『えええっ! ハヅキ! バカ! アホ! タコ! やめなさい!』

 無抵抗な者が殴られるのは可哀想だ。フェアではない。なのに天使はずっと耐えていた。助けてあげたい。女子供が殴られているのを見逃すことなどできない。

『やめなさいよ。あんなん助けたらメガアクマどころか、ニンゲンまで敵に回しかねないよ! って、聞いてよ私の意見もたまには!』

 ハヅキは暴行の現場に割り込んだ。

「大丈夫か!」

「な、なんだお前!」

 身を呈して蹲っている少女の身体を庇う。ぎゅっと天使の身体を抱きしめた。暖かく、小さく、柔らかい背中だった。

 翼はこの世と一切の摩擦がないかのように、さらさらとしていた。

「――――」

 天使の少女を抱きしめるこの感触、気持ち良かった。

「……」

 囲っている男女を見上げた。

 ――皆、鬼のような形相でハヅキを睨んでいた。

男女はハヅキが天使を庇ったと知ると、より一層憎悪の炎を燃え上がらせた。カチューシャの少女の言った通りだ。大変なことになった。

「お前なんでそんな屑庇うんだよ!」

「そいつらを庇ったらお前もメガアクマに殺されるぞ!」

「というかお前天使の仲間かよ死ねよ!」

「そうだしね」

「そうだしね」

 ハヅキの背中はぼこぼこに殴られた。それでも天使の少女を守るため、必死に抱き締めた。

 内臓を傷められる。血飛沫があがる。口から血を吐きそうになって止めた。天使はまるで汚れを知らない純白の瞳でハヅキを見つめていた。

 この子を怖がらせないよう、少なくとも痛みは顔に出さないよう努めた。

「大丈夫かい?」

 天使の少女はこくこくと頷いた。それだけでも庇った甲斐があると思った。

『大丈夫かい?っておまいはどこの王子様よ。ハヅキの馬鹿。超馬鹿。背中と腕の骨が折れそうな程殴られてるじゃん。私の苦労もわかってよ』

(ああ、ごめんな)

 こんなのが身体の主ではマリーも苦労するだろうと思い謝った。

 

 

 雷が落ちるような怒声が響いた。

「貴様らなにをしている!」

 ハヅキ達への暴行がぴたりと止まった。恐る恐る声のした方を見た。

 怒号を飛ばしたのは銃を持った黒い機械だった。機械仕掛けの長身の男だった。男の背後にはゴキブリのようにわらわらと銃を持った一回り小さい機械達が集まってくる。

「我々は全身が鋼でできており、流れる血は水銀、その骨は金属、脳味噌の代わりに頭の中には強力なコンピュータを持つ地球の支配者。その名はメガアクマ! そしてこの私は四人の王の一人、スーパー管理者アンキシャスだ!」

 メガアクマ達は銃をこちらに向けた。ハヅキを殴る蹴るしていた男女は震えあがった。

『うは、なんかすごいのでてきた。メガアクマか。もう手遅れかもしれないけど、ハヅキおとなしくしてなよ』

 ああ、と脳内に返事した。

「さて貴様らなにをしていたんだ?」

 銃を向けられた中の一人が重い口を開いた。天使を殴った。その天使を庇った男を殴った、と。

「その男を殴ったのは誰だ?」

 メガアクマがハヅキを指して問うと、囲っていた五人の内の四人が手をあげた。

 一人、赤髪の少女だけは手をあげなかった。そういえば、この女はハヅキが少女を庇ってからは暴行には参加しなかった。

「つまり貴様ら四人はメガアクマの許可もなくニンゲンを殴ったのか」

 銃を付き付けられた女は悲鳴をあげた。

「待って! だってこいつ天使庇ったの! だから天使の仲間じゃん! 同罪じゃん! 天使はカスなんでしょ? だってクズだから! だから死んだっていいっていつも言ってるのは貴方達じゃん」

「死ぬのは貴様らだ」

 メガアクマ達は容赦なく発砲した。止める間さえなかった。

 爆音にも似た機関砲の銃声が静かな街に響いた。

 ハヅキ達を殴っていた四人の男女は無数の弾丸に撃ち抜かれ、まるで「打」たれるように吹っ飛び、赤い肉片となってゴミのように地面に散らかった。流れる血を炭化した大地は吸っていく。

 本当に生ゴミのようだった。

 それを見たマリーが『うは…』と息を呑むような声を出した。マリーはスプラッタが大好きなのだ。困ったものだ。

「貴様らニンゲン(カス)にニンゲン(カス)を裁く権利などないわ。カスはメガアクマの所有物だと言うことを忘れたかこの愚か者共めクズカス! ニンゲンを殴らなかった少女よ、お前は賢明だ。これ以上は口を挟まず早々に消えるがいい」

 ただ一人生き残った赤髪の少女は脱兎の如く逃げ出した。

『ああいう女きらい。臆病のくせに陰湿なイジメばかりしてる』

 マリーはそう言い捨てた。

「さて助かったな余所者よ。だが天使を庇ったお前の罪は重いぞ。死にたくなければ大人しく投獄されよ。再教育してやるわ」

 ハヅキは両の手に枷を掛けられた。そして強く乱暴な力でメガアクマに引っ張られた。

「待ってくれ」

「なんだ?」

 振り返った。

 天使の少女はハヅキに対して頭を下げ、不安そうに怯えていた。

「あの天使の子には手出ししないでくれ」

「愉快だな余所者。健気だなニンゲンよ。メガアクマに意見するか?」

 ハヅキは歯を食いしばったが、「これは意見ではなくお願いだ」とメガアクマに頭を下げた。

 メガアクマの男は笑っていた。

『だからハヅキ。なんであなたわざわざ相手の機嫌を損ねるようなことばかり言うのよ。長いものには巻かれろって言葉もあるでしょう? 悪い癖よ』

 そんなに悪い癖とは思わない。女子供の安全を考えるのは男としては決して捨てたものではないとハヅキは信じている。そう反論した。それでも悪いか?と聞き返した。

『悪いわ。最悪よフェミニスト』

 悪いらしい。

 はて、とハヅキは辺りを見渡した。カチューシャの少女がいなくなっていることに気づいたのだ。

 

 

 街は住宅街と商店街、工場の三つに加え、メガアクマ管轄の各種施設で構成されているようだ。その全てが焼けた鉄でできていた。

 ハヅキは施設街に連行され、そのまま建物の地下の牢に投獄された。

「そこで頭を冷やせ余所者。お前は後で『正しいニンゲン』の姿を教育してやる」

「痛っ――!」

 ハヅキは獄中に蹴り飛ばされ、檻に鍵を掛けられ完全に閉じ込められてしまった。

 舌打ちし床に座った。

 暗く冷たく硬く、そして臭い牢だった。空気は湿り、錆臭が漂い、時折聞こえる呻き声が気分を害する。

『あーあ、牢屋にいれられちゃった。超不愉快』

 ここは牢獄だ。

 ハヅキは罪人としてメガアクマに囚われてしまったのだ。きっとこれから体罰が待っているのだろう。

 大きく息を吐き、壁に持たれ座り込んだ。

『あーもう。最悪よ、最悪。目立つなって言ったのにー!』

「まあ、そこまで最悪でもないだろう」

『超最悪よ! マジないわ』

「そうか…」

 ハヅキは天使の少女のあの笑顔を思い出した。

 その場凌ぎに過ぎないとはいえ、彼女をニンゲンの暴力から守れた。そう思えば、無駄な行為でもなかったと、ハヅキは自分に言い聞かせた。

「おや」

『ん? なになに、どうしたの、ハヅキ。おやつでも発見したの? あ…』

同じ牢に同居人がいた。暗く静かだったために気付かなかったのだ。

 美しい白髪の少女だった。腰まである髪は流れるように美しく、まさに髪ではなく、『神』の如くの麗しさだ。

『なに、それ。ギャグ?』

 マリーはいつも無粋だ。

 背に生えた翼は天使の証であり、彼女も古では世界を守った主に仕える僕の一人だったのだろう。メガアクマに地球が制圧されてからは、天使も牢が似合う身分に堕ちたが。

 天使はハヅキに気付くとにこりと微笑んだ。ハヅキもお返しにとにこりと笑った。

『やめなよハヅキ天使とかかわるの。今痛い目みたばっかじゃん』

(喋るくらいはいいと思う)

『あなたは喋るだけじゃなくて情を持つから大変なの』

(うむ)

『うむ、じゃねーよ』

 ぺっ、と脳内でマリーは唾を吐き捨てた。

 

 

「先程はありがとうございました」

 礼を言われた。予想しなかった言葉にハヅキは首を傾げた。この天使の少女と会うのは初めてだ。先程助けた天使は別物だ。

『この天使、脳みそがジャンクの塊になってるんじゃない?』

 ジャンクとはゴミのことだ。マリーの新しい侮蔑言葉にハヅキは気が滅入った。

(お前は少し黙ってろ)

 マリーは放って置き、少女になんの件の礼か聞いてみることにした。

「御存知ないですか? 私たち天使は全ての知覚を共有し、記憶を同じにし、彼女が見たものは私が見たものであり、私が感じたものは私たち全員が感じたものなんです。我々は個にして群である」

「そうだったのか」

「そうだったのです。さっきはありがとうございました。でも今はもうメガアクマの時代ですから、あまりムチャをすると非道い目にあっちゃいますよ」

「今後は気をつけよう」

「だけど嬉しかったですよ」

 白髪の少女はにこりと笑った。ああ、ハヅキは天使の微笑みには勝てない。この笑顔を見るためなら全てを代償として捧げてもいい気にさえなる。

 そんなハヅキの心に気付いたか、マリーは溜め息を吐いた。

「む」

 よく見ると、天使の少女は傷を負っていた。袖や裾から見える肌の至る所に打撲や擦り傷があり、それが少女の身体に刻まれた痛みだと知るとハヅキは知らずに渋面になった。

「メガアクマにやられたのか?」

「はい」

「痛いか?」

「はい」

 ハヅキは天使の傍に寄り腰を降ろし、その麗しい手を取った。

 ニンゲンはなにか一つ、信仰の見返りとして主から頂いた不思議な力を持っている。ニンゲンの身体能力だけでは起こせない特殊能力。それを奇跡という。尤も今はメガアクマの世界故、主への信仰は大罪となってしまった。

 奇跡の使用は信仰の証明に他ならず。

 そんなものを使っているところをメガアクマに見つかっては断頭台に掛けられる。

 ハヅキがこの世界に生まれ、主より授かった力は『応急手当の奇跡』。痛みを抑えるくらいはできる。

『ぱっとしない奇跡よね。他のヒトは手から火を出すとか、四大元素を扱うとか、空を飛ぶとか、もっとかっこいいのに。そもそも応急手当ってヒーリング未満じゃんなにそれ』

(うるさいな)

『んでさ。いくらしょぼいっていっても、奇跡は奇跡。人目のつくとこで奇跡はまずいって普通に思わない?』

(メガアクマは今いない)

『というかさ、完全に安全なわけないじゃん。監視されてるかもだし。むしろここは危険地区じゃん。牢屋だよバカ。なんでそんな見ず知らずの子に親切するのよ』

(女の子が痛がってるのは可哀想じゃないか)

『しねしんでしまえ』

 マリーの汚い罵詈雑言は続く。ハヅキはマリーを放置し、己の心の中に没頭した。

 意識するのは自身と主の二つ。この二つを頭の中で回線を繋ぐ。そして回線を通して信仰心を送り込む。

 あくまでイメージだ。

 やがて回線からは奇跡を行うだけの力が帰ってくる。蒼く輝く光球は回線を通りハヅキの身体の中に取り込まれた。精神が満ちる。

 そして受け取った力を掌から外に送る。これが奇跡の使用だ。優れた者ならもっと素早く奇跡の使用を試みれるのだろうが、ハヅキではこれが限界だ。

「……」

 見た目の変化はない。だけど奇跡を受けた天使の表情は穏やかになっていく。

 これが主より授かった『応急手当の奇跡』だ。

「…痛みがひいていく。ありがとうー」

 天使はまた笑った。あまりに純粋な笑みにハヅキは恥ずかしくなって手を離した。

「君達の主に頂いた力なんだ。君らのために使われるなら本望だろう。これは俺からの信仰の一つでもあるわけだし…」

 照れ隠しの言い訳はどうにも上手く口から滑らない。天使の少女はくすくすと笑っている。マリーはげらげらと笑っている。

「あなたのお名前は?」

「ハヅキと言う」

「ハヅキさん。あなたの善行を我々は決して忘れません」

 そう言って天使の少女は手を握り返してきた。

「……」

 心臓の鼓動が早くなる。顔が熱くなる。見なくてもわかる、きっと真っ赤なのだろう。マリーの声さえ聞こえない。緊張に緊張を重ね性的趣向さえ天使に向けられる。

 ――手を放された。

 少し冷静に戻った。

「君の名前は?」

「名前なんてないです。全ての天使は同意義であり、同価値であり、同知覚であるなら、それらの違いはなんだと思いますか?」

「なんだろう」

「配置場所と器の形による身体能力の違いです」

 寂しい話だと思った。ふと、不意に強烈な眠気が差した。

 奇跡を行った所為だ。単純な肉体疲労だ。このような些細な奇跡でも、その力を存分に扱いきれぬ者ではいわゆる燃費が悪く、無駄に疲労する。

 どうせすることもない。

「…少し寝てもいいかな」

「どうぞ」

 ハヅキは冷たい牢の中、横になって眠ることにした。

 

 

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