- 世界の底辺 -
D章 悪の華。
まだ死ねない。
死ぬわけにはいかない。この呪いと憎悪を晴らすまでは死ねない。
だが、死なないための手段などなかったのだ。
「もう……殺すで? 時間もったいないし」
女が近寄ってくる。
ひなたは押されていく。どう粋がっても勝てないことは分かっている。
――秋田を思い出した。
「死にや♪」
女が飛び掛ってきた。
死にたくない。
―――あああああああああああああああああああああああ!
ひなたは銅の剣を『大量』に取り出した。
「―――な、なんやっ?」
絶対に勝てない敵に勝ちたかった。
通常なら負けてしまう戦闘に勝ちたかった。
――――悪の華。
喩え背徳と叩かれようと、喩え悪辣と罵られようと、喩え不埒と蔑まれようと、悪には悪の救世主が必要であり、種のまま死ぬ事は魂が許さない。
―――悪の華が開花する。
「あああああああああああああああああああああああ!」
身体中に沸いた感情全てが銅の剣だった。アイテム増殖の完全再現に成功し、銅の剣を無制限に増やし続け、敵に向かって一斉に投げ捨てた。
「こ、これ以上、その剣作るのやめ……! ほんまに取り返しのつかんことになるで!」
女は飛び掛かる銅の剣を全て打ち落とし、ひなたへと走り込む。
銅の剣が足りない。
「あああああああああああああ! あたらしく……」
新しく手に入れた99本の銅の剣を右翼に展開、手元から投げ捨てたことにより所持数が0になった銅の剣を再び99本まで増殖し、それらは左翼に展開。
そして手元から更なる銅の剣を限界まで増殖させ、計297本の銅の剣を女に向けて投げ捨てた。
「きゃあああああああああああああああああああ」
女は銅の剣にメッタ刺しにされた。
「こ……この……な、なめおってからに……」
「い、生きてる……?」
「あ、当たり前や。いくらいっぱい投げたかて、こんな弱っちい剣で殺されてたまるかっ」
「く…」
ひなたは先ほどの感情を制御、再現し銅の剣を手に入れ続けた。
(分かってきた………同じ感情を起こすと、同じ現象が再現できる……)
――悪の華の開花―――
銅の剣をなんの苦労もなく、入手し続け、女にぶつけ続けた。
「こ、こんな……うちが負けるわけないのに………な、なんでやねん……」
勝てる。
女はメッタ刺しにされて反撃もできない。このままハメ殺せると思った。
「や、やめや………し、質量保存の法則って……し、知らんのかいな……」
「知るもんか! やめたらボクが殺されるじゃん!」
「だ、だって、あんたは……い、生きてたらあかんねんから……」
生きていてはいけない。
生存を他人に否定されるこのモドカシサ。
ひなたは銅の剣を更に作り、女を刺し貫いた。
「はぁ…はぁ……」
無数の銅の剣は『ハリネズミボール』になった。女の身体の至る所を貫いているのだ。
「う…うぅ……」
女は呻き、その場から消えた。逃げたのだ。甲高い金属音を鳴らし、銅の剣が床に落ちた。
「はぁ…はぁ……」
死なずに済んだ。
だけど、いつ襲ってくるか分からない。秋田の所へ帰ろう。秋田には聞かなければならないことがある。
銅の剣を見て驚いていた秋田。あの女の決定には逆らえないという秋田。
「―――っ」
折られた腕が痛い。歩くたびに刺されたお尻が痛む。
それでも血を垂らしながらも、なんとかひなたは自分の部屋へと帰った。秋田に聞かねばならないことがある。
どうして、秋田は、今日に、限って、部屋で、ゲームを、していたのだろう。
部屋に着いた。
やっとの想いで扉を開けると
―――まるで亡霊を見るような
――――目で
――――――秋田がこちらを見た。
「…ひな…た……?」
「秋田さん。説明してくれるかな…?」
「ひなた、どうして……」
どうして。その言葉をひなたも口にしかけ、辛うじて胸に押し込んだ。どうして、秋田が『あの子』に似ているなどと思ったのか。
「どうして、ひなたが生きているのですか……? 彼女は…どうしたのですか……」
「やっつけた…」
「――まさか! ありえない! あの女に勝てるわけ……!」
秋田が息を呑んだのが分かった。恐ろしいものを見るような目でひなたを見ていた。
「ボクを殺すつもりだった…?」
秋田は首を左右に振る。
「死んでいて欲しかった?」
首をぶんぶんと秋田は左右に振る。あの秋田が取り乱している。
「秋田さん。どういうことか教えて」
「――それは……」
秋田は口を閉じた。答えたくないらしい。
「秋田さんは……あの女の仲間……?」
秋田はひなたの味方だった。今まではそうだった。今後、この悲しみは誰に打ち明ければいいのか。騙されていたのか。藍那を思い出した。信じていたものとの別れ。
―――悪の華が咲き乱れる。思考は華の芳香に毒され、憎悪と悲しみに。右腕は折れているけどそんなことは関係ない。
左手に銅の剣を99本装備した。
「答えて、秋田さん」
「ひなた……。私は答えることができません」
「――――!」
華が感情を爆発させた。死なない程度に痛めつけて喋らせようと思った。
銅の剣を一斉に放り投げた。
マシンガンの如く、左腕は砲身の如く、秋田に向けて銅の剣を放った。
「…………」
銅の剣は秋田の身体には突き刺さらず、秋田の周囲の壁や床だけをメッタ刺しにした。
「ひなた……」
どうしてだろう。藍那を手に入れるためならなんでもするつもりだった。なのに秋田を傷つけることを想像すると、強烈な吐き気を覚えた。
「どうして………どうして…!」
左手に再度、銅の剣を99本装備し、一斉に放り投げた。だけど、秋田を狙えない。頭が痛む。剣は秋田のいない所へ突き刺さってしまった。
「ひなた…」
秋田はひなたへと歩み寄ってくる。
「秋田さん、動かないで!」
剣は秋田へ撃つことはできないが信用したわけでもなかった。威嚇のための銅の剣を装備した。
「動かないで!」
秋田は止まらない。当てるつもりはなかった。なのに。
「あ―――」
銅の剣は勝手に発射された。秋田の腹に突き刺さった。
「あ、秋田さんっ!」
「くっ―――」
一瞬気を緩めたひなたに、秋田はすっと近寄り。
―――殺される。
秋田に勝てるはずなどなかったのだ。秋田は己に牙を剥いた者を決して許しはしない。あの女の仲間なら、あの女が果たせなかった目的を秋田は果たす。
だからひなたは殺される。
抵抗しないと。例え負けると決まっている戦いでも、なんらかの手段でダメージを与え、撃退しなければ死ぬ。まだ死ぬわけにはいかない。
「――――――――――?」
不意に優しいものに包まれた。
殺されると思っていたのに、秋田はひなたを抱きしめた。
「―――え?」
「ひなた」
―――悪の華が閉じた。
「え…? あ、秋田さん……?」
「ひなたは可哀想です」
「あ、秋田さん。血…おなかから血が出てる……」
「あなたがやったのですよ」
そうだ。
秋田はいつもひなたの味方でいてくれた。不安に怯えたひなたをいつも優しく慰めてくれていた。
秋田を傷つけた。僅かでも秋田を疑った。大事な秋田を傷つけた。
「ボ、ボク…は…っ……あっ…あああっ…」
藍那の時以降、二度と大事なものを失わない、壊さないと決めていたのに、また傷つけてしまった。
「ひなた…! 私なら大丈夫です。ですから落ち着いてください! 落ち着いて……!」
「――――!」
秋田はぎゅうっと抱き締めてくれた。背中に回した手で優しく撫でてくれた。
「ごめんなさい…秋田さん……ごめんなさい……」
「――! 悪の華……」
「―――え?」
「…いえ。なんでもありません。先程は失礼しました。私もひなたを不安にさせる態度を取ってしまいました」
血に塗れた手で頭を撫でられた。怖いとは思わなかった。血塗れでも秋田はひなたには優しく微笑んでくれた。
秋田は誰かに似ていた。
昔、ひなたには好きな女の子が二人いた。藍那ともう一人。最後はその子と藍那を天秤に掛け、ひなたは藍那を選んでしまった。その後のその子はどうなったのか思い出せない。人を切り捨ててまで藍那を選んだのに幸せになれなかった。
「秋田さん…血が出てる……手当てしなきゃ…」
「私は大丈夫です。むしろ手当てが必要なのはひなたでしょう?」
ぽんっとお尻を叩かれた。
「はうぅっ……」
目から星が飛び出るような激痛がお尻から走りぬけた。余りの痛みに少しだけど尿を漏らしてしまった。
「い、痛ぁ……」
「可愛いですね。はい、こちらへ来てください。お尻と折れている右腕を手当てします」
秋田に手を引かれ、ひなたはベッドの上でうつ伏せにされ、お尻を後ろに高く上げる姿勢を取らされてしまった。衣服の上からとは言え、こんな格好でお尻を見られるのは恥ずかしくて顔が熱くなって、真っ赤になってしまった。
「あ、秋田さん…。こ、この格好恥ずいよぅ……」
「大怪我しているのですから、少し大人しくしていてください」
強い口調でぴしゃりと言い聞かされ、ひなたは黙らされた。そのまま、秋田に当たり前のようにベルトを外され、ズボンを降ろされ、お尻を丸出しにさせられてしまった。
「ちょ、ちょっと…」
「大人しくしていてください。傷残っちゃいますよ」
「うう…」
突き出したお尻に突き刺さる視線が恥ずかしくて、だけどどきどきともした。
「消毒します。………ひなた、そのままで結構ですので聞いてください」
「う?」
「全てをお話することはできません。ですが、話せる範囲で話を聞いて頂きたいのです」
「うん…」
お尻の穴に冷たいガーゼのようなものが当てられた。今、穴まで見られているのだと思うと、胸が切なくなって息苦しくなった。
「世界には決まりがあります。それは世界を創られた方の順序通り、展開していく物語でもあるのです」
「うん…」
「中には運命に逆らおうとするヒトもおられます。そして運命を切り開くことができるヒトもいます。しかし、それは世界の歴史そのものには関わらない、最初から細かな設定のされていなかった部分です。ひなたは違う。あなたは歴史に関わりすぎている」
「―――――」
「あなたの運命は決まっている。私の運命も。氷雨さんやレイチェルさんもそう。本来の歴史通りに進めば、私達は全滅します」
―――それが許せなかったのだ。
藍那を捕まえるまでは死ぬことはできない。例えこの道が悪だとしても、一歩も引くことはできないのだ。
「秋田さん、ボクは……」
「ひなたは不思議ですね。ありえないことをしている」
「え?」
「あの女は私たちアバターでも、勇者でもない。あの女は世界の手先、世界の異物を排除するものです。彼女の決定は絶対であり、誰もあの女には勝てません。勝てないはずです」
「え…でも……」
「ひなたは駆除されなかった。ありえないことです」
秋田はひなたのお尻を直すと、ぱんっとお尻を叩いた。
「痛っ!」
「はい、だいたいの手当ては終わりました。用を足される時は言ってください。痛まないようにしてさしあげますので」
「は、恥ずいからいい…」
秋田は嘆息し、肩を竦めた。今さらという顔をしていた。
「ひなたは『恥ずかしいで出来ている』のですから御気になさらず」
「ひ、非道い…」
秋田はつんと澄ました顔をしている。この顔は何処かで見たことがあった。藍那と似ている。だけど、藍那ではない別の子の顔。
「秋田さんは……誰…?」
藍那との天秤に掛けられた誰か。
秋田の目が細くなった。ひなたを見る秋田の目はいつも優しさに満ちていたのに、今は死人のような目をしていた。
死んだ目。
誰か、死んだ、気が、した。
「私の顔に見覚えがありますか?」
地獄からの声。
それは世界の手先の女よりも、この世界そのものよりも、更なる恐ろしさを伴った声だった。悪の華を咲かせるための種を何処かでもらっていた。
憎悪と執念の果てに命を絶った少女。
その呪いは確実にひなたを蝕んでいた。
「―――――う」
―――この藍那への執念はもしや自分のものではなく、その女の子の妄執だったのではないか。藍那を憎んでいた少女。ひなたに藍那と天秤に掛けられた少女。彼女は藍那を憎んでいた。ひなたをも憎んでいた。ひなたも今、藍那、そして藍那と一緒にいる者達を憎んでいた。憎悪と捩れのデストラクトチェーン。
(分からない…)
憎悪は時間に揉まれ、もはや原型も留めていなかった。これがひなたの感情なのか、あの女の子が残した呪いなのか、判別もできなかった。
秋田を見た。
何処までも真っ直ぐとした瞳でひなたを射抜いていた。
「秋田さんは誰?」
「私にはこの身体が誰の物かは分かりません」
「――え?」
「アバターとして呼び出された時、ひなたの心に眠る『憎悪の化身』としての姿が象られました。私にはこの身体が誰の物かは分かりません。初めは藍那という方だと思ったのですが、どうやら違うようですね」
「うん……」
藍那と似ている。だけど別の誰か。藍那と似ているという下卑た理由で、ひなたが一時心を許した女の子。
「この身体からは歪んだ憎悪が感じ取れます。その力は決してノワールやリアニメイト、エルリに遅れを取ることはないでしょう」
「―――――うん」
傷つけた女の子。踏み躙った女の子。裏切り、自分の都合で捨てた。せめてその子を踏みにじった分だけは幸せになろうと願った。だけどそれも叶わなかった。
氷雨は逃げた。
「――――」
足元からなにかが崩れる想いに襲われながらも、氷雨は精神力を総動員し価値観をなんとか維持した。ひなたの様子がおかしいから後を追ったのだ。
怪しい女との戦い、秋田との会話。全部を聞いた。
(私、最低だ……)
ひなたがあんな目に合っていたのに助けなかった。
藍那に危害を加えるかもしれないひなたを見張っていた。秋田という怪しいアバターの動きを見張っていた。
ひなたが女に襲われている時、氷雨はなにもできなかった。死ぬのが怖かった。きっとノワールでもあの女には敵わない。だから隠れて見ていた。
まだ死ぬわけにはいかなかった。叶えるべき望みがあったのだ。
「――――――」
自己嫌悪に陥った。
ひなたを見殺しにしようとした。口では大事だ、大好きな友達だ、仲間だと言っていたのに、ここに来て自分を選んでしまった。
なんと汚い生き物なのかと己を罵った。
ノワールが現れた。
「ハハハハハハハハ……ハハハ…そう悲観することもないだろう。誰もがそうなのだ」
多くのニンゲンはそうなのだろう。
ひなたは自分でも言ったように恋人でもなんでもない。だからおかしなことをしたわけでもない。なのに氷雨は罪悪感と自己嫌悪に苛まされた。
感情の押さえが利かない。
ポケットからカッターナイフを取り出して、ぎちぎちとリストカットをした。心だけ痛いのが辛かった。身体が痛ければ、心の痛みは紛れた。だからリストを、アームをカットした。がりがりと何度も傷をつけた。
(落ち着いて。あのアバター、なんて言った? あたしたちには勝ち目がないとかなんとか。ひなた君を見捨てる決意までして生き延びたのに、どの道あたし達には全滅する運命なの…? やだ……やだ……それが答えだっていうの…?)
耐えられない。
希望のない未来。希望がなければ生きる気力もない。ひなたは希望のない未来から、なんらかの手段で勝ち抜こうとしていた。
氷雨はそんなことできなかった。
諦めかけていた。
「なんや。盗み聞きしてたのはあんたやったんか」
「――――!」
氷雨が振り返った先には穴だらけの女がいた。
「ああ、これな。あの銅の剣とかいうのでいっぱい刺されてん。痛かった」
「……! 何の用っ…?」
「いやあ。あのひなたとかいうの、なんかすごい強情やからさ、人質になってもらお思て」
氷雨は生唾を呑んだ。
別の意味で怖かった。人質に取られても、ひなたは藍那と氷雨を天秤に掛ければ藍那を取るかもしれない。そんなことを想像すると怖かった。
そして滑稽だった。つい先程自分はひなたを見捨てたばかりなのだ。なんと我侭な考えなのかと、再び自分を罵った。
だから嫌だった。
人質にはなりたくなかった。なればきっと傷つく。そして死ぬ。目的も果たせなくなる。ひなたに捨てられることが辛かった。
「なんや。なにしても無駄やで。うちに勝てるやつなんかおらんのやさかい」
女はずんずんと穴だらけの身体のまま近寄ってくる。
秋田の言葉を思い出した。この女には誰も勝てない。
(ノワール……!)
氷雨はノワールに念じ助けを願った。
だがノワールは氷雨と相手の女を見比べ、ふむと考え事をしていた。
(ノワール……?)
「無駄やで。さっきの子にも言ったけど、アバターはうちの決定には逆らえんのやから」
信じていたものに裏切られることは辛い。
ひなたにも、ノワールにも裏切られたくない。だけどひなたと違い、氷雨には抗うだけの力も狂気も凶器もなかった。
「さ、おとなしくこっちきい」
女の穴だらけの手が氷雨に伸びる。
この手には敵わない。ひなたと女の戦いは盗み見た。とてもニンゲンが勝てる相手ではないのだ。
駄目だ、嫌だった。
「――――――――――」
その手を、黒衣の、男の手が、掴み取った。
「…………」
氷雨も女も信じられないものを見るような目でノワールを見た。
「ノ、ノワール…?」
「なんやおまい」
「ワハハハハハハハハハハハハハハハ」
ワ ハ ハ ハ
「痛たたたたたたっ! なにすんねん! アバターのくせに! なんで逆らうねん!」
ハハハハハ…………ハー…………ハッハッハッハッハッハッハッハ! 氷雨に手を…ワハハハハハ…出すものは…決して許さない! 私が許さない! 神が許そうとも、サタンが赦そうとも、私は許しはしな…ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハ!
大笑いし、ノワールは女を蹴り飛ばした。
「まったくもう。ここも狂っとるやん。念のため殺しとくか。まあ、アバターなんか一発でスクラップにしてやるけどな」
「ハハハハハハハ」
ノワールは虚空から『紐』を取り出した。
エルリは富士の樹海の心象風景の化身だった。リアニメイトは大海だ。秋田はもちろん秋田の田だ。
「ようわからんけど大人しくしてた方がよかったんとちゃう? 死ぬよりも非道い目にあわせたるで」
女は懐からナイフを一本取り出した。
「このナイフは世界紡ぎのナイフっていうねん。想い出も、記憶も、なかったことにしてやるわ。そう、想い出の地を、世界地図の上から切り取るように」
「ワハハハ?」
ノワールは氷雨の思い出の地の化身。
そこは地図の上を探しても何処にもなかった。地図には載らない世界が氷雨の想い出の地だった。
「さっさと消ええや!」
女はナイフを振り被り、ノワールへと飛び掛ってきた。
「ハハハ。死ぬのは貴様だ! 私は氷雨に手を出すものを決して許さない! 決して許さない! 決して! ワハハハハ! ワハハ、ワハハハハハハハハハハハ!」
ワ ハ ハ ハ
仮想が現実に侵食する。
捩れた感情が仮想の相手を尊敬し、好意を持ち、独りでに走りきった。
神が創ったエデンでもなく、悪魔が導いた花園でもなく、ニンゲンの手で作られた妄想の理想郷。インターネットの中に氷雨は幻を見た。
壊れた歯車がガタガタと刻み、鳴らし、ノワールは立ち上がった。秋田、エルリ、リアニメイトはプレイヤーの憎悪に関わる者が模られ現世に現れた。
ノワールは違う。
いないニンゲン、ネットワーク上の誰かの偽の人格が象られた。世界にないはずのもの、それは銅の剣と同じく、矛盾であり、世界の手先である女が消し去ることのできないものだった。
ワ ハ ハ ハ
ノワールは手から取り出した『回線』を女の首に巻きつけた。
「きゃああああああああああああああああああああ」
「ワハハハハハハハハ! 回線巻いて首つってシネ!」
「―――――!」
回線が首を切断するその一歩手前、女は消え去った。
「ワハハハ。逃がしたか。負け犬め」
「ノワール…」
「――――――」
笑っているノワール。
初めて見た。
他の生理的嫌悪を誘うアバター達と違い、ノワールだけは氷雨の理想的な人物像だった。こんなに笑う者ではなかった。
怖かった。ノワールがノワールでないようだった。
「氷雨」
「――っ?」
ノワールの眼をまっすぐ見返せなかった。
見たくなかった。
「氷雨。私は―――」
「……?」
ノワールは微笑んでいた。
狂ったようなあの笑いが嘘のように綺麗な顔をしていた。
「私は壊れている。ただ、君を守るという意思は本物だ。信じてほしい」
氷雨は頷いた。