-デイブレイク-
二 一度捨てた命。
粗末な衣類を着た少女は汚い建物と建物の間から天を見上げた。
今日も名古屋の空は曇っている。湿気漂い、悪臭立ち込める路地裏に少女は壁を背に座り、ぼうっと天を見上げていた。疲れた。
なにも考えないでただ風に吹かれている時は幸せだ。煩わしい現実を忘れ、空想の世界に浸ることもできる。ここなら大通りの喧騒も騒々しくは聞こえない。
だけどそんな彼女の安住の地にメガネの男は土足で踏み込んできた。
「これはこれは。アンドレアルの姫君がこのようなゴミだらけの所にお住まいとはねえ。探しましたよ」
アンドレアルの名を出した下級妖魔を少女は睨み付けた。
「不愉快よ。失せなさい下種」
「没落しても腐っても心は高貴ですな。いや結構。その心こそがニンゲンでありながら、今日まで我々悪鬼妖魔と対等に話ができた秘密なのですねえ」
「汚い言葉をこれ以上聞きたくない。三言目はないわ。消えなさい」
ティモは肩を竦めた。
代々に伝わる秘術を用い強化兵として肉体を極限まで精錬し、時には妖魔と戦い、また時には妖魔と手を取り戦い抜いてきたアンドレアル家。たとえ没落しようとも、その個人戦闘能力は未だ尚衰えない。姫から放たれる闘気は研がれた刀のようにティモへと突き刺さる。
「どうやらお機嫌が斜めのご様子。非礼は詫びましょう。今日は姫にお願いがあり参上仕りました」
「貴方のような下種の発言でも万が一有益という可能性もあるかもね。聞いてあげましょう」
恭しく頭を床に擦り付け、蛇面のティモは更に目を細めた。
「この男、ご存知でしょうかねえ」
ティモが差し出したのは 痩せ過ぎた男の写真だった。
「知ってるわ。セムの織戸紫苑でしょう。群れることを好まず、単独でも決して低くない戦闘能力を持つ吸血妖魔。雑種であり、在野の妖魔でありながらその潜在能力は君主クラスに匹敵するとかいう噂も聞いたことがあるわ」
「そう。その瀬戸紫苑にある調査を依頼しましてねえ。毒についての調査なんですがねえ」
「毒?」
「この世界に少しずつ、音もなく侵食してくる毒のことです。我々悪鬼妖魔も、貴女達ニンゲンも、動物も植物もなにもかもを死滅させる毒でございます」
少女は一笑した。
「それで? 私への用件はなにかしら」
「聞いていただけるので?」
「気が変わらないうちにどうぞ」
ティモは頭を下げていた故、ずれたメガネを指で上げにっと笑った。
「この男に力をお貸しください」
「瀬戸紫苑が私のようなニンゲンの力を欲するかしら」
「それが有意義ならば」
「面白そうね」
「面白いですぞ」
「本当に面白い?」
「面白いですぞ」
アンドレアルの姫――コーデリアは頷いた。そして立ち上がった。
「いいわ。どうせ一度は捨てた命よ。享楽に身を任せるのも悪くない。行ってくる」
瑣末な夢の居城をコーデリアは後にした。
この名古屋の裏通りはコーデリアの安住の地だ。いつか必ず帰ってくる。そう約束し、彼女は孤高のセムに会う為立ち上がった。
今日も今日とて、細いセムの男は暗い部屋でパソコンと向かい合う。マウスを転がす。
最近では人間の作った道具は目を見張るものがある。近頃は遂には宇宙へも飛び立ち始めた。まったくもって驚かされる。中世の頃より悪鬼妖魔は化け物と慄かれもしたが、いつしかこのパワーバランスも完全に逆転する時も来るだろう。
「紫苑さんー?」
コンビニ店員の甥は紫苑を慕い、あれからも身の回りの手伝いをしてくれている。騒々しいが役には立つ。だから置いてやることにしたのだ。
「どうした」
「ティモの消息が途絶えました」
「最後に確認したのはいつだ?」
「アンドレアルの姫、コーデリアとの密談を目撃したとの情報が入っております」
紫苑の繭がぴくりと動いた。
「コーデリア?」
「ニンゲンの分際で我々妖魔と対等のクチを聞く生意気な家系の小娘ですよ」
「それは知っている。ティモが彼女に会ったのか?」
「確認は取れていませんが、恐らく」
不意に呼び鈴が鳴った。インターフォンだ。どうやら客人が来たらしい。
「俺が出ますよ。はいはい、もしもしどなたですか?」
客と応対した甥は顔を顰めた。
「誰だ?」
「コーデリアと言ってます」
「また早いお出ましだな。通せ」
甥は気乗りしない様子で玄関へと向かった。「なんでニンゲンを…」などとぼやいてる姿を見、紫苑はやれやれと溜息を吐いた。
間もなく、甥は粗末な衣類を身にした人間の少女を連れ現れた。噂には聞いていたが、実際に目にするのはこれが初めてだった。穢れた衣類を着つつもその瞳は気品と誇りを今でも持っていた。
「こんにちは。いきなりの来訪失礼。お目に掛かるのはお初かな。コーデリアです」
「いや。何用かな」
「腰を掛けても良いかしら」
コーデリアはちらりと椅子に目をやり、つまらなそうに紫苑の甥に目をやり、そして溜め息を吐いた。
「なんだニンゲン! その態度は! 喰うぞ? 紫苑さん、こいつナマイキです!」
コーデリアの喉元に甥は手を伸ばす。彼女はその手を無作為に払った。
「汚い手で触らないで。下級妖魔が」
「この! ニンゲンの! 小娘の! クセに!」
「やめておけ」
紫苑が制したが、頭に血の昇った甥を治めることはできなかった。
少女を頭から丸齧りしようと、甥は人外の大口を開け、少女に襲い掛かった。
コーデリアの目は冷たい。
彼女は一つ息を吸い、そして吐き、無防備に襲ってきた甥の鼻っ面に必殺のカウンターを叩き込んだ。音速の拳が顔面に減り込み、甥は吹っ飛ぶ。
悲鳴を上げ、派手な音を立て、甥は家具を撒き散らして床に転がった。そして殴られた顔面を両手で押さえのた打ち回った。
「こちらも客の立場だから加減はしました。あなたも大事な甥を目の前で殺されては、友好的な態度ではいられないでしょう?」
「どうして甥だと知っているんだ?」
「さっきここに来る途中から貴方達の会話は聞こえていました。丁度私の話もしていたようですし、せっかくなのでお邪魔しました」
「それはまた随分と良い聴覚をお持ちのようだな」
「私、耳がいいのが自慢なの」
「それも強化兵の能力なのかな」
「おかげで町にいるだけでつまらない会話が聞こえすぎてしまうわ」
「いや、なかなか羨ましい能力だ。我々悪鬼妖魔に匹敵するニンゲンの強化兵という肩書き、伊達ではないようだな」
コーデリアはありがとう、と微笑んだ。なるほど、笑えば華のある少女だ。これもこの優雅な雰囲気が醸し出す能力かもしれないな、と紫苑は思った。
「して何用かな」
「下級妖魔に会ったわ」
「ティモか?」
「なんだったかな。あなたと手を組んで欲しい、とか言ってたわ」
「毒の調査か?」
「そうそれ。私なんかが役に立つ件かどうかは知らないけどね」
それは謙遜だ。紫苑は彼女の能力の多くは知らないが、例えば今聞いた強力な聴覚一つをとっても情報収集という役に於いてはこれ以上ない力となってくれるだろう。
「あなたが私をここに置いてくれるというなら、私は今回の依頼を受けるつもりだけどどうかな」
「では俺からも協力を願おう」
「ありがとう」
コーデリアはにこりと笑う。だけどすぐ険しい表情になって玄関を睨んだ。紫苑も気付いている。
玄関の外に誰かいる。その客は呼び鈴も鳴らさずに中の様子を伺っているようだ。
「今日は客の多い日だな」
嘆息染みた紫苑の言葉に、コーデリアは返した。
「人数は一人。ニンゲンの男、十八歳前後。木刀かなにかかな、武器を持ってる。ただの武器じゃないわ。聖剣クラスのエネルギーを感じる」
「よくわかるな」
「足音、呼吸音、所持品と身体の摩擦音とか、からね。偽装音の可能性もないとは言わないけど」
木刀を持った青年。
玄関の外では狂犬のような男がセムと強化兵の溜まり場に今まさに襲い掛からんと構えていた。