-デイブレイク-

七 妖魔の君主。


 

 暗く、苔の匂いのする自室でティモは資料に目を通していた。

 ランタンを灯りとするこの部屋の壁には、歪な影が映っている。歪みはランタンの炎の揺らめきか、悪鬼妖魔の影故か。

 ティモは腕を組み、呻いた。

 策謀はそう上手くはいかない。いかにヒトを動かす術に長けようとも下級妖魔ではこれが限界なのか。

 妖魔の君主の一人、リジェルイート。

 我が主、架の偉大な君主の御姿を思い出す。『宝玉の君』とも言われたリジェルイートの復活はまだまだ遠い。そして主の復活前に討たねばならぬ相手がいる。

 同じく妖魔の君主の一人、『白色の君』とも呼ばれるウィーグラフだ。未だ眠るリジェルイートの安息の為にもあの妖魔は倒さなければならない。

 時が迫っているのだ。

 ティモは暗い部屋の天井を見上げた。ここからでは見えないが、今はまだ地上のイキモノは太陽のヒカリを目にすることが出来るだろう。だが、白色の君を倒さねばそれとていつまでも約束されるものではない。

 白色の君はこの世界にはいない。あの神殿から通じる君主の世界に根城を張り、尚この地上において多大な影響を持っている。また白色の君に従う妖魔も多く、あの神殿はもはや巣窟と言ってもよいだろう。

 戦力が足りないのだ。

 セムの男とアンドレアルの強化兵には毒の調査を依頼した。そう時間を置かずにあの神殿へ行き着くだろうと思ってはいたが、既に彼の軍勢とも交戦を始めたようだ。

 勝てるか?

 何度となく同じ問題点にぶつかる。君主クラスの妖魔に普通の妖魔が勝てるわけがない。ティモにできるのはいわゆるジョーカー的な能力を持つものを探し出しぶつけていくことだけだ。戦力になるのならそれこそ人間にだって頼む。

 だけど戦力が足りない。

 強力な力を持った者がもっといるのだ。Aランクの妖魔が束になったところで、白色の君は愚か、その側近にさえ敵わない。

 同胞の多く眠る今、当てにできるのはこのクチと、協力関係にある僅かな戦力だけなのだ。

「お困りのようだな、ティモ・トールキよ」

 ティモは振り返った。

 誰もいなかった筈だ。この居場所を知っている者などいないはずだ。

 だけど、その男はいた。眠っている筈の同胞、宝玉の君リジェルイートの側近の一人、魔知の妖魔ロウドローラだ。

「何故あなたが此処に。先の大戦で多くの力を消耗されたあなたは眠っていなければならぬ筈」

 そうだ、宝石の君同様、先の大戦で消耗した仲間は皆眠っているのだ。それはロウドローラとて例外ではない。動けるのはティモのような非戦闘員だけだ。

「力の回復を待たぬまま無理をすれば消滅しかねませんぞ」

「いやいや。さすがにそうも言えぬ状況だろう。なに日常の生活くらいなら差し支えなかろうよ。戦闘行為も一度くらいならなせるだろう」

「ですが」

「貴公とて君のために力を尽くしているのだ。側近の私が何もせぬ訳にはいくまい?」

「は」

 ティモは頭を下げた。

「それに私も今回の戦には個人的用件もできた。我が知識を与えたアンドレアルの末裔が何処までやるのか見極めたい。貴公も私の意を組み、あの娘に声を掛けたのだろう?」

「恐れ多い」

「時に今回の戦に他の十裏魔術家は参加しているのかな」

「フリージアの娘が白色の君の側に付いたようです」

「あの家は昔からアンドレアルとは粗悪の仲だったな」

「は。恐らくフリージア家が白色の君に付いたのも」

「アンドレアル家と戦うためか。我が名誉の為にもアンドレアルの娘に負けてもらう訳にはいかんのだが。しかし私の眠りと共にアンドレアルも力を失いつつあるようだな」

 ロウドローラはティモの机に歩み、煙草を一本摘んだ。貰って良いかなという問いに、ティモは如何様にもと答えた。

「何れにせよ、楽観できぬ状況という訳だ。私もここに待機しよう」

 

 

 コーデリアが古本屋の近辺にまで戻った頃、既に陽は落ちていた。

 暗い夜道も闇もコーデリアの瞳から姿を隠すことはできない。目も耳も自己を中心に足元から世界に、正しく蜘蛛の巣を張るように周囲へと意識を散会している。

 戦いの時は近い。

 もはや習慣となったように耳を澄まし、町中から会話を拾い上げる。そう大した情報はないだろうが、一つ確認したいこともあった。

 大樹の精霊剣、御中桜。

 強力な力を持っているようだが何処かでブレーキが掛けられている。味方に付けることができるのなら、その力を解放してやりたいものだ。

「コーデリア」

 声を掛けられ振り返った。

「紫苑さん。…と、そちらの方はお初ですね。私、紫苑さんの家に居候させて頂いているコーデリアと申します」

 紺野の名前は知っているが、コーデリアは余計な事は言わなかった。紺野の表情が余り穏やかではないことに気付いたからだ。

 コーデリアも敢えて、いつもの友好的な笑顔は出さなかった。

「おじさん、何、居候って。誰、このコ? 女の子じゃん」

「…いや、仕事仲間だ」

 コーデリアから見ても、紫苑が答えに窮したのが分かった。紺野はコーデリアに突っ掛かってくる。

「どういうことよ。おじさんはなにも説明してくれないわ。あなた、なにか知ってるなら教えてよ」

「紫苑さんがおしゃべりにならないなら私の言うことじゃないでしょう? 二十ん〜歳にもなって、弁えが足りないのは美徳とは言えなくてよ?」

 悪態を付くコーデリアに紺野は目を細めた。

 紫苑は紺野から解放されて助かったのか、勝手にすたすたと古本屋に向かって歩いていってしまった。

「言いたい放題言ってくれるじゃない? 私になにか恨みでもあるの?」

 コーデリアは一笑し、紫苑の後に続いた。

「いいえ。だけど、わざわざ争い事に首を突っ込むのは心得の足りない証よ。なにも血の気の多い道をその必要もなく選ぶことはない、と私は貴女に言いたいわ」

「それこそこっちの台詞よ。あんた何者か知らないけど人間でしょう? 妖魔の揉め事に関わるなんてどうかしてる」

「退屈ですから。これも一つの享楽になるのなら悪くはないでしょう」

 にこりと笑い、小馬鹿にしたように言ってやると紺野の心拍数が僅かに上がった。コーデリアの耳はそれを逃さなかった。紺野は怒りを覚えているのだろう。

 ――ティモにも享楽故、戦いに参加していいと言った。

 半分は本当だけど、半分は嘘だ。

 決着を付けなければならない魔術師がいる。あの女もコーデリアを捜しているだろう。だからこそ、無償に近い報酬で戦に雇われもする。戦という舞台でなら敵として、味方として遭遇することもあるだろう。

「嘘ね」

 紺野はそう言った。心拍数が元に戻っている。

「享楽だけで生きるコをおじさんは傍に置いたりはしない」

「そうかもね」

「でも、私はあんたみたいな、スレて生きてるコなんか嫌い。生気が感じられない」

「生気とか。さすがセムの女性の仰る言葉は違うよね」

 揚げ足を取ってやると、また紺野の心拍数が上がるのが分かった。

 会う前から分かっていたことだが、どうも彼女とは仲良くする気にはなれない。対人関係も難しいものだな、とコーデリアは思った。

 奥の部屋で一息ついたあと、紫苑が思い出したようにコーデリアに話し掛けた。

「コーデリア。神剣持ちのガキがいただろ」

「ええ。さっきまでいっしょだったわ」

 紅茶のカップを置いて紫苑を見ると、紺野も同じように紫苑の方を見ていた。ずいぶんと興味深そうに話を聞いているので、コーデリアは少しおかしくなって笑った。

「ちょうどいい。今どこにいるか探してくれ」

「探せばいいのね」

 紫苑の返事を待たずに、コーデリアは目を閉じた。

 聴覚に意識をあわせると、街中の音が聞こえる。夜とはいえ、まだ人々は自宅で起きて活動している時間だ。雑音を掻き分け、目的の音を探す。

 そして、聞き覚えのある少女の声が、コーデリアの耳に入った。

 

――おい。

 

――そろそろ、目を覚まさぬか。もう日が落ちてしもうたぞ。

 

 声はさきほど鬼と戦った裏路地から聞こえた。まだ気絶していたらしい。大樹のうめき声が聞こえ、今気がついたとわかった。

「情報屋がいる裏路地の近くね。近くまで行けば聖剣の神気で嫌でもわかると思うわ」

 それを聞くと、紫苑は黙って立ち上がり部屋を出て行った。紺野もあわてて置いてあったベストを着込んで後に続く。

「お出かけ?」

 紺野に声をかけるが、返事は無く少し睨まれただけだった。ずいぶんと嫌われてしまったらしい。コーデリアは苦笑した。

 誰もいなくなった部屋で、コーデリアは残った紅茶を飲み干して立ち上がった。自分も紫苑に用事があったのだが、明日でもいいだろう。今日の戦闘で全身ががたついてしょうがないし、そんな状態ではろくなことにはならない。

メンテナンスは出来ないが、眠るだけでもずいぶんと回復するので無理をするよりかはましだし、敵が何者であれどうせまたやってくるだろう。

とにかく今コーデリアに出来ることは、寝ることだと考えた。

 

「俺たちセムは他の妖魔と違い、耐久力は期待できない」

 路地に続く道を紫苑は早足で歩く。人通りはなく狭く暗い道を、紺野は遅れないようになんとかついていく。

 かすかに残る金色の神気が次第に濃くなって、到着が間近だとわかった。

 歩きながら、紫苑は紺野に特訓についての注意点を述べはじめた。

「非力さは戦術でカバーできるが、防御は一発殴られたら終わりだと思え。俺の場合は距離をとって飛び道具で仕掛けるか、不意打ちを基本としているが、人にはそれぞれ特徴に合った戦い方がある」

 紫苑の足が遅くなった。それにあわせて紺野も速度を落とす。暗がりの中、うっすらと白い生気が見えた。

「今回の相手は攻撃を喰らうと、並みの妖魔なら塵に還されるだろう。逆に耐久力はただの人間だ。護身法すら使っていない」

 護身法。たしか退魔士が使う身体強化の術だ。紺野は聞き逃さないように、紫苑の横に並んだ。

「攻撃を喰らわず、相手に攻撃を与える。練習にはもってこいの相手ということだ」

「でも、本気じゃないのよね」

 紺野が覗き込むように言うと、紫苑はちらりとこちらを見て、何を当然のことをというように答えた。

「そう考えるのは勝手だ。だが、少なくとも俺のときは滅する気らしかったがな」

 何気ない言い方だったが、紺野は息を飲んで立ち止まった。

「……殺し合いしろって言うの?」

 今まで、悪鬼妖魔を相手の訓練はしていたし、何度か戦ったこともあったが、紺野は人間相手の戦闘はしたことがなかった。退魔士に狙われたこともないし、そもそも自分を人間だと考えている紺野は、そこらの人間以上に人を傷つけること嫌っていた。自分の敵はあくまで他の妖魔だけだと思っていたのだ。

 もちろん想像していなかったわけではない。いずれ退魔士と戦うこともあると覚悟はしていたのだが、どこかでそうはならないと期待していたのかもしれない。

 だからこそ、紺野の困惑は大きかった。

 紫苑は足を止めず、先を歩く神剣持ちという男のほうへと近付いてゆく。目が慣れると、それが高校生くらいの少年だということも分かった。

「殺す殺さないは今回重要ではない。あくまで戦闘における攻め方の訓練だからな。しかし相手は本気で向かってくるだろう。こういうことは実戦で学ぶのが一番早い」

 わりきれないという風に、紺野が呟きながら後をついていくと、さすがに尾行しているのが分かったのか少年は振り返った。紫苑の顔見ると、少年はひどく驚いた表情を見せた。

「お前は――」

「浦賀大樹といったな。コーデリアから話は聞いた」

 紫苑が言うと、大樹はすぐに間合いをとり木刀を構える。

「やっぱり仲間だったのか。危うくだまされるところだった」

「早まるな。コーデリアとは手を組んでいるだけだ。それに今回の相手はこっちがする」

 いきなり背中を押され、紺野はつんのめるように紫苑の前に立たされた。大樹は油断なく切っ先を向けたまま、夜目を凝らして紺野を観察した。

「冗談だろ……俺は女を殴る趣味はないぞ」

「わらわで殴りつけるのは平気だとういのにか?」

 木刀の神気が増し、女性の声が聞こえた。どうやらあれが神剣らしいと紺野は身を固くした。

「お前は精霊なんだろ? 別の話じゃねえか」

「そうやって差別するのはよくないと思うぞ」

 非難がましく精霊はいうが、大樹は無視をした。ずいぶん想像していた神剣持ちのイメージと違うが、紫苑が言うとおり必殺の力を秘めていることは、その神気でわかった。

 どうやら相手も乗り気ではないらしいし、話し合えばなんとか殺し合いなどせず、普通に特訓の相手をしてくれるのではないかと思ったが、紺野の甘い考えは紫苑がきっちり打ち砕いた。

「この女は、先程三人ほど食ったところだ」

 その言葉で、大樹の表情がすっと暗くなる。

「俺たちセムは人の肉を喰らい血をすすり、その生気を摂取しなければ生きられないからな。特にこいつは意地汚く、無害な女のふりをして獲物を殺すのが得意だ」

「ちょ、おじさん!」

 紺野の静止も聞かず、紫苑は続ける。

「今日はまだ喰い足りないといわれてな。戦闘の訓練がてらお前の生気もいただこうと思って連れてきた」

 紺野は完全に動転してしまい、紫苑が何を言っているのか完全には理解できなかった。だが、大樹の舌打ちが聞こえ、この嘘で相手が本気になったということだけは、どうにか感じることができた。

「遠慮は、いらねえってわけか」

 大樹の構えが引き締まり、全身から隙が消えていく。

「何が怖いかと言うて、女の妖魔が一番怖いと教えもあるのう」

 木刀の精霊も、いっそう神気が増したように感じる。遠く離れていても、肌を焼くような感覚が襲ってくる。

 紫苑の助言だけではぴんとこなかったが、確かに目の前にいる少年は、妖魔を一撃で塵に還す力を持っている。紺野には、こんな相手とやりあったことはもちろんないし、見たことすらない。攻撃力だけでは、紫苑をはるかに上回っているのではないかとすら感じた。

「大丈夫だ。注意すべきは木刀だけだからな。他の攻撃は魔力すら帯びていない」

 紫苑が小声で助言をしてくれるが、命綱無しで綱渡りをしろと言われた様なものだ。大丈夫。注意するのは落ちたときだけだ。ロープから落ちなければいい。落ちたら即死だがな。

 紺野には、紫苑が自分に死ねといっているようにも聞こえた。

 じりじりと間合いを計りながら、大樹は打撃の間合いを詰めてくる。

 説得しなければ。紺野の頭に真っ先に浮かんだのはそれだった。

「私は殺し合いなんてする気はなくて……」

「一方的な捕食がお好みってわけか?」

 問答無用というように、紺野の言い訳は切って捨てられた。

 紺野は、さすがにこれ以上何を言っても無駄なのだと観念した。相手は人間で、こっちは化け物だ。ならせめて、殺さないように相手を倒すしかない。

 すこし胸が痛んだが、懸命にそれを押し殺すと紺野は身構えた。これは訓練だ。あとで説明すれば彼もわかってくれるかもしれない。

 そう考えると紺野の思考は切り替わった。できる限りダメージを与えず、なおかつ最速で相手を行動不能にする。動きのイメージはすぐに構築され、血液を伝い全身に指令を送った。

 だいじょうぶ。私にはできる。

 紫苑に教わったとおり、とにかく相手を冷静に観察することに務めた。

 無駄なく鍛えられた体。隙のない構え。人間としては強い部類にはいる使い手だ。

 だが、悪鬼妖魔といった人外の敵を相手にするには、人間の基本的な身体能力では圧倒的に不足している。下級妖魔のセムの、さらに弱い部類の紺野ですら、充分渡り合える相手に見えた。

 そのことは大樹自身も自覚しているのであろう。いきなり斬りかかって来るようなことはせず、こちらの出方をうかがっている。

 ぞんざいな物言いとは裏腹に、大樹が知恵のある相手であると紺野は判断した。

「どうした? 腹がいっぱいで動けないのか?」

 大樹が言う。あからさまな挑発だとわかっていても、言われたくない部分を突かれ、紺野は視界が暗くなるのを感じた。

 だめだ。冷静に。

 何か言い返そうと思ったが、何を言っても後で自己嫌悪に陥りそうだったので、とにかく大樹を睨みつけるだけにした。

 唇を曲げ、馬鹿にしたように大樹は嘲笑した。

 気がついたときには、迂闊にも紺野は走り出していた。

 拳を握り締め疾り全力で振りぬく。

 人間業を超えた高速の一撃は、しかし大樹には当たらなかった。正面からの馬鹿正直な攻撃だ。もちろん予測していた大樹は、流れた腕を狙った。

「片腕ぇ!」

 即座に前に転がり、木刀をかわす。頭の上を横一文字に斬撃が通り過ぎ、焼けるような焦げ臭い匂いと音が聞こえた。

 確認もせず一気に間合いを離すと、紺野は再び大樹に向き直った。

「ち。もらったと思ったのにな」

「甘い甘い。お主は詰めが甘いところがあるのではないか?」

 大樹はすでにもとの構えに戻っている。

 髪を少しかすったらしかった。わりと丁寧にトリートメントしているのに、と悲しくなったが、そう考えられるだけでもマシなのだと思い直す。一歩間違えば首が飛んでいた。

 先の一瞬で紺野は理解した。大樹の神剣はただの木刀ではない。普段は打撃武器だが、妖魔相手には凄まじい切れ味を発揮するのだ。

 紺野の背筋に冷たい汗が流れる。動きづらいと判断してベストを脱ぎ捨てた。

 ふいに、大樹の構えが変わった。剣先を下げ、紺野の膝の位置に止める。下段の構えだ。

 大樹のほうも紺野の戦闘力を見切ったのだろう。セムにしては弱すぎる紺野を、勝てる相手と判断したようだった。

 だが、どちらも動かない。互いに耐久力はなく、ダメージは即、死につながる危険があるからだ。

 極端な性能だが、紺野には大樹が自分に似ているように思えた。実際は知らないが、少なくとも戦闘スタイルは似ていると思う。

 だからこそ、互いに一撃狙い、先の先。後の先。動けば次の瞬間には紺野が塵と化すか、大樹の首が千切れ飛ぶか。

 しかも紺野は相手を殺さずに倒さなければならない。そんなことができるのは、相手とよほど実力差があるか、運良く急所が外れるかしかない。

 紺野は運に頼ることは考えられなかった。そんなことでは強くなれないし、紫苑に迷惑をかけ続けることになるだろう。

 紫苑に習った技を思い出す。うまくいくとすれば、無刀取りか。武器を無くせばさすがに大樹も不利を悟るだろうし、それからなら気絶させることもできる。

 だが、

 紙一重で相手の剣を避け、木刀を持った腕を取る。そのまま背負いで地面に叩きつけ、腕をねじり木刀を落とす。隙を与えず大樹の届かないところに木刀を蹴り飛ばす。

 それを、一息にこなす。

 どれもが今の紺野の限界を超えた動きだった。だが、他に紺野に残された技はない。それに限界を超えるくらいでないと、強くなれない。

 紺野は体の力を抜き、大きく息を吐いた。神経を研ぎ澄まし、清んだ湖面のように相手を見据える。

 覚悟は、決まった。

「三人も食っといて……でっけー腹の音だな」

 大樹が呆れたことで言う。

「え?」

 紺野は恥ずかしそうに声を出し、すぐに腹に力を入れた。昨日の晩から一食も取っていないことを思い出し、気が重くなった。最近ろくなことがない。

 一度だけ、紺野は紫苑に目をやった。彼は紺野ではなく、木刀を持った大樹の何かを探るように見ている。冷たいな、こっち見て心配してよ。内心、少しだけ落ち込み、イライラし始めた。

 寝起きのせいだろうか。意識があっちこっちに飛ぶ。軽く深呼吸をし、紺野は足下にある石を確認した。その場にあるものを生かして紫苑は闘っていた。こちらに獲物がない以上、使えるものは使った方が良いだろう。少々せこいが、間違えて相手を殺すよりはましだ。

 紺野が右にステップし、さらに左に跳ねた。徐々にスピードを上げ、人間の大樹には残像すら捉えられなくなるまでそれを繰り返した。治療を受けたばかりの骨が痛む。

 紺野はステップをしつつ、大樹の左側の壁に目がけて石を蹴った。あえて石より遅れて紺野が、大樹の左側に回る。

 石が壁にぶつかり、大きな音がした。音に遅れ、紺野が走り出す。石に気を取られ、大樹の動きが遅れる。

 紺野は木刀を持った腕を掴み、大樹の懐に潜り込む。相手の身体を背に乗せ、背負い投げをした。地面に打ち付けられた大樹は苦悶を漏らし、木刀を落とす。

「甘いのぅ」

「え?」

 突如現れた古風な麻の衣を着た少女に驚き、紺野はその場を飛び退いたが遅かった。少女の発する神気の光が体中に突き刺さり、夥しく血が溢れ出した。

 紺野は吹き飛ばされ、動かなくなる。

「うまくいったか……?」

「まだまだじゃ。手を離すタイミングが遅いぞ。ほれ見ろ。深手は負わせたが、トドメを刺せなかったではないか」

 むせている大樹に少女が小言を返す。

「仕方ねえだろ、あいつが早過ぎんだよ」

「なんと情けない……そもそもお前が石なんぞに気を取られなかったら、一人で勝てたのじゃぞ」

「それ一番可能性が薄かったやり方だろうが。こんなもんだよ、人間だぞ俺は」

 少女の身体が木刀に変化した。木刀を拾い、大樹は気を失っている紺野を一瞥し、紫苑を睨んだ。

「早く、こいつをどうにかしてやれ。このままじゃ死ぬぜ」

「慈悲深いな。殺すつもりじゃなかったのか?」

「てめえが嘘ついたことくらい、分からねえと思うか? このゲス野郎が」

 大樹は忌々しそうに舌打ちをする。

 紫苑は紺野を心配する様子もなく、面白そうに口元に笑みを浮かべている。

「この女、最近人間食ってねえだろ? 顔色悪いわ、豪快に腹の音鳴らすわ、動くだけで苦しそうにしやがるわで、さっきからなんかおかしいと思ってたんだ。他には、そうだな……ツメをあんまり伸ばしてねえよな、この女。女の化けもんは、ツメで人を切り刻む奴が多いのは常識だろ?」

「なかなかの検眼だな」

 感心したのか、紫苑が頷く。

「褒められても嬉かねぇな。てめえ、何のつもりだ?」

「何のつもりとは?」

「何のために俺に近付いてきたんだ?」

「お前と『御中桜』の精殿の実力を見させてもらおうと思ってな。こいつ、ああ、名前は紺野というんだが、彼女は人殺しも人食いもしない主義でな、一戦交えさせて……」

「しゃべんな」

 大樹が上段の構えを取り、怒りを露わにした。

「てめえ、嘘つきだからよ。あの女が人食いしねえかするのか知らねぇが、一つ分かんのは、ゲスのお前だけは殴らねえと気が済まねぇ、ってことだ」

「……そうじゃな」

 木刀が、紺野とときとは比にならない神気を大量に放出した。紫苑はそんな大樹を無視して紺野を背負い、逃走を始めた。

「どこいきやがんだ!」

 大樹が木刀を振る。神気が具現化し、刃となって飛んだ。紫苑はそれを避け、立ち止まった。

「そんなことが出来るとは、ますます期待できるな。腕を磨け、もっと強くなれ」

 大樹が忌々しく舌打ちをする。恐ろしいスピードで小さくなっていく紫苑の背中に、もう一度大樹は叫んだ。

 

 

 大樹は大股で歩き、不機嫌そうに不平を垂らしていた。道行く者は皆、関わり合わないようにと、道を空ける。

「ええい、いつまでもうるさい! まあ、確かにあの男はいけ好かんかったがのぅ」

 一回も殴れなかったのが不満でしかたがない。全てを知っているような態度が気にくわない。他者をコマのように扱うのが許せない。イライラは募るばかりだ。

「大樹、さっきのあれじゃが」

 ミナが思い出したように言う。

「さっきのあれってなんだ?」

「神気を刃にして放っておったろう。いつの間にあんな芸当が出来るようになった?」

 指摘されれば気付いたが、その通りだ。今まではミナが能力を使っていたのであって、大樹が扱っていたわけではない。

「あれ、ミナの神気だよな?」

「無論そうじゃ。だが、わらわの力を大樹が操っていたぞ。わらわは何もしておらん」

 つまり、大樹がミナの神気を扱えるようになったということか。大樹は人気のない場所に入り、竹刀袋の紐を解いてミナを外に出した。

「もう一回やってみるわ。ミナ何もすんじゃねえぞ」

「分かっておるわい。しかし……ふむふむ、なるほどのぅ。これもわらわの教育の成果じゃな。この調子で徳も身に付けば文句はないが」

 大樹は舌打ちをする。

 目を閉じ、さっきの感覚を思い出しつつ、居合い抜きをしてみた。

 何も起きなかった。

 大樹はもう一度試してみたが結果は同じだった。

「……なんでだ?」

「こら、よーくさっきの感覚を思い出さんかい」

「やってる」

 空しく木刀は空を切るだけで何も生まれなかった。

「一体なんだったんだ……?」

 呟いた瞬間、異様な気配を察知し、大樹は振り返って身構えた。

 

 

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