-デイブレイク-

十 終わりの始まり。


 

 コーデリアと別れ、紫苑は再びあの繁華街に足を運んだ。陽もやや傾き始めている。

 夜も近い。

 三日経ったが相変わらず警察が立ち回り、進入禁止区域も多かった。毒物が巻かれたとの解釈で世間に報道された。

 紫苑は言い得て妙だな、と感心した。あながち間違いでもない。自らの掌を見る。

 焼け爛れている。

  ホリティの魔杖を叩き折ったが、どうやらそれがまずかったようだ。杖の毒性は掌を蝕み、徐々に紫苑の体内に侵食し始めている。

 だが、こうするしかなかっただろう。あの杖は寧ろホリティ自身よりも禍々しい狂気を放っていた。捨て置けば必ず厄を招く。

 暑いわけでもないのに額を汗が伝う。

 毒は確実に紫苑の体内を破壊している。今こうしている間も細胞の一つ一つが破壊されていく。この命捨てねばなるまいか。

「あ、おまえは!」

 ここ数日、既に何度も聞いた声に紫苑は振り返った。

「浦賀大樹か。どうした。懲りもせず、また俺を討ちにきたか?」

「あ、おまえは! って言っただろ。偶然通りかかっただけだ」

「そうだな。見れば精霊も回復していないようだしな」

 大樹は歯を噛み締めている。あの夜、紺野を嗾けた事をいまだ許せないのだろう。

「どうした。言いたい事の一つもあるんじゃないのか。今はヒマの一つもある。聞くぞ?」

「生憎と俺は修行中なんだよ。そんなに長話する身分じゃねえ。でもこれだけは言う。お前は俺がぶったたき、殴り飛ばす」

「そいつは頼もしいな」

 小馬鹿にしたように紫苑は笑った。

 身体を冒す毒に倒れるのが先か、大樹に殴り殺されるのが先か。あるいは、敵に討たれるのが先か。いずれにせよ、紫苑にも己の命がそう長くない事は分かる。

「けどな」

「何だ?」

「お前のおかげで、俺やミナが助かったという事実もある。あの魔術師が現れた時のことを忘れたわけじゃない」

「律儀だな。利害の一致というやつだ。それを好意と解釈するならこちらも有難い話なのだがな」

 大樹は言うべき言葉が見つからないかのように、こめかみを掻き少し考え、口を開いた。

「俺はそういう話をしているんじゃねえ。なんつーかな、別にお前に好意を持っているとかそういうわけじゃねえんだが、だけどお前はただ祓われるべきやつでもない気がする。いやそうじゃなくて、なんか、お前、もしかして色々苦労や考え事背負って生きてるんじゃないのかな、とか、まあ今俺は剣の修行をしていると、強さ以外についても色々と考えるべきことはあるし、それに」

「ふ」

 紫苑は吹いた。この少年の単純であり、明快な思考回路を感心さえした。比べて自分は多くの物を複雑化し、未だ消化できぬ問題を多く抱えている。死が近づいているにも関わらず、だ。

「言うべきことは先に頭の中で整理しておくんだな、小僧」

 大樹は「むう」と唸り黙り込んだ。

「さて、今日は戦闘という訳ではあるまい。立ち話もなんだ。飯でも食わんか?」

「誰が嘘吐き妖魔と飯食えるかよ。しかもお前はその飯に関してあの夜嘘をついたんじゃねえか。忘れたわけじゃねえよな」

 紺野のことか。飯の話題を振ったのは失敗だったようだ。大樹はふんっと鼻を鳴らし、紫苑に背を向けた。

「じゃあな。次に会う時は真っ平らになるまでぶん殴ってやるぜ」

「浦賀大樹よ」

「あんだよ」

「俺はそう長くない」

 大樹の足がぴたりと止まった。

「どういうことだ?」

「十裏魔術家の女が持っていた杖を覚えているな。どうやらあの毒に当てられたようだ」

「お前がへし折った杖か。あれがお前らの調べてた毒の正体だったのか?」

「さあな。凡そ地上のモノとは思えぬ程、強力な毒素を含んでいた。今も俺の身体は破壊され続けている。そう長くは持たないだろう」

 大樹が振り返った。

 その瞳は同情でも敵意でもない。ただ、死期の近さを告白した者と相対した時の表情が判らないのだろう。

「なんで俺にそんなことを言うんだ」

「お前が誰の差し金で俺の命を狙ったかは知らん。だがこの首を狙う以上、お前も毒に冒される危険があると知れ」

「そんな事でびびると思ってるのか。命乞いじゃねえだろうな」

 紫苑は笑った。臆せぬは若い者の特権だろう。

「では、恥ずかしいながらお前に一つ頼みがあるのだがいいかな」

 紫苑の言葉に大樹は怪訝な表情を見せた。

「あ? なんだ。とりあえず言ってみろよ」

「俺になにかあった時は紺野とコーデリアに力を貸してやってくれ」

「なんだそれ」

「それだけお前を高く買っているということだ」

 大樹は「そうかい」と言い、背を向け去っていった。

 去り際にこう言った。

「お前は俺が叩き潰す。首洗って待ってろ。そん時ぁ遺言の一つでも聞いてやる」

 紫苑は大樹の背に向かって笑った。

 さて紺野の見舞いに行こう。

 

 

 神殿の地下深くにあるホリティの広大な研究室では今日も悪鬼妖魔の悲鳴が上がっていた。

「潰れなさい」

 ホリティがそう声を上げると、モルモットとして使っていた妖魔数匹の身体が宙に浮かび、強力な圧力を外側から受け徐々に押しつぶされていく。ぶちぶちと肉が潰れ、身体が収縮していく。

 妖魔の歪な悲鳴が広い硬質の研究室に響いた。

 正しくそれは断末魔の叫びだ。命乞いすらできない哀れなモルモットは声を上げるだけだ。

 妖魔はセムだ。今日の魔術実験のモルモットはセムだ。昨日もセムだった。一昨日もセムだった。紫苑、だったか。ホリティは自らの喉に手を当てる。

 傷は己の回復魔術で遠に治した。だが敗北の屈辱は癒されない。

「あああああああああああああああああ」

 思い出したらまた悔しくなり、涙さえ滲んだ。掌を次のモルモットに架ざし、その身体を宙に持ち上げる。

「ひいいいいいいい」

 妖魔の恐怖も悲鳴もホリティのプライドを癒さない。

 これは八つ当たりではない。より実戦に於いて相手を的確に殺す為の練習だ。そう自身に言い聞かせる反面、やはりストレス解消なのだと自分でも分かっていた。

 ぐっと掌を握る。

 宙に吊り上げられていた妖魔は文字通り木っ端微塵に砕け散った。

 ホリティは荒い息を吐いた。魔術の疲れではない。興奮状態にあるのだ。憎しみは止まらない。屈辱は耐えられない。この苦しみから抜け出すには、あの紫苑とかいうセムを殺さなくてはならない。

 殺すべきは紫苑だけではない。コーデリアもだ。

 昔から誰にも負けたくなかった。だから必死に研究と鍛錬を重ねてきた。そんなホリティをコーデリアは始めてあったあの夜、見事に討ち負かした。悔しかった。あの時からゴキが頭に焼き付いて離れない。

 もう誰にも負けたくなかった。なのにまた負けた。しかもそれはコーデリアでさえない。雑兵と侮ったセムの男だ。

 なんのための魔術か。この大魔導師の名は飾りか。十裏魔術家党首の座はブランドに過ぎないのか。

 否。

 もう負けやしない。今回の屈辱も授業料として受け入れようではないか。次に殺せればそれで良い。

 ホリティは手近にいたセムのモルモットを睨んだ。それは即殺の魔術だ。殺意の呪いを掛けられたセムは悲鳴を上げる間もなく、身体の内側から肉を弾かせ、吹っ飛び、木っ端微塵になり、死んだ。

「随分と荒れてるようだなァ、ニンゲンよ」

「――」

 場違いな男の声にホリティは室の入り口へと振り返った。その妖魔はホリティが許可した訳でもないのに、勝手に研究室の扉を開け、そこに立っていた。

 白色の君の側近、サラマンダーのヴァジルだ。その赤く硬い皮膚は如何なる打撃剣撃にも耐える、伝説にも名を残す火蜥蜴の末裔だ。

 君主の寵愛を受けた側近。その能力はAランクの妖魔数千体に勝る。

「…誰の許可を得て扉を開けたの?」

「許可だァ? ニンゲンの分際で何ネゴト言ってやがる。そもそも我はお前みたいなカス!のニンゲン!の小娘!が我等妖魔と対等の立場にいるってのが気にいらねえんだよ。許せねえんだよ。なにが十裏魔術家だ。ニンゲン如きが背伸びして、我らと対等ぶるんじゃねェ。死ねよ、おめえは」

 ホリティは冷たく笑った。側近ヴァジルの表情が怒りに歪む。

「そのニンゲンの力が必要だからこそ、貴方の主は私を迎え入れたのでしょう? あの毒を動かすことができるのも、抑えることができるのも私だけ。貴方達妖魔は触れるだけで死滅する。さあ、判ったら新しい毒の杖を用意させなさいな。この前の杖はもう使い終わったわ」

 ヴァジルは目を血走らせ、怒りの余りわなわなと身体を震わせている。

 だが、如何にこの短絡な妖魔でも、主の意にそぐわない行動を取る程愚かではなかったようだ。怒りを抑えると「ついてこい」と言い、研究室を出、歩き出した。

 ホリティもヴァジルの後に続き、研究室を出た。

 山奥の神殿の遥か地下は静かなものだった。ヴァジルは螺旋状の階段を降り、更に地下へと下りて行く。

 怒りも収まったのか、ヴァジルの顔からは険も取れていた。怒りやすいが、なにも常時怒っているわけでもない。

「なァ」

 長い道を歩きながらヴァジルは声を掛けてきた。

「なんでしょう?」

「毒はなんなんだ?」

「なんでしょうね。でも貴方の主が口にしないなら知るべきことではないのではなくて?」

 はぐらかすホリティにヴァジルは舌打ちし黙った。

 会話も止まり、また二人は黙り無限を思わせる螺旋階段を降りる。会話が止めば静寂な階段通路には足音だけが響く。ホリティは暇つぶしに足音を鳴らさないように歩けるか、と試みたがそれは徒労に終わった。

 余りの静寂は僅かな音にさえ敏感になる。戦士として極意の強さを得た目の前を歩くヴァジルでさえ足音を鳴らすのだ。無理なのだ。

「なァ」

 ずっと螺旋状の階段を降りていると、またヴァジルはホリティに声を掛けてきた。沈黙は苦手なのだろう。

「なんでしょう?」

「ザイクロンという妖魔を知っているか」

「話だけなら。昔、白色の君と戦い、散った孤高の嵐の妖魔でしょう?」

「そうだ」

「それがどうかして?」

「我もあいつと戦った。強かったぜ。Aランクの妖魔など我は星の数程倒してきたが、あの女はそのどれとも違った。強いて言うならば信念だろうよ」

 ホリティは素直に「へぇ…」と感心の相槌を打った。この妖魔が他人を褒めるのも珍しく感じた。

「で、その妖魔がどうかしたのでしょう」

「お前と似ていると思ったんだよ、結局は死んじまうとこもな」

 ホリティは「あはは」と小馬鹿にしたように笑い流した。

 この身に信念などない。あるのは敗北を許せぬなどという無用なプライドと憎しみだけだ。斯様に御立派な英雄と己を比べ、似ているとはその妖魔に失礼だろうとホリティは自嘲した。

「ついたぜ、ニンゲンよ」

「――」

 ホリティは聳える巨大な扉を目にし、息を呑んだ。

 まさにここは星の最下層と言えるべき世界だ。地上から延々と螺旋階段を降り、辿り着いた地下世界。この扉の向こうに『毒』はある。

「扉は開けてやる。ここからは独りで行け」

 ヴァジルは壁に備えられたレバーを引いた。地響きのような摩擦音を鳴らし、超大の扉は少しずつ開けていく。

 扉の中が少しずつその姿を見せる。

 さあ、新しい毒滾る杖を造ろう。

 もう誰にも負けない為に。

 

 

 

 

 嘗て星に蔓延した毒があった。

 毒は星の内部まで侵食し、本来在るべき歴史を歪めた。

 太陽さえそのヒカリを失う毒。

 何者にも望まれぬ毒。

 決して開けてはならぬ毒。

 だけど、悪魔の言葉に負けた女は毒を解放した。

 最奥には希望があると信じて。

 

 

 

 

 前章は終わる。

 そして後章へ。

 

 

後章へ進む  タイトルに戻る