-デイブレイク 後章-

七 セム。


 

 紺野は自分のシャツを少し破ると、骨折した手にきつく巻きつけた。これで痛みは薄れる。変な風に骨がつながるかもしれないが、あと少しもてばそれでよかった。

 コーデリアが息絶えたホリティを地面に降ろして立ち上がった。大樹のほうも気がついたらしく、頭を振りながら体を起こす。

「ああ……油断した。もう終わったのか?」

「ええ。私がけりをつけました」

 コーデリアの返事に納得したのか、大樹はダメージを感じさせない身軽さで起き上がって木刀を拾い上げた。

「あの。体、大丈夫なの?」

 紺野が不可解なものを見るかのような目つきを向けると、大樹は二、三度腕を軽く回して見せた。

「修行の成果だ。ある程度の怪我ならすぐに治る」

「ずいぶんと……頑丈になったものですわね……」

 大樹とは反対に、コーデリアは立っているのがやっとのようだった。無理もない。どちらも死力を尽くした戦いだったのだ。限界以上の戦闘のせいでコーデリアの体はがたがたのはずだ。

「無理しちゃ駄目よ。ホリティを倒したけどまだ毒は消えてない。私がこの部屋を調べてる間、コーデリアは休んでて」

「そう……させてもらうわ」

 壁に寄りかかるように崩れ落ちながら、コーデリアは答えた。眠ってはいないようだが、すぐに身動き一つしなくなる。紺野はそれを見届けて、部屋の中に視線をめぐらせた。

「おい、大樹よ。その杖を捨て置くわけにはいかんぞ」

 振り向くと、大樹はコーデリアが破壊したホリティの杖を見ていた。そして、杖を見るとミナの言いたいことはすぐにわかった。

 真っ二つになった杖の断面から、どす黒い何かが溢れ出ていたのだ。

「これ……毒じゃない!」

「うむ。かなり密度の高いものじゃな。これが全てというわけではなさそうじゃが、とりあえず浄化しておかねば」

「ミナさん、これ浄化できるんですか?」

 紺野は驚いて悲鳴のような声を上げた。毒が浄化できるというなら、こんな戦いはしなくても済むのだから。

「いや、すでに街に満ちた毒は、今のわらわには無理じゃ。ここに漂っておる分をどうにかするのがやっとというところじゃな」

 そう言いながら、ミナは実体化して杖に近寄った。

 両手を杖の上にかざすと、溢れ出る毒を取り囲むかのように、桜色の神気が周囲に満ちた。神気に触れた毒素は、光りの粒になって次第に溶けていく。

「先ほどの魔術師の小娘が言ってことは正解ではないぞ。わらわの持つ浄化の力は、常ならざるものによって変質したあらゆる物を常態に戻す力じゃ。昔会うた魔術師はこれを『事象の相転移』と呼んでおったがのう」

 そう言っている間に、ほとんどの毒素は光になって霧散し、残りも僅かになってしまった。

「分子分解は使い勝手の良い一芸に過ぎぬ。神である天之御中守の御業が人間に易々とわかるものではないということじゃ」

 愉快そうにミナは笑う。だがその無理やりな笑いは、一芸とはいえ自分の技が破られたことがそうとうに悔しかったことを物語っていた。

「あ、じゃあ私の手も治してくださいよ。ほらほら、骨がめちゃくちゃ痛いんです

 紺野が嬉々として自分の手を差し出すと、毒の最後のひとかけらを浄化し終えて、ミナは溜め息をついた。

「無理じゃな。それはおぬしが全力でぶん殴ったからじゃろう? 『常ならざるもの』によって変質させられたものでなければ治しようがない。ま、呪怨や毒ならたやすいが、それは自然の摂理だと思って諦めい」

「そんなぁ」

 諭すようなミナの言い分に、紺野はがっくりと肩を落した。

「おぬしも妖魔の端くれなら、それくらいの怪我しばらく休めば治るじゃろう?」

「そんなことないですよ。少なくとも私は普通の人間と変わりません!」

「力説することじゃねぇぞ……」

 呆れたように大樹が呟いた。そうは言っても実際紺野の体は、一部の身体能力を除けば本当に人間と変わりのないものだった。

 耐久力などは、今の大樹にも劣るのではないだろうか。

「まぁ、しょうがないか」

 痛む手をおさえて紺野がそう言ったとき、入り口の扉が開いた。

 紺野と大樹は即座に身構えた。まだ誰か敵が残っていたのかと考えたのだ。しかし、ヴァジルやホリティ以外の強い気配は、もうこの塔から感じ取れない。

「だれ?」

 恐る恐る紺野が声をかけると、ゆっくりと扉が開き、がりがりにやせ細った幽鬼のような男がふらりと入ってきた。

「……余計な手間をかけたせいで、間に合わなかったようだな」

 息も絶え絶えなその男は、唯一生気の残る鋭い目を、すでに毒素のなくなった杖へと向けた。

 その声に、紺野は聞き覚えがあるような気がした。いや、声だけではない。一目見てわからぬほどにやつれてはいるが、確かにその男は、

「おじさん!」

 行方不明になっていた紫苑だった。数ヶ月前にいなくなったまま、死んだと思われていた。だが、紺野は絶対に生きていると主張しつづけ、信じつづけていた。その紫苑が、目の前に現れたのだ。

 紺野は思わず紫苑に飛びついて、細くなった体を抱きしめた。

「どこいってのよ! 心配したんだから……」

「離れろ! そいつは――」

 大樹に言われるまでもなく、本能のどこかが赤く危険を知らせた。受身も考えずに全力で後ろに跳んだ紺野の跡を、紫苑の拳が薙いだ。

 転びそうになりながらも体勢を立て直し、紺野は叫んだ。

「どうしたのよ、おじさん! 私よ! わからないの?」

「わかるさ。セムの本家、当主の娘だ」

 感情のこもらない声で、紫苑は呟く。その言葉に紺野は愕然とした。

 確かに、紫苑はセムの直系である本家を守る分家筋だったが、これまで一度もそんなことを口にしたことはなかった。それどころか、本家だの分家だのという古い風習を嫌っている節がある。紺野のことも、親戚だとは言うが本家であり守護の対象だとか、そういう風に言ったことはなかったのだ。

「あ、あなた……だれよ! なんでおじさんの格好でいるのよ!」

「落ち着け!」

 大樹の静止も聞こえないくらい、紺野は激昂していた。紫苑の姿をした男の返答次第ではすぐにでも跳びかからん勢いである。

 それでも紺野が自身を押さえつけられたのは、意志の力というより正体がどうあれ相手の姿が紫苑だからだったからだ。

 そんな紺野の真情を見透かしたように、紫苑の姿をした男は力なく笑みを浮かべた。

「俺が誰かはお前らもよく知っているはずだ。同じことを下でも訊かれた」

「わ、わからないからきいてるんじゃない! だって、おじさんは!」

「お前の知っている男がどうだったかは知らないが、今の織戸紫苑は俺だ」

 男の言葉は紺野には到底理解できるものではなかった。

 怒りで狂いそうな脳内を、さらに混乱の熱が煮立ててゆく。紺野が意を決して男に向かっていこうとしたとき、黙っていたコーデリアが、座り込んだまま口を開いた。

「確かに……その男の心音パターン、しぐさ、瞳の虹彩、全てが紫苑のものと一致しますわね。落ち着いてみれば紺野さんにもわかるはずよ。妖気の質はどれほど本物に近く造ったものでも、似せることは出来ない――」

 そう言って、コーデリアはまた俯いて黙り込んだ。

 コーデリアを見ていた紺野は、無理やり深呼吸をして気を静める。そして、男の妖気を探った。

 紺野の目には、非常に弱まってはいるが懐かしい紫苑と同質の妖気が感じられた。

「そんな――じゃあ、どうして……」

「説明している時間はない。杖がなくなった以上、早急に白色の君のいる天空城へと乗り込まないといけない」

「天空城? まだ上があるのかぁ?」

 大樹が、心底面倒くさそうに顔をしかめた。だが、外から見たときにはそんなものはなかった。また魔力で隠されているのだろうか。

「お前達はなにも知らないようだな。折角だ、一緒に来たければ連れて行ってやるぞ」

 男が深緑の妖気を発生させる。妖気が壁に吸い込まれ、塔が揺れ始めた。

「ミナ、どうなってんだ!」

「毒が塔を蝕んでおるようじゃが……これほど膨大な量を生み出すなど信じられん……大樹! 一旦塔の外まで退け!」

 ホリティを担いだ大樹がコーデリアに声をかけた。返事はなく、今度は紺野に助けを呼びかけた。

「でも、おじさんが……」

「馬鹿、死ぬぞ!」

 コーデリアに毒が襲いかかる。紺野は思考を断ち切り、コーデリアを助けた。

 大樹と紺野は、誰かが壊した床の穴から飛び降りた。

 さすがに一階までは一気に降りられず、数回に分けて降りていると、二階でパニックになっている信者達を見つけた。

「お前ら早く逃げろ! 崩れるぞ」

 大樹の声は誰にも届かない。彼らは膝を突き、各々に祈りを捧げるだけだ。

「なんで……なんで、そんなことしてられるのよ。死にたくないんだったら、逃げなさいよ! 逃げることさえ出来ないの? そんなはずないでしょ!」

 紺野は、自分に言いつけるように叫んだ。

 塔の揺れは大きくなる。壁や床に亀裂が入り、柱の根本が折れた。

「やべえ!」

 信者達に向かって柱が倒れてきた。紺野はコーデリアを大樹に投げつけて走り出した。信者は柱に気付いても振り返ろうとしない。紺野が声にならない声で吠える。

 柱が崩れる轟音が辺りに響き、砂煙が舞い上がる。信者達は一斉に祈りを止め、呆然と砂煙を見つめた。

「どうして……どうして……」

 紺野はその場に崩れ落ち、荒い息を整えもせず、地面を睨み付けた。床を何度も叩き付け、折れた指の痛みを忘れて繰り返す。

「なんでよーー」

「騒ぐのは止めなさい」

 顔を上げると、紺野似の女性が立っていた。彼女の背後には粉々になった柱の欠片と無傷の信者達がいた。

「お母さんお父さん! 早く!」

 人間の少女が階段から飛び出し、こちらに来るように手を振った。膝を突く信者の中から親と思われる中年の男女が少女に近付いていく。

「何やってるの! 私を置いて死ぬつもりだったの!」

 男女はぎこちなく、少女と砕け散った柱を交互に見た。

「いや……そんなつもりはないよ」

 父親らしき男が振り絞って言う。

「だったら、ほら早く!」

 その声に信者達が雪崩のように動き出す。少女を背負った親を筆頭に、人間は次々と消えていく。

「紺野! 早く来い!」

「後で行くわ。先に行っといて」

 紺野似の女性が大樹に言い返す。大樹は舌打ちの後に頷き、ホリティを連れて下に降りていった。

「助けてくれてありがとう……これで三回目かな」

「早く立ちなさい。みっともないたらありゃしないわ」

 紺野が立ち上がる。

「あの……どうして私にそっくりなの? あ、いや、私があなたにそっくりなのかな?」

「私があなたにそっくりなのよ」

 紺野似の女性は微笑み、コーデリアを担いだ。

「どういう、意味?」

「私は紺野の分身。数代に一度現れる突然種の能力の話を聞いたことあるでしょ?」

「え? じゃあ、私の能力ってこと?」

「そう。だから私のマスターは紺野。で、私は紺野を助けるために、こうしてたまに具現化するのよ」

「……そうだったの……ごめんなさい。私、全くあなたのことに気付かないで」

「気付かなくて当たり前よ。そうやってきたし、紫苑にも黙ってもらってたのだから」

 幼少の頃に見た、同い年の子どもが人間を食べていた光景を思い出す。もしかしたらそれは、紺野の分身だったのかも知れない。

「あなたを否定するようなことしてたみたいね……私」

「気にしないでいいわ。それより、紫苑を追いかけないでいいのかしら?」

「え、いいの……?」

「当たり前じゃない。だから私はこうしてコーデリアを代わりに運ぼうとしてるのよ」

 紺野の分身は、開いていた腕で紺野の頭を撫でた。

「……ありがとう」

「ただし、生きて帰ってくるのよ。そうじゃないと私、誰を守って生きていけば良いのかしら?」

「私が死んでも死なないのね」

「紺野がいないと死んでるようなものよ。いってらっしゃい……いってらっしゃいには、返事の言葉があるのよ、当然知ってるわね?」

 うん、と紺野は頷き、紺野の分身に抱きついた。

「……いってきます」

 

 

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