-デイブレイク 後章-
二 戦いの意志。
医務室は正に戦場だった。
「――――!」
野獣の咆哮が空気を、壁を、肌を叩き付け、台風の目のように妖魔は部屋の中央に君臨していた。
対するは醜悪な妖気に反応し、深い眠りから目覚めたコーデリアだ。眠った時と違う場所での目覚めには聊か戸惑いも覚えたが、妖魔が自らに敵意を持っているのならば叩かなければならない。
全身の感覚を刃物のように、鋭く尖らせ状況を分析する。
ここには生活の匂いがあった。あの死の街にいた時には恐怖さえ背筋に走ったが、今はその感情さえ制御できる。安心は己の戦闘力を摩擦も抵抗もなく、全て出し尽せる良質の蜜だった。
周囲を見渡し分かったがここは学び舎の医務室だ。誰かが運んでくれたのだろう。室の扉の外には戦闘力のない人間や妖魔が遠巻きにこちらを覗いていた。
コーデリアは笑った。ギャラリーがいるのなら不恰好な戦いを見せるわけにもいくまい。十裏魔術家の名に掛けて。アンドレアルの強化兵の名に掛けて。
「レディの寝込みを襲うなんてマナーがなってないですね」
豪腕に戦斧を携えた妖魔は忌ま忌ましく舌打ちした。
「眠っている間に死ねればラクだったのによ」
「だったら静かにお部屋に来てくださいな。そんなに喧しくされれば安眠も適いませんわ」
「ハハハ。今すぐ安眠させてやるぜ」
コーデリアは息を吐き、斧持つ鬼に向かい構えを取った。
Aランク級の妖魔だ。なるほど、人間相手に向き合うならば十分な戦闘能力だ。この敵から感じられる溢れる余裕も納得できた。己の力を信じているのだろう。
だが、コーデリアは胸中笑った。油断は慢心を生み、慢心は即座に死を招く。
「どうした。アノドレアルの強化兵よ。脚が震えたか」
「私の事を知ってて襲いに来たのでしょうか」
「ひひひ。ついでにこのへちょい基地もオレ様がぎったぎったのぐっちょぐっちょにしてやるぜ。おおおおおお! オレ様は強いんだぜ! 妖魔だろうがニンゲンだろうが、オレには敵わねえぜ!」
「そうですか。ところでどうして私を狙ったのでしょう?」
「お前が生きてるのを好ましく思わない女がいるんだよ」
――ホリティ。
コーデリアの脳裏にあのフリージアの大魔導師が過ぎった。赤い服の少女。嘗てコーデリアが一度負かした少女。随分と嫌われたものだ、とコーデリアは苦い想いになった。
「よく分からないけれど、貴方はニンゲンの使い魔ってことでいいかな」
コーデリアの挑発に鬼は顔色が赤黒く変色していく。
「図星ですか」
止めの挑発に妖魔は遂に吼えた。
「殺してやる! なにが十裏魔術家か! メンテナンスも滞ってる分際で、このオレ様を舐めるのも大概にしろ!」
「メンテナンスは完了しましてよ」
「関係ねえええええええええええええええええええええええええええ」
妖魔は自慢の豪腕と戦斧を頭上に振り上げる。
「どうして私たち強化兵が古より、妖魔やニンゲンの戦いに傭兵として雇われたか御存知ですか?」
「知るかああああああああああああああああああああああああああああ!」
――静寂した。
誰の目にも留まらなかっただろう。
コーデリアの瞳は敵の姿を分子単位で捉える。
聴覚は筋肉の収縮や内臓器官の動きさえ知る。
卓越した視力と聴覚は姿の見えるものも見えないものも残さず、全ての動きをコーデリアの脳に情報を送る。
ヒカリの速度さえ減少し世界は赤く染まる。赤く視える。
身体はこの光速に近づいた動きについてくるのは酷なようだ。重く鈍い。だけど以前程ではない。コーデリアは強引に地を蹴り、光速の世界の中、敵に飛び掛った。
「あああ…」
真っ赤な絵具のような血が床に落ちる。
胸に細腕を突き刺された妖魔はぴくぴくと痙攣している。心臓を鷲づかみにされているのだ。
「油断しましたね。自信は悪いとは言いませんけど、敵の戦力を見切らぬうちの自信は時として判断を誤らせる。先ほど口にしかけた、私たち強化兵が傭兵として雇われる理由ですけど、それは戦力として申し分ないからでしょうね」
「あああ…」
呻き声は命乞いか。コーデリアは心臓を掴んだままの手を握り締めた。ぐじゅり、と肉の湿った音と共に心臓は潰れ、妖魔は地に膝を着き、倒れ、死んだ。
コーデリアは死骸から腕を引き抜き、振り、血を落とした。どろりとしたそれはやはり絵具のようだった。
扉の外のギャラリーに向かい一礼した。
だけど、誰もコーデリアの勝利を称えない。人間はおろか、妖魔でさえ沈黙する。コーデリアを畏怖する。それでも誰もコーデリアを責めはしない。反感を買い、自らも今の妖魔のように惨殺されるのを恐れるのだろう。触らねば祟りが降る事も少ない。
誰もコーデリアと目を合わそうとしない。
悲しくはない。昔からこうだった。
問題ない。
コーデリアが扉に向けて足を踏み出すと、まるでモーゼの海割のように、人と妖魔は左右に避けた。恐怖によって作られた道をコーデリアは進む。
学び舎の廊下を歩き、校舎で生活する者達の声を聞き、状況を分析した。毒の撒布。怪しい建物。町で見たあの建物か。
すれ違う者はまだコーデリアの今の戦闘を知らない筈だ。だが見知らぬ顔が歩いていることに、少なからずの警戒を覚えている。素性をしゃべれば、今の戦闘行為も知ることになる。どの道、敬遠される定めだ。
そう、あの下級妖魔のティモに声を掛けられるまで、コーデリアは裏路地で独りで生きてきた。一時こそ、紫苑達とは共通の目的のために行動を共にした。
だけど、その彼ももういない。毒の調査という仕事ももう終わりだろう。元よりホリティと会う為に傭兵として生きてきた。戦の場に何度も出た。
彼女の所在が分かった今、ここにいる理由はなにもなかった。
出よう。
コーデリアの脚は外へと向かう。グラウンドを通り、正門に差し掛かった所で気付いた。結界が張られていたのだ。
関係ない。出よう。
ホリティと決着を着けよう。数年に渡る因果にケリを着けよう。
「何処へいくの?」
後ろからやってきた誰が、コーデリアに声をかけた。振り返ると、紺野が急いで走ってくるところだった。息を切らせてコーデリアの前に止まり、ふう、と息を吐いた。
「外はまだ毒素が漂ってるのよ?」
「私が眠っている間に……どうしてこんな世界になってしまったのかわかりませんが。ホリティが関わっている事には間違いありませんわ」
「それで? 倒しに行こうっていうの? ひとりで」
「それが十裏魔術家に生まれた宿命というもの。彼女とは決着をつけなければいけないのよ」
紺野は、コーデリアの言葉を半目で聞いて、腕組みをしたまま「ふーん」とつまらなさそうに言った。
「私にはそういう古めかしいじじょうはわからないけど、そう急ぐ必要もないんじゃない?」
「どういう意味?」
怪訝な顔でコーデリアが聞くと、紺野は力強い笑みを浮かべて、コーデリアの腕を取った。
「もうすぐ情報屋さんが帰ってくるの。あの塔について調べてるから、ホリティとかいう人についても何かわかるはずよ」
そう言って、コーデリアを引っ張って、校舎に引きずっていく。数ヶ月の間に、随分と強くなったものだわ。とコーデリアは嬉しそうに腕を引っ張る紺野を見た。
「…一人で歩けますわよ」
腕を払って、コーデリアは一人、先に校舎へと入っていく。情報があるなら聞いてやらないこともない。いくつか気になることもあるし、それに少々おなかもすいた。
「早く来たらどうですの? 情報屋が帰る前に腹ごしらえもしておかないといけませんのよ」
紺野は肩をすくめると、小走りにコーデリアに追いついてきた。
「まあ、もったいぶるのもあれだからな」
数時間後。戻ってきた情報屋は会議室の椅子に座り、テーブルの上に毒避けの護符を置いた。外へ出るとき用に作った、気休め程度のものだが、数日くらいなら毒の影響を受けない。
会議室には、紺野やコーデリア、上級妖魔や名のある退魔士など、アジトの実力者たちが集まった。普通ならありえない組み合わせでの、作戦会議が始まった。
一同の注目を満足そうに受け止め、情報屋は話し始める。
「まず、あの塔を作ったのはある宗教団体だということだ」
「馬鹿な。一夜にしてあれだけのものを作るとなると、そうとうの魔術が必要だぜ?」
「建築の事実を隠すとしても同じですね。隠匿の魔術とはいえ塔の大きさを考えると、そこいらの術士や妖魔じゃどうにも出来ないはずです」
フィントロールと英三が即座に否定した。コーデリアにもその意見は理解できる。どんな宗教団体かは知らないが、かなりの魔術の腕と、大量の魔力が必要なはずだ。
だが、不可能というわけでもない。
コーデリアには、その術が使えそうな人間に心当たりがあった。
「焦んなよ。あの塔には数千人の信者が集まっている。そいつらから魔力を集めつつ作れば、難しい話じゃない。それに、その教団を仕切っているのは、十裏魔術家フリージアの当主だって話だ」
「ホリティ……」
コーデリアと紺野以外の面々に、緊張感が漂った。フリージアといえば、魔術においては十裏魔術家の中でも群を抜いた一族だ。彼女なら、十分な魔力さえあれば塔を隠すのも可能だろう。
「じゃあ何か? 今回の事件の黒幕は、その女だってのか?」
フィントロールが情報屋に詰め寄った。
「それは違いますわね。前に彼女と戦ったときには、誰かの差し金であるというようなことを言ってましたわ」
落ち着いた声でコーデリアが言うと、フィントロールは情報屋を放して元の席に座った。
目で続きを促すと、情報屋は襟元を直して咳を一つして話を再開した。
「詳しいことまではわからなかったが、コーデリアの言う通り誰かが後ろにいるのは確かだろう。いくら十裏魔術家とはいえ、人材も資金も用意できるもんじゃない」
そう言って、情報屋はコーデリアのほうを見た。名門十裏魔術家というが、個人レベルでそれだけの資産を持った家など、聞いたこともない。コーデリアの家などは、すでに破産していて、残っているもといえば魔術の知識ぐらいだ。
「人間でいうなら国家クラス。妖魔なら魔王クラスの力が動いたと推測できるだろうな」
「妖魔の王は君主っていうんだよ」
情報屋の台詞を、フィントロールは即座に訂正した。
「どっちでもいいじゃねえか。とにかく、あの塔になにかとてつもねえモノが潜んでいるのは確かだ」
「毒については?」
それまで黙っていた紺野が、情報屋に尋ねた。
「うーん。成分やらその他詳しいことはまるでわからねえ。ただ、散布濃度を見るにあの塔が発生源なのはわかった」
一同の間に重い沈黙が落ちた。
「毒を消すには塔に乗り込むしかねえが……」
「塔には十裏魔術家を従える、強力な黒幕がいる」
強気なフィントロールも、飄々とした英三も、暗い思案の表情を浮かべている。アジトに残っているメンバーでは、塔を攻め落とすことは難しいと考えているのだろう。
「それでも……」
紺野が立ち上がり、皆を見渡すように言った。
「このままじゃ、みんな飢えか毒で死んでしまう。確かに正面衝突じゃ勝ち目ないかも知れないけど、何か方法があるはずよ」
弱気になっていた面々は、呆気に取られたように紺野を見上げている。
やはり強くなった。いや、これがこの娘の本来の強さなのかもしれない。コーデリアは拳を固める紺野を見て、苦笑を浮かべた。
ふと横に目をやると、情報屋は紺野を見てニヤニヤ笑っている。
「あなた……まだ何かありますわね」
「生きるも死ぬもそいつ次第。情報は判断基準に過ぎないってのが信条だからな。全員の覚悟が出来るまで秘密にするつもりだったんだが……」
おかしそうに情報屋は笑って、懐から一枚の紙を取り出した。どこかでプリントアウトしたものようだ。紙には図面のようなものが描かれている。
「塔の設計図だ」
「ずいぶん簡単に言いますわね」
「大げさに言おうが変わらねえだろ。外の警備をしていた信者の思考を読み取って、図面に起こしたものだ。ま、ウラワザってやつだな」
「でも、これって塔の半分もないみたい」
紺野が設計図を覗き込んで、不満そうに言った。
「どうやら下の階は信者たちの生活空間になってるようだな。上の方はほとんど進入禁止らしい。そっちはさすがに無理だ」
「役に立たないですわね」
コーデリアはがっかりしたように呟いた。
「そう言うな。中に入っちまえば、どうにでもなるってもんよ」
「そうよね。これだけでも有ると無いとでは大違いだわ」
紺野は全員に見やすいように、設計図を机の真中に広げた。フィントロールたちも、立ち上がって覗き込んだ。
「進入できそうなところは……、通気口。下水」
「正面からってのもありますわ」
コーデリアの意見は、紺野の一瞥で却下された。
「割と本気ですのよ……」
「上層部に進入するには、ここね」
そう言って、紺野は一つの扉を指した。
「一つっきゃないのかよ。絶対警備が厳重だって」
フィントロールが絶望的な声を上げた。英三や他のメンバーにも同様の失望感が見える。慌てて、紺野はフォローした。
「どうせ戦闘は避けられないわ。下の階で騒ぎを起こせば、数人なら扉をとおる隙が出来るかもしれない」
「となると、少数精鋭になるってわけですね」
英三が神妙な顔で、ゆっくりと言った。
一同の顔に微妙な表情が浮かぶ。妖魔と人間が共同作戦を張るというのも問題だが、誰が突入部隊に行くのかという問題もある。命惜しさと、自分の強さに対する誇りがない交ぜになって、互いに顔を見合わせあっている。
「突入部隊も大事だけど、かく乱部隊にもそれなりの指揮者が必要だわ」
紺野が言うと、英三が手を上げた。
「それなら、かく乱部隊は僕とフィントロールが受け持ちます。双方の種族の指揮をとれば、何とかなるでしょう。依存は無いですか」
英三がフィントロールを見ると、仕方無しという表情で頷き返した。
「二人なら適役ね。突入部隊に関しては、十分検討しないといけないから、もう少し時間を置きましょう」
紺野がまとめて、会議は終了した。意外とカリスマがあるのかもしれないと、コーデリアは感心して紺野を見ていた。
会議のメンバーたちは他の妖魔や人間に話を伝えるため、会議室を出て行ったが、紺野はコーデリアと情報屋だけを、部屋に呼び止めた。
「情報屋さん……頼んでいたあれは」
「おお、紫苑の行方だな。まあ、外で生きてる生き物の方が珍しいんだが、面白い話は聞けたぞ」
「おじさんの事?」
紺野は期待のこもった眼差しを情報屋に向けた。このへんはあまり変わってないなと、コーデリアは思った。
「いや、残念ながら違うんだが。不思議なことに、この学校以外でも強力な浄化結界が張られたところがあったんだよ」
「結界が? ほとんどの妖魔や退魔士はここにいるはずなのに」
「そこにいたのは唯の生き残りの人間だったよ。話を聞くと、不思議な男がここが安全だと言ったそうだ」
「おそらく、その人が結界を張ったのですね」
コーデリアの言葉に、情報屋は頷いた。
「それは見事な結界だった。ここよか良いくらいだ。それに、毒に犯された人間も触れるだけで解毒していったという話だ」
「それだけの解毒の術なんて、聞いたことも無いですわね」
ふいにコーデリアは、木刀を持った少年のことを思い出した。彼の持つ神剣なら、解毒や浄化は得意分野だろう。だが、『男が触れただけで解毒した』というのがおかしい。大樹自体にはそんな力は無いはずなのだから。
「そんなことはどうでもいいの! 紫苑おじさんの話はどうなったのよ!」
「いや、まあそれらしい奴が死んだという話は聞かなかった。その男が紫苑かどうかは知らないが、毒で死んでない可能性は十分にあるってこった」
納得のいかない表情で、紺野はドスンと椅子に座った。
「本当は、塔に行くならおじさんも一緒に行って欲しかったのに……」
「あの男はそう簡単には死なないわ。もしかしたら、既に塔に潜入してるかもしれない。彼の考えそうなことよ」
コーデリアがそう言ったとき、不意に何かを感じた。急いで窓を開け、空を見た。
「今、光りませんでしたか?」
「何が?」
「空」
コーデリアが短く言う。紺野と情報屋が近付き、外を見る。
「気のせいじゃないのか? いや、肉眼じゃ分からないことかもな」
「魔力が濃くなった……?」
間違いない。確かに魔力の濃度が、さっきの五割り増しになっている。結界がさらに壊れ、色素が薄くなっていた。
本当にそれだけか?
コーデリアは自分の能力では調べきれない何かがあるようにも思えた。魔力が高まっている。以前、戦場でこんなことがあったような気がする。
突入部隊のことで時間をかけている暇はなさそうだ。
「紺野さん、突入するのは私とあなたで充分じゃないかしら?」
「私達だけ? 危険すぎない?」
「他の方は足手まといです。私と紺野さん、それと」
もう一人の紺野さん。その言葉を胸に留め、コーデリアは柔らかく微笑んだ。
作戦と呼べるほど大層なものではない。作戦会議で話題に出たドアから紺野とコーデリアが突入するため、部隊を三つに分け、三方向から攻める。部隊長は、英三、フィントロール、昨日まで監禁されていたネガティブの三名だ。
紺野とコーデリアは、指揮能力がもっとも優れており、防御力のある英三の部隊に同行する。戦闘力の高い二つの先発部隊がどれだけ成果をあげるかによるが、両軍が滅んでも英三の部隊のバリアに守られた二人を中に送り込むことは出来るはずだ。
紺野は自室で靴を履きながら、昨日コーデリアを襲った妖魔のことを考えていた。
ここに難なく入れるのは自他共に認める事実だ。本来の力を取り戻したコーデリアだからこそ簡単に撃退していたが、あの妖魔は、こちらの上位クラスの者でもやられかねないほどに強力な妖気を放っていた。
どうして事前に進入を防げなかったのか。
――知らぬ振りをした。
それが紺野の仮説だ。見逃したのは、今日部隊長を務める三人の誰か。彼らの作り出した結界である。真っ先に彼らが気付くはずなのに、誰一人保健室に駆けつけることはなかった。もしかすれば、三人とも敵の刺客なのかも知れない。
だが、ここは仲間だと信じるしかない。そうでなければ、勝つことはおろか進入すら不可能だ。
「私、ギャンブル弱いのに」
今は亡き友人と賭け事をするたびに負けていたことを思い出し、紺野は笑みを浮かべた。過去は戻らないが、未来を手に掴むことは可能なはずだ。
「おじさんがいなくてもいけるよね? 私」
――当たり前よ。
誰かにそう言われた気がし、紺野は周りを見た。当然、誰もいない。
今日は久しぶりにご飯を食べた。お陰で少しだけ身体の調子が良かった。
紺野がグラウンドに着く頃には、部隊は揃っていた。寝坊かー、と茶化すフィントロールを無視し、悪鬼のネガティブの元に行く。
ネガティブは三本の角を生やした鬼だ。角の数が多いほど有能らしく、三本だと種族の中では一流だそうだ。
「しっかりやってよ」
「我ニ指図スルカ。偉クナッタナ、小娘ヨ」
紺野が睨み付ける。
「安心シロ。飯ノタメダ。最善ハツクス」
「結構。任せるわよ」
紺野が手を差し出す。ネガティブは不吉な笑みを浮かべ、手を取る。彼は食欲に忠実なだけで理性がないわけではないようだ。
「最終調整に時間がかかります。もう少し、待ってて下さい」
英三が紺野の元に来る。
「結界?」
「はい。我々がいなくなっても、暫くは保つように」
戦闘に参加するのは、学校に住む者の三分の一にも満たない。だが、自力で生き残った者が多いだけあり、統率さえ取れれば心強い集団だ。
「紺野ちゃん、俺がみっちり鍛えてやったんだ。死んで帰って来ないでくれよー」
「死んだら帰ってこれないじゃない。フィントロールこそ、化けて追いかけて来ないでよ」
フィントロールが大笑いをし、紺野の肩を何度も叩く。始めて会ったときから彼の馴れ馴れしさには辟易していたが、今だけはそう思わなかった。
「コーデリアは?」
「まだ寝てますよ。ぎりぎりまで寝ていたいそうです」
英三が部下に指示しながら答える。
紺野は校舎を見上げた。窓からこちらを見る連中は、皆不安を隠すことなく発散させている。彼らの中には、悪鬼妖魔の姿はない。当然だ、能力のある者は参戦している。
紺野は手首を握りしめ、拳を握った。これは生き残るためだけの戦いではない。悪鬼妖魔人間が協力して生きていけることを示す戦いでもある。
闘おう。明日――いや、一分、一秒先のために。
コーデリアがグラウンドに姿を現した。どんなときでも彼女は余裕を持った態度を保っている。先頭に出るというのに、神経質にも見えるほどに身なりを整え、隙の一つもない。
紺野は、動きやすさと着慣れを考慮し、身体にぴったり合ったTシャツと膝の部分が破れたショートパンツ姿の自分が、少し可笑しかった。それと頭に巻いたバンダナに隠れているが、ブラッシングを怠けて寝癖を残したままだ。
戦闘が終われば、ファッションの話でもしよう。紺野はコーデリアに手を振り、そう思った。