- 世界の底辺 -
G章 最後の戦い。
「塔、いつごろ完成するのかな…」
ひなたは近くの丘に座り、普段自分達の住む塔を見上げた。
「―――――」
もう塔の頂は肉眼では見えない。見えない程高く伸びた。
レイチェルは世界中のニンゲンを奴隷にし、塔を工事させた。
ひなたが投げ捨てた銅の剣を使い高く、高く、塔を伸ばし続けた。労働力としてニンゲンを使用する事は悪者のようだと、ひなたは自分で思った。
悪者は勇者に退治される。
「―――っ」
頭を振り、不吉な予感を追い払った。
――――脳みそがずきずきと痛む。
まるで『銅の剣』を手に入れた過ぎた反動のように。
「――ひなた？」
声を掛けられ、ひなたはどきりとした。秋田だった。
「そろそろ塔が完成しますね」
「あとどれくらい？」
「あと一時間くらいでしょうか」
もうすぐ銅の剣で創られた塔が完成する。
これで上の世界へと進める。だけど、そうすんなり行けると思えなかった。昇ればもう戻れない気がした。
「秋田さん」
「はい？」
「秋田さんは上の世界から来たの？」
「そうらしいです。記憶はありませんが、この塔を見ていると不思議な気持ちになってきます」
「どんな気持ち？」
秋田は少し考え、言葉を口にした。
「……絶望、でしょうか」
「――――」
ひなたは一度だけ見たことがあった。
秋田やノワールの生まれた世界。あの白く、なにもない景色がアバターの生まれた場所だと思うと悲しくなった。
「キス、されたのですか？」
「――――」
あの女のことを思い出した。
あの女は必ず邪魔をしてくる。あの女にされたことを思い出し、吐き気を覚えた。藍那以外とキスをしたという事実が、ひなたの心を蝕んだ。
ぽんっと秋田に頭を叩かれた。
「ひなた。私が言うのもなんですが、憎悪に流されてはいけません」
「――？」
「あの女とのキスなど、大事の前の小事でしょう。ひなたにはもっと明確な目的がある筈です。キスで苦しむのも、全ては藍那とひなたの所為でしょう？」
「―――っ！」
秋田にそう言われ、心臓がずきりと痛んだ。
秋田の顔はひなたが見捨てた誰かの顔と同じ。その顔に藍那とひなたが悪いとはっきりと言われ、胸が苦しくなった。その子には同情と後悔を覚えていた。涙さえ流れそうになったが、泣く資格なんて何処にもなかった。だから耐えた。
ぎゅっと秋田は抱き締めてくれた。
あの子と同じ顔で、ひなたを抱き締めてくれた。ひなたの心の歯車は止まっていた。時間が流れていない。『ギザギザ』と歯車は形が似ていたけれど、全く別のものだった。
「もう疲れたでしょう？」
「…うん」
「憎悪の目的なんて、喩え達成したところでその先は続かない」
「……うん、知ってる」
「なにもかも忘れ、楽になりたいですか？」
何度もその甘い誘惑に唆されそうになった。藍那のことなど、なかったことにすれば楽になれた。だけど、アイデンティティになりつつある憎悪を放棄してまで楽にはなりたくなかった。
「なりたくないのですね。楽には」
「苦しみは地獄まで背負っていくって決めたんだ…」
「不器用ですね、ひなたは」
また頭をぽんと撫でられた。そういった秋田の仕草はまるで生きていた時のあの子のようだった。
「この身体の本来の主はひなたを憎んでいました」
「うん…」
「ですが同時に愛してもいました」
「うん……」
大切な女の子だった。大切な女の子だったからこそ、罪悪感も大きかった。
「ね、秋田さん」
「はい？」
「行こ。塔がそろそろ完成するよ」
「――ひなた」
立ち上がったひなたの腕を秋田はぐっと掴んだ。
「秋田さん？」
「……誓います。必ずあなたに望みを果たさせると。その行き着く先が地獄であろうとも、お供させて頂きます」
「どうしてそこまで言ってくれるの？ アバターだから？」
「氷雨さんやレイチェルさんと同じです。なんとかしてあげたいと思うのでしょうね」
真っ直ぐに言う秋田にひなたは少し照れてしまった。それでも「ありがとう」とは言えた。
「行こ、みんなもう集まってるよ」
ひなた、氷雨、レイチェルの三人は間もなく完成する塔を地上から見上げた。
遂にここまで来た。
塔の頂は雲よりも、宇宙よりも、星よりも更に高い所まで伸びている。この塔が完成し、最上階まで行けば上の世界へと辿り着ける。
そこでなにをするのか。
藍那がどうやって上の世界に行ったのかは知らない。ただ、そこにいるのなら捕まえて嬲る。そのためだけに辛きに耐え、苦しきに耐えた。如何なる苦しみとて、最後に勝てば全ては過去の楽しい苦労話になる。勝ちさえすれば、黒い物も白くなる。
「みなさん、よく聞いてください」
レイチェルが皆の前に出て説明を始めた。
「一階にエレベーターを取り付けています。『暗黒の儀式』と共にそれは起動します。そのエレベーターに乗り、最上階を目指せば上の世界へと昇ることができます」
――――＠＠＠＠＠＠＠
空気が震えた。ひなたは何事かと想い、震えの源に振り返った。
『＠＠＠＠＠＠＠＠＠＠＠＠＠』
奴隷達が歌っている。
レイチェルの指揮通りに歌っている。
「儀式を始めましょう。歌いましょう。踊りましょう。セーブはしましたか？ これが最後の戦いです。エレベーターを起動します」
空気の震えは地響きへと変わっていった。
『＠＠＠』
大地に残っていた僅かな植物が枯れていく。
奴隷達が歌いながら干乾びていく。地球全てのエネルギーがこのエレベーターへと回されているのだ。
地球はガイア。その生命が循環する様はガイアのプロペラのようであった。ギザギザや歯車が回るように、ガイアのプロペラも回り、周り、廻っていた。
銅の剣製のギアが回転し、塔が唸りを上げた。
「――――」
身体を竦ませたのは塔の震えだけではなかった。背後から決着をつけねばならない敵が現れたのだ。
三人の『誰か』が現れた。
秋田やノワールが戦いの構えを取るが、レイチェルがそれを止めた。
「膨大なエレベーターのエネルギーは維持ができません。すぐに使わなければ二度と上の世界へ行くことはできなくなるでしょう」
「逃げるのですか？」
「そうです。戦えば、私達は全滅する可能性があります。本来の歴史なら私達はその事実を知ることはなかったのでしょう。この知識も―――」
ひなたにはレイチェルの言いたいことが分かった。
この知識も銅の剣と同じく、『悪の華』に導かれ得たものなのだ。
「分かりました。あなたに従います」
「ありがとうございます。エレベーターの起動は一分後です。扉を閉め、この世界のルールの外に出てしまえば、彼らはもう追ってこれません」
レイチェルが目配せする。ひなたは９９本の銅の剣を装備した。
エレベーターまではアバターの速度なら二分で着く。背を見せたひなた達に『誰か』は確実に追い討ちを掛けてくるだろう。それをどれだけ迎撃できるのか。
「やりなさい！」
「―――！」
レイチェルの声と共にひなたは『誰か』達に向かって、装備していた銅の剣を一斉に投げつけた。
次の瞬間、ひなたの身体は強烈な力に持ち上げられた。秋田だ。秋田がひなたとレイチェルを抱え、エレベーターへと駆けていく。ノワールも氷雨を抱え、秋田の隣を走っている。
そのまま塔の中に突入する。エレベーターを目指し走る。
ひなたは後ろを見た。
亡霊のような、影のような『誰か』がぴったりと追い掛けてくる。
振り切れない。
この秋田を容易く追ってくる。秋田は二人もニンゲンを抱えているから、バランスが取りにくいのだ。
背後から迫る敵の剣が秋田を切り裂こうとする。
――その剣をレイチェルが撃ち落した。
ひなたは前を見た。
見えた。エレベーターだ。あの中に入り、扉を閉めさえすればこちらの勝ちだ。
ひなたは秋田に抱えられながら銅の剣を９９本装備し、投げ飛ばした、
（痛い）
新しく銅の剣を手に入れると、脳みそが鋭く、強く、激しく、絶望的に痛んだ。
投げた銅の剣は迫ってきた『誰か』に全弾が突き刺さり、死んだ。あと二人。だが、倒すまでもなく、エレベーターの中に入り込める。
「……このままエレベーターまで走ると、扉を閉める前に敵が一緒に入っちゃいますね。あわよくば辿り着くまでに敵を全滅させられるかと思いましたが、一人だけでしたか」
「どうするの？」
「秋田さん」
「はい？」
「ひなたさんだけを抱えてエレベーターへ向かってください。私には構わず、ノワールさんと氷雨さんと共に上の世界を目指してください」
ひなたは突然の言葉にうまく頭が回らなかった。
あのエレベーターは一度しか使えないし、なにより生身のニンゲンがあの『誰か』に勝てるはずもない。
朝食の時、レイチェルに抱きつかれキスされそうになったことを思い出した。どうして、それが最後の思い出のように突然蘇ったのか。
「駄目、レイチェルちゃん。それならボクも一緒にやるから。敵はあと二人なんだから、きっとすぐに倒せるよ」
「無理です。この敵は何人で掛かっても倒せない。普通のやり方をしていては、ね」
「え？」
「ひなたさん、これを」
レイチェルがひなたに差し出したのは、彼女がいつも身につけていた銃だった。
「私の大切な物です。壊れては困るので預かっていてください。いつか返してもらいに行くので大切に、ね」
ひなたは心臓がぞくりとした。
レイチェルがいなくなる。
氷雨もレイチェルも、もう誰かがいなくなるのは嫌だったのに、レイチェルが何処か遠くへ逝こうとしている。冷や汗がどっと噴き出した。
レイチェルと一緒にベリード・アライブの部屋で話し合ったことを思い出した。不吉だ。どうして、それを突然思い出したのか。
どうして、予知のように先のことが分かってしまったのか。
「絶対に駄目！ レイチェルちゃんが残るのなら…！ あ」
ひなたの顔にスプレーが吹き付けられた。意識が真っ白になっていく。
最後にレイチェルの言葉が聞こえた。
「私は必ず帰ってきます。上の世界で待っていてください。これは『約束』です」
約束なんてするものじゃない。
守れない約束ほど、残酷なものはない。藍那がひなたにした約束のように、ひなたがあの女の子にした約束のように、軽々しく口に出すものではないのだ。
悪しきチェーンはここで終わる。
不幸の手紙も
呪いの言葉も
悪魔のバトンも
壊れた歯車も
全てここで止まる。
「それでは秋田さん。ひなたさんのことはよろしくお願いします」
「ニンゲンのあなた一人でアレを食い止めるつもりなのですか？ 無謀です。それに私だってあなたを見捨てられない」
「見捨てるわけではありません。秋田さん達にはやらなければならないことがあります。適材適所です」
「勝算はあるのですか」
「あります。このまま立ち止まらず行ってください」
レイチェルは秋田から飛び降りた。
「―――――――！」
強烈な慣性の法則に身体を振り回され、転倒しそうになるのをレイチェルはなんとか踏み止まった。
すぐ目の前に、二人の『誰か』が迫ってくる。
レイチェルが足払いを掛けると、『誰か』達は派手に転倒した。
レイチェルは振り返った。
秋田とノワールは無事、エレベーターに辿り着けたようだ。扉を閉めるのを躊躇っていたようだが、レイチェルと目が合い、ようやく閉じてくれた。
エレベーターは動き出した。
これで彼らは上の世界へと行くことができる。
二人の『誰か』が起き上がった。
銃はひなたに預けた。どの道、この『誰か』はニンゲンが適う相手ではなかった。武器などあっても結果は変わらない。ならばひなたにあの銃は受け継いで欲しかった。
「＠＠＠＠＠」
誰でもあり、誰でもない『誰か』は唸り声を上げた。
『誰か』達と戦っていては必ずこちらが全滅する。だから『誰か』が行けない世界にひなた達を送り届けたかった。
エレベーターは敢えて一度しか使えないようにしておいた。だからもう、レイチェルを殺したところで、この敵はひなたを追いかけることができない。
これが最後に課した自分の役目だった。
望みのなかった自分が最後に見つけた目的が、ひなたと氷雨の幸福だった。
エレベーターは大気圏を突破し、地球から飛び抜けた。窓から見える星の海は、汚れた地上から見上げた時とは別物のように明るく輝き、閃いていた。
ひなたは地上を見下ろした。
ここには四人しかいない。ひなた、氷雨、秋田、ノワール。
レイチェルも一緒に行く筈だった。
だけど涙は流さなかった。レイチェルは必ずこの銃を取りに来ると言っていた。『約束』は『キャンセル』されない限り、いつまでも『有効』だった。
「ひなた君」
氷雨が俯いたまま、声を絞り出していた。
「また二人に戻っちゃったね」
氷雨は何処か精神が零れ落ちていた。顔に精気が感じられなかった。そういえば、氷雨の目的をひなたは知らない。
氷雨は完璧だった。
頭もいいし、可愛いし、ステキナコイビトまでいた。そこまで恵まれていてどうして陰鬱に陥ったのか。
聞いてみた。
「ひなた君には言わない」
また顔を横に背けられてしまった。
気まずい沈黙が室内を支配してしまった。重い空気はそれだけで心も希望も潰してしまいそうになる。
「ごめん、ひなた君」
「いいよ」
「ひなた君とはこれくらいの距離でいい…」
悲しい言葉だった。だけどひなたは氷雨を責めることはできなかった。ひなたはなんらかの形で氷雨を苦しめている。
―――藍那が頭に過ぎり、銅の剣が手に入り、また脳みそがずきずきと痛んだ。
ひなたは痛みを振り払うように、大きく深呼吸をした。
「――――」
痛みだらけの脳みそはもう限界が近かった。脳みそにヒビが入っている。完全に砕け散る前に目的を果たさないと。
ひなたは自分の掌を見つめた。
銅の剣を手に入れた。
ひなたは銅の剣をエレベーターから投げ捨てた。
この投げ捨てた銅の剣がレイチェルの助けになることを祈った。
頭上を見上げた。
エレベーターはぐんぐんと速度を増し、星の海の中を泳いでいく。まだ上の世界には辿り着かない。このまま宇宙の端にまで行き着いてしまいそうだった。
地球から続いた塔はまるで『線路』のようだ。その線路の上をエレベーターが走り抜ける。
アバター達は姿を消していた。
氷雨と二人っきりの時間が続いた。いつまでも上の世界には着かない。
時間の感覚が曖昧になる。レイチェルが時間を稼ぎ、エレベーターに乗ってから随分と時間が流れた。幾年もの月日が流れた気がした。
アバターを手にいれるよりもずっと前、藍那のことがあってから時間は壊れてしまった。一瞬は数億年であり、それすらも大きな流れの中では瞬き程の間に過ぎなかった。
窓から星の海を見ていた。
たくさんの星が生まれ、寿命を向かえ死んでいく。
レイチェル、純白。仲間との想い出は遠い過去のように色褪せていく。
宇宙が収縮していく。やがて塔を残し零になり、またそこから膨らんでいく。誰も救済されない世界が創られていく。
ひなたは頭上を見上げた。
明るい闇が見えた。真っ白で眩く、目を開けられない。眩しすぎてなにも見えない闇。そんな中にエレベーターが飛び込んだ。
「ひなた君」
久しく聞いていなかった氷雨の声が聞こえた。
「なに？」
「あたしはひなた君のように狂ったりはできない」
「うん」
「正直、ひなた君が理解できない。いつも何処かで半歩引いて見ていた」
氷雨は拒絶の言葉をよく口にする。
「でも、あたしはひなた君が好きだった。可能であるならば全部忘れて、幸せになって欲しかった」
「うん…」
「忘れちゃダメなの？ 藍那ちゃんのことを過去の思い出として、前に進めないの？」
「ごめん…」
氷雨が顔に影を落とした。
明るい闇の中でも、その影ははっきりと見えた。表情の影は灯りでは消すことはできなかったのだ。ひなたの影もそうだった。
眩い世界。窓の外は真っ白で、もう星の海も見えなかった。なにもない無の世界が広がっていた。上の世界が近づいている。そんな気がした。
「―――――」
なにもない無の世界のはずなのに、ひなたは虚空の先にあるなにかが気になった。ニンゲンの腐った臭いが漂ってきた。
――なにかよくないものがいる。
ひなたは凝視した。
あの女だ。
あの女が上の世界へは昇らせまいとし、立ちはだかっていた。
――――上の、上の世界には、いかせない。藍那ちゃんを、これ以上、追い詰め…。
もうすぐ、この整合性のない世界から突破できる。
だけど、それを最後まで邪魔するのだ。この女は。
ひなたは銅の剣を装備した。
この女には無理矢理キスをさせられた。ここでその恨みを晴らそうとした。
「待て」
ひなたを止めたのはノワールだった。
「ノワールさん？」
ひなたはノワールと個人的に親しくしたことはなかった。だけどいつも笑っていたこの男は、いつの頃か笑わなくなっていた。
初めてその顔をじっくりと見た。
この男の憎悪や悲しみ、笑いは全て自然のものではなかった。作られた不自然な感情だった。だからひなたとは根本的に違っていた。
「一時の感情に流されるな。君が拘らなければならない相手はあの女ではないだろう」
ひなたは素直に驚いた。ノワールの言葉は秋田と同じだった。
「君と秋田は上へ行き、この世界の秘密を解き明かせ。あの女は私と氷雨が受け持とう。それがここまで来た氷雨の望みだ」
ひなたは氷雨の顔を見た。
「…いいよ。やってあげる」
氷雨はそれ以上はなにも言わなかった。
黙ってエレベーターの扉を開けた。
最後にこう言っていた。
「さようなら、ひなた君。ひなた君は…」
サヨウナラ。
この世にそれ以上残酷な言葉はなかった。だからレイチェルは約束を守ると言っていたのだ。
「ひなた君はあたしの悩み、本当に分からなかった？」
氷雨の悩み。
最愛でないひなたのことをよく思ってくれていた氷雨。ひなたも氷雨に対し同じ感情を持っていた。ひなたと氷雨は似た者同士だった。
「ううん。なんとなく分かってた…」
ただ、それを口に出して言う資格がどこにもなかった。
「ありがとう。そこまで分かってくれたのも、やっぱりひなた君だけだよ」
氷雨は振り返り、ひなたの頬に口付けをした。
「ずるくてごめんね。言わなかった言葉はひなた君が考えて。よく考えて。じゃあね」
氷雨とノワールはエレベーターの扉から無の世界へと飛び立った。
前方から飛来するあの女と激しく衝突し、何処かへ流れていった。
「――――」
頬に付いた氷雨の唾液を拭きたくなかった。氷雨の匂いを取りたくなかった。
氷雨もひなたも不器用だった。もっと互いに器用に話せたのなら違う未来があったかもしれない。だけど、過去に『もしも』なんて言葉は使えなかった。過去は必然だった。
ノワールの言葉を思い出した。世界の秘密を解き明かせ。
氷雨は藍那と何処で知り合ったのか。考えるとまた脳みそが痛んだ。
もうエレベーターも見えない。
この無の世界には氷雨とノワール、そしてあの女の三人が浮かんでいるだけだった。
「なんや、あんたらは。うちはあの男の子の方を確実に殺したいねんけど…」
氷雨はノワールの影に隠れ身構えた。
「あたしね、あなたに聞きたいことがあったの」
「ん？」
「あなた、藍那ちゃんのなに？」
「友達やで」
「藍那ちゃん、いまなにしてるの？」
「寝とるよ」
なんとなく想像はついていた。この世界の秘密。壊れた世界こそが、 の心を表していた。
ここは に捨てられた世界だった。心を捨てた女の子がいた。
「あたし、あなたを傷つけたくない。そんなことしたら、またあの子が傷つくから」
「随分な口を聞くやんか。一人の『人間』の心の中で育ったニンゲンが、本物の『人間』に勝てると思ってるんか？」
「分かった。引かないのならもういい。ノワール」
黒い影の男が氷雨の前に現れた。
「ここは上の世界に近い場所やで。前みたいにはうまくいかんと思うけどな」
女が手を上げると、無の世界にヒカリが生まれた。
「この子の心はうちが守ってきた。もう誰にも荒らさせへんって決めてたのに。決めてたのに」
それは氷雨も同じだった。
だから、この女を傷つけるのは嫌だった。本来、傷つけるべき相手はひなただった。全ての引き金であるひなたを叩いておくべきだった。
だけど、ひなたを止め切れなかった。