-デイブレイク 後章-

三 汝、他者の憎しみを知れ。


 

 深い。

 深い、不快だ。

 肉体、精神、心。

 全てに深い不快を感じる。

 

 犯された。

 始めに精神が自分以外に支配された。

 肉体の勝手がきかず、何かを求め始めた。

 食えども食えども植え続ける。

 植え付けども植え付けども快感はない。

 

 何もかもを欲し、

 全てと一緒になりたくなり、

 太古より、

 行為を繰り返す。

 

 眩い輝きを纏った者が、

 手を差し伸べてきた。

 その色とは反対に、

 どろどろで、汚らわしかった。

 

 夜のような女が現れた。

 だが前とは違い、

 研ぎ澄まされ、

 触れると暖かかった。

 

 夜のような女は、

 どろどろの者に、

 連れ去られ、

 二度と会うことは出来なくなった。

 

 今度は、

 寂しい臭いを纏った

 少女が来た。

 

 そこから、

 思い出せない。

 

 今、

 思い浮かべていることは、

 覚えていたことか。

 

 もしくは、

 今、

 作ったことなのか。

 

 

 不吉な夢に魘され、塔の最上階の自室にてホリティは目を覚ました。

 与えられた部屋は空調設備が行き届き、ベッドの羽毛は柔らかく暖かく、満足行くまで眠りを採ることができるはずだった。

 ――気配察知。

 どこかの小隊がこの塔を攻略しようと攻め込んでくる。眠りから覚めたホリティは覚醒しきっていない脳で事態を把握するよう努めた。

 放ってあった妖魔から力の波動を感じられない。死んだか。あの妖魔にはコーデリアを発見次第抹殺するよう命じていた。もちろん、そんな駒では彼女を倒すことはできないだろう。だけど、彼女の出現を知る事はできる。

 ホリティは窓から外を見下ろした。さすがにこの高い塔の窓から肉眼では敵を確認することはできない。だけど魔力の胎動を知ることくらいはできる。

 大きな力が数点。小さな力が多数。大きな力の中にはコーデリアの魔力を感じることもできた。

 焦ることはない。必ず彼女とは戦う時が来るだろう。

 窓を覗いたままのホリティはそのまま天を見上げた。

 他の誰にも見えないのだろうがホリティには視える。

 この塔の遥か上空に浮かぶ天空城が。

「白色の君、か」

 溜め息混じりに声が漏れてしまった。コーデリアと戦うことばかりに執着していたが、ふと冷静に返れば白色の君の謎が頭に過ぎる。

 ホリティに毒の解放を促した妖魔の君主の一人。いまだ現界していないのだろうが、それでも天空城からは得体の知れぬ妖気が地上に舞い降りてくる。

 あの毒はなんだったのか。命じられたから毒を解放したのではない。興味があった。あの強大な毒性も今は大人しく手にした杖に収まり、ホリティの想うがままに動く。

 だがまだ借り物の力だ。研究の余地がある。ホリティは大きく息を吐いた。

 頭に鈍い痛みが走る。

 先程の悪夢が頭の芯に染み入るようだ。禍々しい気配を感じ、ホリティは振り返った。

「レディの寝室に無断で立ち入りですか。マナーがなってなくてよ」

「――――」

 床から三本の角を携えた逞しい悪魔がぬるぬると浮かび上がってくる。巨大な鎌を手にしたその妖魔は、まるで伝説にある山羊の悪魔の生き写しだった。

「バフォメットかな。どこの化け物でしょう?」

「我ハ妖魔ネガティブ。悪夢ノ中デ死ネバヨカッタモノヲ」

 湿った声が妖魔から発される。水中でしゃべっているかのような声は聞く者を戦慄させるだろう。

「なるほど。感情や夢、心に直接作用を掛ける妖魔か。即ちその逞しい身体も相手を威嚇するためのこけおどしというわけなのでしょう?」

「試シテミルカ。ニンゲンヨ」

 ――来る。

 妖魔ネガティブは己の身の丈よりも更に超大な鎌を片手で振り回し、ホリティに飛び掛ってきた。

 皆、そうだ。魔術師は接触距離に踏み込まれればなにもできないと思う。魔術師は身体能力が低いと思う。それは大部分に於いて正解なのだが、だけどこうして敵と対峙しているのだ。

 ホリティは息を吐いた。対策を立てていないわけがないだろう。

「――」

 不意にあのセムの男を思い出した。ホリティを負かしたあの男。忌々しいがあの時の敗北は一つの勉強にはなった。

 この妖魔の鎌ではホリティの首を跳ねることはできない。

 ホリティはネガティブを撃ち抜こうと右手を架ざし――止めた。

「誰が見ているとも知れず。なにも手の内を明かすこともないですね」

 敵は攻め込んで来た者だけではない。今でこそ白色の君に付き、君主の軍勢もホリティの味方ではあるが、明日もそうだという保障はどこにもない。

 ホリティは指を鳴らした。転移のヒカリが己を包み込む。

「逃ゲルカ、魔術師ヨ」

「今はどうにも戦いにくい時期でしてね。貴方の相手はカレがしてくださるそうよ」

 ホリティは顎で部屋の入り口を示す。

 白色の君の側近、火蜥のヴァジルだ。やはり見ていたか。ホリティの撤退を知ると、ヴァジルは舌打ちをした。

 ヴァジルに任せれば良いだろう。この塔に攻め込んでいる小隊も全て彼に任せれば良い。例えAランクの妖魔が数千体束になって掛かろうとも、ヴァジルは倒せない。耳にしたあの伝説の英雄ザイクロンでさえ敗れたのだ。

 ホリティは彼の戦いを見ていればいい。時期に妖魔という種族の穴も見えるだろう。穴さえ見つかれば妖魔の君主とも渡り合えるかもしれない。

 そう想い、ホリティは転移のヒカリに乗りこの場から離脱した。

 行き先は決めていない。地下の研究室さえ無事ならこんな塔どうなっても構わない。少しだけど休暇が欲しかった。

 憎み憎まれ、利用し利用され、命の遣り取りをする。

 そんな人生、いい加減疲れもする。

 

 

 英三とフィントロールのかく乱に乗じ、塔の門番を叩き伏せ、コーデリアと紺野は真正面から広間に躍り出た。

 多くの醜悪な妖魔が立ち塞がる。だけどどれもが小物だ。そう大したものでもない。

「――――」

 コーデリア達は顔を見合わせた。

 目の前に立ち塞がる妖魔達を脅威に想ったのではない。天井を見上げた。塔の上部に「何か」が出現した。

 Aランクの妖魔の比ではない。

 天が落ちてくるかのような重圧。上層部に何か強力な妖魔が出現したのだ。

「これは……厄介な相手が出てきたようですね」

 コーデリアは呟くと、すばやく目を走らせ、上へ続く階段を探した。階ごとに一つの巨大な部屋があり、壁に沿って螺旋を描くように上部へと続いている。

 最下層は妖魔の集団が守り、上の階からは信者のものと思われるざわめき声が聞こえてくる。似たような階層が四つ続き、図面にあった扉を越えたさらに上の階からは、防音処理でもなされているか、物音一つ聞こえない。

 ただ、正体不明の妖魔の、強大な妖気だけが放出されている。

「行ってみないと、わからない……か」

 だが、圧倒的な数の敵が、階段を塞ぐように群れている。今回の作戦に重要なのは、この戦いがコーデリア達の総力だと思い込ませ、全力で向かってくるように仕向けるかだ。

 敵がこちらを潰すため総攻撃にでれば、その隙に上層部への扉を突破できる。

 そのためには、ただ負けるだけでも、ただ勝つだけでもいけない。こちらの少数の部隊と、敵の圧倒的な戦力が一進一退の攻防を繰り広げ、敵に総攻撃をかけさせる気にさせなくてはならない。

 演出が必要なのだ。

 そのためには、コーデリア達突入部隊を温存し、残りの戦力でうまく立ち回らなければならず、どの部隊が欠けても成功しない。英三が考えた緻密な作戦にのっとり、三つの部隊がそれぞれの役割を果たして始めて、コーデリア達は扉へと辿り着けるのだ。

 英三の後ろから、乱戦の様子を見る。

 敵の構成は、全てが妖魔のようである。中には紺野とコーデリアを襲った鬼の一族も混じっている。個々のレベルでいえば上級妖魔が多数を占めているこちらが優位だが、退魔士である人間たちの能力は、中級妖魔にてこずるだろう。そのうえ、こちらの戦力は圧倒的に少ない。

 フィントロールの左翼と、英三の中央部隊は、敵を疲弊させつつ次第に後ろに下がっている。これは作戦通りだ。

 広いとはいえ限定された空間である塔の中は、血の匂いと熱気が充満してさらに狂乱を煽っている。前線に出ていた紺野が、ほうほうの体でコーデリアの傍まで戻ってきた。

「たいへんよ! コーデリア!」

「どうしたの。何か問題でも?」

 紺野が口を開きかけたとき、右翼の方から怒号が上がり、隊列が総崩れになった。

「右翼部隊……ネガティブの部隊ね……」

「その、ネガティブが居ないらしいの!」

 狼狽しきって、紺野が声高に叫んだ。コーデリアの耳にも、ネガティブの存在は感じられない。

 迂闊だったのは、乱戦で個々の状態を把握することが出来なかったこと。ネガティブは既に倒されたのか、それとも危惧した通り彼が敵のスパイだったというのか。

「駄目だ。右翼から十字砲火を受ける! このままでは全滅するぞ!」

 英三の悲壮な声が、コーデリアの耳に届いた。右翼の部隊は潰され、敵は残りの舞台を囲むように大きく攻め入ってきた。

「作戦は失敗だ! すぐに撤退しないとやばいことになるぜ!」

 フィントロールは、雑魚を押さえながら自分の部隊を下がらせつつある。しかし、個々で撤退したとして、次に攻め入るだけの余力が無いのも確かだ。

 総指揮官は英三だったが、味方の妖魔や退魔士の視線は、紺野の方へ向けられた。

 決断を迫られ、紺野は悩んでいるようだった。横目で、コーデリアを見上げる。

「あなたの思うようにしなさい。わたしは、このまま一人でも突破しますわ」

 紺野は不快そうに顔をしかめ、「相談のしがいがないなぁ」と呟くと、大きく指示を飛ばした。

「総員撤退! 早くこの塔を出て!」

 指示とともに、左翼部隊と右翼の残党が中央に集まり、防御体制のまま迅速に後退してゆく。

「コーデリア。こっちよ!」

 紺野はコーデリアの腕を掴むと、塔の壁側へと走り出した。中央部隊の掃討に、敵の軍勢も真中に集まっている。

 たしかに、今なら階段を上れる。しかし突入部隊はすでに後退してしまい、紺野とコーデリアの二人だけが、階段へと向かっていた。

「とにかく、二階に上がれば信者たちにまぎれて敵をやり過ごせるわ」

 コーデリアは紺野の腕を振り払うと、全力で走り始めた。紺野も速度を上げ、疾風の速度で階段を駆け上がる。

 二階の扉を開いて、二人は中に転がり込んだ。

 

 下のほうから何か大きな音が響きつづけ、信者たちは身を寄せあってその神にすがり、祈っていた。

 両親と教団に入った少女も、下の階から聞こえる、この世のものとは思えない怒号や断末魔を聞き、小さく縮こまって震えていた。

 気がつくと両親の姿はなく、混乱する人々の中に少女は一人、取り残されていた。

「お父さん……お母さん」

 必死の叫びはしかし、救いを求める絶叫や、狂ったような祈りの言葉によって、儚く打ち消される。

 大人たちはわれ先にと、救いの手を求め、少しでも安全であるように中央を取り合う。教団の教えは思考を動物のように退化させ、植え付けられた本能が信者たちを突き動かす。

 少女はその様を見て怖くなり、部屋の隅によって座り込んだ。

 喧騒の中、次第に心細くなり涙も出てきた。

「親とはぐれたか……?」

 ふいに、かすれた声が少女にかけかれた。涙を拭って顔を上げると、背の高い男が立っていた。骨と皮だけに痩せて、それでも透徹な理性の光をその目に宿している。

 不思議な人だ。と少女は感じた。そして、彼はこの部屋の中でもっともまともなんじゃないかとも直感した。

「すぐに会える。もう、この三文芝居は終わる」

 男は少女の頭に手を乗せて僅かに撫でた。それだけで、少女の心に安堵感が広がる。そして、針金のように細い指で出口の方角を指すと、男は言った。

「出来るだけ下の階の入り口近くにいろ。少しでも異変が起これば、この塔を抜け出すんだ」

 強く声を出すたびに、男は息継ぎをしなければならなかった。喘息のような吐息を聞いて、少女は男が死にかけているのだとわかった。

「おじさん……毒に汚染されてるのね? ホリティ様が治してくれるんだよ」

 心配そうに言う少女に、男は小さく微笑んで見せた。

「ああ。これから会いに行くつもりだ」

 その顔を見て少女は安心して立ち上がると、男に言われた通り入り口の方へと歩き出した。

 途中、外に出てはいけないという教団の教えを思い出し、振り返って男を捜した。しかし、既に男の姿はなく、少女は首をかしげると、とにかく入り口の近くへと足を速めた。

 少女はもう一度だけ、振り返った。

 男の目の奥に浮かんだ、もう一つの光を思い出す。乾くことのない飢えたいかがわしい欲情。少女はその正体を知らないが、動物がハンターに狙われる感覚はこれか、とおぼろげに察した。

 

 紺野とコーデリアは、門に隠れて祈りを捧げる信者達の様子を探っていた。見慣れぬはずの二人に気付くこともなく、ただただ救いをこいていた。

 彼らが狂ってしまったとは思わない。睡眠時に夢を見るように、一時の幻想を現実と捉えているだけだ。

「ホリティのことですけど、よろしいですか?」

 コーデリアが周りを探りながら言った。

「何?」

「彼女の始末は私が着けます。誰であっても邪魔はしないで頂きたいのです」

 コーデリアがこんなことを言うということは、来るべき場所に来たのだな、と紺野は改めて感じ取り、無言で頷いた。最初からホリティの相手は、コーデリアに任せる予定だった。

 突如、ドアが開き、紺野は身構えた。開けたのは、ツインテールの少女だった。何日も着続けたであろう皺だらけの服を見、紺野は警戒心を解いた。信者の女の子のようだ。

「どこから来たの?」

 臆することなく、少女が不思議そうに聞いてきた。警戒心は今のところ感じられないが、さてどう答えたらいいものか。

「外」

「外? 下の騒ぎは、お姉ちゃん達がやったの?」

「ええ」

 紺野は自分でも間抜けだと思った。コーデリアが溜め息をついているが、仕方ないじゃないと内心で愚痴った。他者としゃべるときにごまかしや嘘がつけないのは、今に始まったことではない。

「今、入り口にいっても大丈夫?」

「入り口? ……まだ、危険よ。どうして下に行きたがるのかな?」

「おじさんが下にいた方が安全だから、って」

「おじさん? あそこの中にいる人?」

 紺野が信者の集団を指差す。少女は首を振り、否定した。

「見たことない人。毒で今にも死にそうな細いおじさん」

 外部の人間か。しかし、ここに進入するためにはそれなりの手練れでなくてはならない。期待がふくらみ、紫苑のことが脳裏に浮かぶ。

「他に覚えてることない? 例えば、背が高いとか、前髪が目にかかってるとか」

 他にもいくつか紫苑の外見を述べてみる。少女は曖昧な返事しかせず、特定は出来なかった。

「もう行っていい?」

 少女が急かすように聞いてくる。

「まだ危ないよ。もう少し待たないと」

「でも……ここにいたくない」

 少女が振り返り、その中には親も含まれているだろう信者の群れを見た。彼女にとって、ここは安息の地ではないのだろう。

「どうしようかな?」

「ここの人間ならば、悪鬼も妖魔も手を出さないでしょう。放って置きなさい」

 コーデリアが上への階段に向かう。紺野と少女は、二人でぎこちなく視線を交わすしかなかった。

「あなたの役目は子どもの面倒ではありませんわ。なんのために、彼らが闘ってくれたと思っているの?」

 コーデリアが言った瞬間、視線を紺野の後ろに向けた。紺野が振り返ると、そこには紺野そっくりの女性がいた。

「その子、私が連れて行くわ」

 声は紺野よりも低く、冷たい響きがあった。

「あなた……もしかして」

「説明は後じゃないかしら? 生きて帰ってこれたら全部話してあげる」

 少女の手を紺野似の女性が優しく掴む。少女は紺野と紺野似の女性を交互に見た。

「……安心して。その人はいい人よ。私もこの人に助けてもらったの」

「ホント? なら、連れてってもらうね」

「じゃ、行きましょうか」

 紺野似の女性と少女は階段を下りていく。

 紺野とコーデリアは階段を上る。

 おそらくという但し書きはつくが紫苑といい、紺野似の女性といい、頼もしい仲間が駆けつけてくれた。楽観的にはなりきれないが、二人の時よりも確実に良い状況に転がっていた。

 階段は今までのものより長かった。永遠を錯覚させる螺旋階段。よく音が反響し、自分らの息づかいさえ、耳に届かない。

「魔力でしょうか?」

「何が?」

「階段のことです。これほど長いはずはありません」

 足音をかき消すような音が辺りに響き渡る。後ろから聞こえてくる轟音に、二人は駆け出した。

「足場が崩れているようですね」

「余裕そうね!」

 冷静な声のコーデリアに紺野は苛立った声で返した。

 

 痩せ細った男は、魔力のトラップに引っかかることなく階段を上りきっていた。信者達が祈りをあげていた場所とは違い、ここは狭かった。

 一種のプラネタリウムだろうか。天井、壁、地面、の全てに無数の小さな光の粒が転々と散っており、宇宙を歩いているような感覚を生み出してくれる。

「なんだ? 最初に来たのは薄汚ねえ人間かよ」

 声を発した者の姿もなければ気配もない。どこかにスピーカーでもあるのだろうか。

「誰だ? 雑魚は退いてくれると助かるんだが」

 馬鹿にしたように笑い声が響き、男の頬を火の玉がかすった。男は歩き出すと、四方八方から火の玉が飛んできた。全て外れ、闇に散っていく。

 男はまっすぐに歩く。そこに待ち人がいるかのように。

 暫く歩くと、深緑色の気が漂っているのを見つけた。それは何かを目指し、風に吹かれるように近付いてくる。

「こっちだ」

 男は手を伸ばし、深緑色の気に触れる。男の身体を包容するように絡みつき、消えた。

「何してんだ?」

 声の相手には見えていなかったようだ。男は口元だけで静かに笑い、力の回復を祝った。

 ――まだ足りない。帰ってきたのは、隙を見て逃げ出せた一欠片に過ぎない。まだまだ本調子にはほど遠すぎる。

「今でもお前を倒すことは充分なようだな」

 飛んできた火の玉を握りつぶし、男は深緑色の気を身に纏い、それを周りにばらまいた。

 舌打ちのようなものが聞こえ、火の玉は飛んでこなくなった。静寂が続き、男は敵が去ったことを自覚した。

 さっきの火の玉の使い手は、ヴァジルと呼ばれる白色の君の側近のようだ。階段を下りながらホリティと会話していた声は今でも覚えている。

 満ち足りない。不足感が神経を刺激し、全身が痒くなるような不快感をもたらす。

 待っていれば、人間と妖魔に出会えるだろう。それで欲は満たせるだろうか。

 それよりも、ホリティの方が楽しめそうだ。

 男は戻ってきた力が血流のように身体に循環するのを感じつつ、先に進んだ。

 

 

 ホリティは地下の研究室で机に顔をつけ、眠りそうになっていたが、魔力の流れを感じて起き上がった。

 どうやら階段のトラップに引っかかった愚か者がいるようだ。侵入者の姿を確認するべく、空に指で円を描き、階段の映像を映した。

 コーデリアと女が走っている。女の方は知らないが、コーデリアならどうとでも切り抜けられるだろう。

 映像を消し、机に置いていた杖に目をやった。杖からは深緑色の気が漏れている。世界が毒に冒される前からこんなことはあったが、あの夢を見るようになってからは特に酷くなった。

 毒を杖に封じ込めるが、すぐに漏れ始める。杖の許容量を超えているのだろうか。ホリティは魔力で杖の退魔力を高めてみた。少しは収まったが、それでも深緑色の気は逃げ出そうとする。

 深緑色の気は塔の上の階を目指している。元々あった地下ではない場所に向かっているのは何故か。

 ホリティ自身は毒の影響を受けないので問題はないが、魔術師としての古見にかかっている。気を封じ込めようと、さらに魔力を浴びせ続けた。

 疲れているときに魔力を使うのは憂鬱だ。脱力感に覆われる。

 魔術の意識、認識、構成、作成、解放、消沈。ホリティが生まれて学んできた多くのことはこれだった。だからこそ魔術には自信もある。それでもやはり疲れは覚えるのだ。

 杖を手の中で弄び、結局は完全には抑える事ができずホリティは嘆息した。

「――――」

 もう一度天井を見上げた。

 先の異質な魔力は誰のものか。

「…誰でもいいや」

 ホリティはまた机に項垂れた。

「随分とお疲れのようですねぇ」

「……」

 最近はよろしくない。ヒトの部屋に無断で立ち入る輩が多すぎる。マナーのマの字も知らない輩ばかりかとホリティはぼやいた。

 振り返った先には眼鏡を掛けた下級妖魔がいた。

「どなた?」

「私、宝玉の君の使い、ティモ・トールキと申します」

 ティモは厭らしく笑い、眼鏡をくいくいと片手で上げた。

「なんの用でしょ? 言っておくけど詰まらない話だったら生きて帰れるとか思わないでくださいね」

「これはこれは恐ろしい。いえなに、私宝玉の君の使いなんですけどねぇ。ちょっとした休戦協定を結びませんか、とのお誘いですよ」

「ふぅん?」

「見たところあなたも相当お疲れの御様子。これ以上白色の君に付いても得るものはなにもないでしょう? どうですかお互いの為に休戦……へぶっ!」

 全てを言い終える前に、ティモの顔面にホリティの杖先が減り込んだ。ぼきりと鼻柱が砕ける音が聞こえた。

「グェ…! ゲエエエ! ギャアアアアアアアア!」

 劈くような地獄の絶叫が研究室に木霊した。

「失せなさい、蛆虫。しゃべり方が我慢なりませんわ」

 ティモは鼻血を手で押さえながら、脱兎のごとく逃げ出した。「後悔するなよ!」と捨て台詞を残して。

 ホリティはまた嘆息した。

 休戦などありえない。ここでコーデリアを叩く。

 そのために今まで生きてきた。

 さて、休暇も終わりだ。疲れを癒す時間も過ぎた。再びこの身は戦場に返そう。ホリティの身体は転移の光に包まれる。

 

 

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