-デイブレイク 後章-

一 目覚め。


 

 コーデリアは、肌寒さを感じて目を開けた。メンテナンスポッドの蓋が、コーデリアの起床を感知して開く。

 ポッドの外は、見慣れた研究室だったが、どうも様子がおかしい。

 コーデリアはポッドを出ると、テーブルに置いてあった服を着て周囲の様子を探った。

 周囲一キロ四方。この研究所内には誰もいないらしい。錬金術と科学を極めた国家研究所だというのに、いくら休日だとしても人一人いないのは異常だった。

 メンテナンスポッドに入ってから何か緊急事態でも起こったのだろうか。コーデリアはとりあえずコンピュータを起動してみることにした。

 TVが置いてないので、とりあえずニュースサイトを見て回る。ネットワークは生きているようで、すぐにブラウザは最近のニューストピックスを表示した。

 有名な芸能人が離婚した。海外の紛争は激化の一途をたどる。選挙速報。今日の占い。さそり座のあなたは外出が吉。思わぬ出会いが待っている。

 ニュースサイトはどこも普通の記事しか載っていない。この研究所に何かあっただけなのだろうか。

「ん?」

 そのとき、コーデリアは小さな違和感を覚えた。コンピュータの隅に表示された日付と、ニュースサイトの日付が違っている。コンピュータの日付は、三ヶ月ほど進んでいるのだ。

 故障か、と思われたが違和感は拭われない。

 カレンダーが休憩所にあったのを思い出し、コーデリアは研究室を出た。白く冷たい廊下を歩く間も、誰ともすれ違わない。電気は独立発電系があるので、判断の材料にはならない。

 廊下の突き当たり、休憩所のと書かれた扉を開けて中に入る。自動販売機のモーター音が大きく響く室内には、やはり誰もいない。

 カレンダーを見る。研究所の作業員がサボっているのでなければ、今はコンピュータの表示よりも三ヶ月は前なのだ。

 やはり機械の故障だったというのか。

 自分がメンテナンスに入ってから、数日しか経っていないはずだった。昔のつてを頼ってメンテナンスが出来る場所と技術を提供してもらい、休眠状態で数日もあればオーバーホールは住むはずだった。

 コーデリアは、これほど自分の感覚に疑いを持ったことはなかった。

 たかだかコンピュータの故障一つで、何故これほどまでに不安な気持ちになるのか、自身でも理解不能な、それでいて妙な確信が、コーデリアの脳裏に蠢いていた。

 まるで、ナンセンスな悪夢のようだった。狭いロッカーにでも駆け込んで震えていたいような、がむしゃらに走り回って狂ってしまいたいような、悪趣味な焦燥感がコーデリアの脊髄を駆け上がってくる。

 とにかく誰かに会おう。

 そう決意すると、コーデリアは走り出した。

 体は軽く、速度は全盛期の能力を完全に発揮している。風のように研究所の廊下を駆け抜け、階段を飛ぶように上がり、鍵の閉まっていないドアを通り抜ける。

 研究所は国有林のある山の中に立っているので、コーデリアの認識できる範囲には民家はないのだが、それでも誰かはいるはずだった。聴覚を研ぎ澄ますが、水音を木々のざわめく音以外何も聞こえない。――虫や、動物の鳴き声は?

 コーデリアは不吉な思考を振り払い、聴覚を閉ざした。とにかく町まで降りよう。そして商店街にある、あの古本屋に行くのだ。あの、妖魔の男の顔を見れば、自分の杞憂は全て晴れるはずだ。

 舗装されたアスファルトを蹴り、獣のような速度で下る。数時間走ると、街が見下ろせる高台までたどり着いた。

 コーデリアは、自分の目を疑った。

「なに……あれ」

 見慣れた高層ビルが立ち並ぶ街に、冗談のような建造物が見えた。

 円筒形の、他のどんなビルよりも高くそびえる塔だった。金属質の鈍い輝きを放ち、現実を拒絶するかのようなその塔は明らかな人工物にもかかわらず、神の御技を思わせる神々しさも感じられる。

 高台の上から、恐る恐るその塔の様子を窺う。完璧な防音処理でもされているのか、中の音は聞き取れず、表面上には動きのあるものは何もない。

 コーデリア思考は蒸発して、気がついたときには再び走り出していた。

 街まで一気に降りてきて、無人の商店街を駆け抜ける。

 電力はかなり前に途絶えているのか、電化製品のモーター音すら聞こえない。人はおろか、車や電車の音もだ。

 無音、暗闇、常人を遥かに凌駕する感覚を持つコーデリアには、外的情報が無いという事は想像以上に苦痛だった。

 研究所から走り通しだったため、足の筋肉が悲鳴をあげる。コーデリアは痛覚をカットして、目的の古本屋を目指す。聴覚はとうに機能を止めており前に進むことのみに集中する。

 古本屋を見つけ飛び込むように中に入った。崩れた本の山を乗り越え、奥の部屋の扉に手をかけた。

 わずかに躊躇して、一気に扉を開く。

 中には、誰もいなかった。無愛想で冷酷な妖魔の男も、青臭く自分を毛嫌いしていた女も。

 ただ、部屋の一面に、黒ずんだ何かが飛び散っていただけだった。

 震える指を伸ばし、壁にこびりついたものを削り取る。それが乾燥した血液だと、コーデリアは信じることが出来なかった。

 その血液の主は部屋の中にはいない。ただ、この部屋で起こった惨劇の名残だけが厳然とそこにあった。

 匂いはない。随分時間が経過したのだろう。

 空白の思考のまま、コーデリアは二階にあがり、いつも自分が寝ていた部屋にゆっくりと座り込んだ。

 何があったかはわからない。もうすでに終わったのかも、まだ続いているのかも。

 どちらにせよ、自分が眠っている間に何か決定的な出来事が全てを壊してしまったということはわかった。

 膝に顔をうずめると、急激な疲労が襲ってきてコーデリアは眠りに落ちた。

 そのとき聴覚を開放していれば、その音が聞こえたかもしれないが、コーデリアは次の瞬間には、自分でも不思議なくらい深い眠りの中に落ち込んでいた。

 

 誰もいないことを確認して、紺野は顔を上げた。小さく長く、緊張感を吐き出すように溜め息をつく。周囲に気配は感じられなくなると、急に空腹を思い出した。

「うう……。さすがに三日も食事無しだと、きっついなぁ」

 三日前にとった食事も、缶詰のコンビーフが一つだけだ。ただでさえ生気の足りていない紺野には、貧血を起こすほどの空腹だった。

 アジトに戻れば何かあるだろうが、十分に食料を備蓄しているわけではないので、全員に配給すると一人当たりの分け前は非常に少なくなるのだ。

 足りない分は街を回って、置いていかれた食料を集めて回るしかない。

 血の足りてない頭を振りながら、紺野は路地から出てくる。顔を上げると、町のどこからでも見える塔が目に入った。

 コーデリアがメンテナンスをするといって居なくなり、大樹は修行のためにどこかに去って数週間後、ある日塔は忽然と姿をあらわした。

 一夜にして出来るものではない。長い年月をかけて建設されたというのに、だれもそれに気づくことが出来なかった。それがどれだけ異常だろうが、だれも見る者がいないとこうも平然と存在できてしまうものなのだ。

 紺野のおなかが、現実に引き戻すように大きな音を立てた。

「食べ物よ。そんなことより」

 頬を叩き、気合を入れる。そうでもしないと今の紺野はすぐに貧血になって倒れそうなのだ。

 人気のない商店街を歩きながら、周囲の店を覗いて回る。魚や肉といった腐りやすいものはどこかに持ち去れてなくなっているが、コンビニのなかで非常用の乾パンを見つけた。

 袋を開けて口に入れるが、腹の足しにすらならない。それどころか、逆に喉が渇いてきた。

 我慢して乾パンを飲み込み、他に食料がないか探す。何もないことを確認して、紺野はコンビニを出た。

 商店街を進むと、見慣れた風景の中に古本屋が目に入った。

 自然と、紺野の足は鈍くなる。入り口から中を覗くと、崩れた本の山が見える。急に吐き気をもよおして、紺野は自分の口を押さえた。

 まだ慣れることはない。一生慣れるなんて事はないのだろう。痛みは常に一定で、対抗するには自分が強くなるしかないのだ。

 暗い店内に目を戻す。

 奥の部屋に続く扉が開いていた。何度かここには来たが、奥の部屋には行っていない、三ヶ月前のあの日から、この店に入った者はいないはずだった。

 中に入る。

 積み上がった本の上には、真新しい土がついている。

「だれか、いる!」

 紺野は息を飲み、奥の部屋に入る。壁の血の一部が削り取られているのに気付いた。出来る限り音を立てないように、ゆっくりと階段を上がる。

 いつもコーデリアが寝ていた、もともとは紫苑の寝室だった部屋の前に立った。

「おじさん……?」

 紺野は縋るような声を出し、襖を開けた。が、彼女の希望を絶つように、そこには懐かしいコーデリアの姿があった。

 紺野は言葉なく、コーデリアの傍らに座り込んだ。彼女と出会っても安堵感は生まれない。生きていて良かったと思ったが、今の紺野には紫苑以外を見ることが出来なかった。

「……いつの間に帰ってたのよ」

 紺野がコーデリアを揺するが起きない。あふれ出る青色の生気から察するに、ただ疲れて寝てしまっただけのようだ。生気は数週間前よりも色濃くなっている。メンテナンスを済ませ、本来の実力を備えて帰ってきたようだ。

 紺野はコーデリアを背負い、アジトに向かった。

 

 あの塔が出現し、世界は無色透明の何かに襲われた。これが紫苑達が調査していた毒だったのかも知れない。無色透明の何かは、魔力の固まりである、ということ以外分かっておらず、抵抗力のない、もしくは守ってくれる者がいなかった悪鬼妖魔人間動植物全てが息絶えた。

 生き残った生き物は、悪鬼妖魔人間の合同で張った結界の中に隠れ住んでいる。この数週間は、問題なく結界の中で暮らせたが、近頃では様々な問題が浮上していた。

 紺野はアジトでじっとしていられず、食料を捜す名目で外に出ていた。この世で生き残ったセムは、行方不明の紫苑を覗けば彼女だけらしい。

 魔力に抵抗力のないはずの紺野だけが、生き残った理由は不明だ。大樹のようにミナの神気で防いだ、なんてこともしていない。

 無色透明の何かに襲われた時、紺野は病院で寝ていた。だが、目が覚めるとアジトの保健室のベッドの上にいた。

 結界を張った連中の話では、自分と瓜二つの女が運んできたという。女性は蒼い色の光を纏っており、それが紺野を包み込んでいたという。退魔士の仮説では、光が魔力を中和し、二人を守っていたという。

 女性は紺野を預けると去ってしまい、そのまま行方知らずという。礼の一つも言えなかったことも気になるが、自分にそっくりな女性の正体にも興味があった。

 アジトは駅前にあった高校だ。グラウンドが広く、校舎の数も多いことから選ばれた。

 紺野は閉じた門を飛び越えた。うっすらとピンク色の膜があったが、物理的な壁ではなく、魔力だけを遮断している。

 門番をしていた青い悪鬼が、紺野を確認し、近付いてきた。

「セムの嬢ちゃん、何拾ってきたんだ? 死体なら食って良いか?」

「まだ生きてるって……保健室開いてる?」

「多分開いてるぞ。でも、保険医の人間はいない」

「どうして? あの人、あんまり外に行かない人じゃないの?」

「……腹減ったって暴れたやつに食われたんだ」

 紺野は青い悪鬼を睨み付け、保健室に向かった。中に入ると荒らされた後はなく、シーツに皺すらない。綺麗に整頓されていた。おそらく誰かが後始末を済ませたのだろう。

 紺野はコーデリアをベッドに寝かせ、廊下を歩いていた人間の女を捕まえた。

「あら紺野さん、帰ってたんですか」

「悪いけど、私の友達……人間の子なんだけど、ちょっと頼んで良い?」

「分かりました。人間ですね」

 女が保健室に入っていく。言葉尻が癪に障ったが、今はそれどころではない。

 生徒会室は二階にある。紺野は階段を上り、右に曲がった。生徒会室と書かれたプレートに目をやり、紺野はドアをノックした。返事を確認し、すぐ中に入る。

 生徒会室は、真ん中に長い机を二つくっつけて、周りにイスを並べていた。ここで今後の会議をすることが多く、大勢が座れるようにしてあった。

「三日もどこに行ってたんだ? 紺野ちゃん」

 上座に座った人間の姿をした上級妖魔のフィントロールが立ち上がった。彼は結界を張っている妖魔の一人だ。

「食料を探してる、って前に言わなかったかな? 近くは取り尽くしたみたいだから遠くに行ってたの」

 紺野が勝手に入り口付近の椅子に座る。上級妖魔は鼻で笑い、席に着いた。

 窓の近くにいた人間の坂本英三が振り返った。歳は二十歳中頃。童顔だが、芸能人の誰々に似てると称されても可笑しくないほどには男前だ。彼も結界を張った魔術師の一人で、ローブを着てそれらしい格好をしていた。

「紫苑さんは見つかりました?」

「まだ。でも、代わりに頼りになる人見つけてきた」

「十裏魔術家のコーデリアさんですね」

 紺野が立て膝を突き、不機嫌そうに目を細めた。

「やっぱり監視してたんだ」

「申し訳ありません。あなたが悪い妖魔でないことは、僕を含めたここにいる全ての人間は知っていますが、なにぶん周りの目がうるさくて」

 英三が上級妖魔を見る。お互いが牽制するように火花を飛ばし、すぐに顔を背けた。

「もう一人はいないのね」

「ここに来たってことは、話を聞いたんだろ。食ったのはあいつと、保険医を手伝っていた悪鬼だ」

 紺野が立ち上がり、壁を蹴る。ここに来た当初、保険医には世話になった。医大に通っていた院生の男は、悪鬼妖魔に偏見を持たず、「けが人はけが人だし」と手当をしてくれていた。

 日頃から「悪鬼の連中は血の気が多くて怖いよね、紺野さん」と不平を漏らしていたが、こんなことになるとは。

「お前だけでなく、みんながイライラしてるって」

「彼の対処は? また監禁してるだけ?」

「ああ、そうだ。あいつがいないと結界は崩れる。あんまり厳しい罰は与えられないんだよ」

 フィントロールが心底つまらなさそうに顔を歪める。

「でも、もう一人は……僕が殺しました」

 英三が溜め息混じりに言った。

「数日に一回はこんなこと起こってるじゃない。このままだと……保たない」

「分かっています。でも、紺野さんなら僕らの立場をよく分かっているでしょう。長い歴史のわだかまりを、たかだか数ヶ月でどうにか出来るわけないんです」

「幹部の俺らでさえ、不祥事を犯す奴がいるんだ。そろそろ内部戦争が起こるか」

 悪態を付き、フィントロールが自虐的に笑う。本来ならAランクに位置づけをされる彼でさえ不安は隠せないようだ。

「そんなことさせませんよ。僕が生きている限りはね」

 英三が無表情で答える。彼は他の者よりも思考を読めない。腹黒いことはないだろうが、どこか胡散臭い。

「そうそう。一応聞くが、食料は見つかったかー?」

「あったのはこれだけ」

 からかうように言うフィントロールに、紺野は乾パンの袋を投げた。

「へえ、探せばありますね。数も少ないですし、こっそり三人で頂いちゃいましょうか」

「へっへー、悪い奴だな英三さんよ! おーし、その案乗った」

 二人が意地悪い顔で分け合う。共同生活の結果、それなりに仲良くなってはいるようだ。問題は、幹部よりもやはり下の者だろう。

 乾パンを数個口にし、紺野は生徒会室を後にした。

 窓を開け、グラウンドを覗く。そこでは、僅かに残った子ども達が体育倉庫からボールを取り出して遊んでいる。暇なときはせがまれて遊び相手をすることもあるが、今は気分ではなかった。

 子どもと接すると、どうしても暗い気持ちが溢れ出てくる。おそらく紺野の代でセムの血は耐えるだろう。他の悪鬼妖魔も次の代かその次で終わるだろう。人間も一番数が多かったのに悪鬼妖魔に襲われ、今ではどの種族も数が変わらなくなっている。

 このままではいけない。だが、具体的な解決策が浮かばない。考えることより、身体を動かす方が性に合っているのが、このときだけは腹が立つ。

 紺野は食堂に行き、料理を作っていた人間を手伝った。その後は、理科室で飲み水を作っていた高校生達に声をかけ、食事に向かわせた。残った者と紺野は、半分に切り抜いたペットボトルにガーゼ、小石、木炭、砂利などを詰め、せっせと水をろ過する。

「これ、沸騰させて」

「あいよ」

 退魔士の女が術を使い、鍋に火を当てる。

「なんで妖魔なのに、手伝ってくれるんですか?」

 恐る恐る高校生は、紺野に尋ねた。

「一緒に暮らしているのに助け合わないなんて道理に合わないから」

「そ、そうですよね。すみません、変なこと聞いちゃって」

 高校生が慌てて訂正する。

 紺野は内心溜め息をつき、黙々と作業に勤めた。この人間と悪鬼妖魔の間にある溝を目の当たりにし、奏しようもない絶望感にかられた。

 人間が悪鬼妖魔に怯えるのは理解できる。この結界の中にいる限り、保険医のようなことが我が身に降りかかるかも知れない。だが、悪鬼妖魔達に所詮は餌と見なされるのは人間にも原因があった。

「紺野さんくらいよ。話の分かる妖魔って」

 話が分かる分からないの問題ではない。相手と接しようか接しまいかの問題だ。紺野は自ら人間の輪に飛び込み、コミュニケートを取ったお陰である程度の面識は出来たが、人間が紺野のように悪鬼妖魔に話しかけることはほぼない。子ども達でさえ、お互いの親の目があり、一緒に遊ぶことすらしていない。

 この非常時に、どうして親身になって手を取り合わないのか。今でもこうして人間と悪鬼妖魔の間の仲介人になろうと励んでいるが、成果は現れない。たった一人の存在では、大きな壁は越えられない。

 廊下で慌ただしく走る音が聞こえてきた。高校生が作業を中断し、外に出た。

「保健室でなんかあったらしい」

 帰ってきた高校生が、紺野を見た。厄介ごとは全て悪鬼妖魔に任せるのが彼らだ。

「見てくる」

 女医の事が自然と頭に過ぎる。紺野は走った。報せは不吉ばかりだ。

 

 

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