- 世界の底辺 -
2章 正しいことよりも大切なこと。
いつの間にか眠っていたようだ。小鳥の鳴き声と、カーテンから差し込む陽のヒカリに晒され、ひなたは目を覚ました。
「――――」
秋田が優しく ひなたを見守ってくれていた。
夢じゃなかった。
秋田はひなたにとってたった一つの希望だ。起きた時すぐ隣にいなければ、夢だったと取り乱しそうだ。だから隣にいて欲しかった。秋田はひなたの隣にいてくれた。
「おはようございます」
秋田はひなたが起きたのを確認すると、テレビの方へと戻っていった。
優しすぎて反吐が出そうになる。誰かの言葉を思い出した。
身体の節々が痛んでいたはずなのに、ベッドの中で目覚めたひなたは気持ちの良い朝を迎えることができた。テレビの方を見た。
「そろそろ目も冴えてきましたか?」
まだ通行人をバットで殴り殺している秋田が振り返りそう言った。どうやらゲームは気に入ったようだ。
「秋田さん、おはよう。夢じゃなかったんだ」
いや、とひなたは頭を振った。
これとて夢の続きかもしれない。この世界において物事を良く考えるのは、あの時から止めた。最悪、これが夢だったとしても、自分の力で次の一手を進めるつもりだ。命を引き換えにすることも手段の一つだ。
この命を引き換えにしての復讐。
「気分が優れませんか?」
秋田は部屋に常備してあったペットボトルのキャップを軽く捻り、緩めてからひなたに手渡した。
細かい所にまで気の利く少女だと思った。
「……」
この部屋にはテレビがあり、ゲームがあり、ペットボトルがあり、缶詰があり、バスとトイレ以外は部屋から出なくてもいいようになっていて、自分のことながら愕然とした。
「ありがと。ううん。悪い風に物事を考えていただけなんだ。ごめん」
「はい。ではひなた、台所に朝ごはんを用意しておきました。お召し上がりください」
親は随分前に離婚した。母親に引き取られたが、その母親も新しい男を作って何処かへ行った。ずっと帰ってこない。
台所へ顔を出した。普段ロクなものが出されない食卓なのに、今日は眩いばかりの白い飯が湯気をあげてひなたを待っていた。
飯の隣には熱そうな味噌汁と、甘辛い焼き鮭、ノリ、そしてふっくらと甘そうな玉子焼きが並べられていた。
「すごい。秋田さんが作ったの?」
「はい、お米は自前です。これでも秋田の田の化身ですから」
秋田は小さな胸を誇らし気に張っていた。
「熱い内にお召し上がりください」
ひなたは言われるまま、席に座り焼き鮭を箸で一口分に千切った。鮭の身は柔らかかった。
それを真っ白で熱い飯に乗せて食した。
「おいしい」
適切な鮭の辛味が、炊き立ての飯と良く合っている。
「秋田さんは食べないの?」
「どちらでもよいです」
「ん…。じゃあ一緒に食べよ。一人だけだと食べにくいよ…」
ひなたは秋田を食卓の横面に座らせた。
そういえば、誰かに食事の準備をしてもらい、一緒に食べることなど久しい。これは幸福な事なのだろう。それが可憐な少女なら尚更だ。
秋田は藍那を思い出させた。他のある女の子をも思い出させた。
「@@@」
――パーン。藍那を思い出し、憎悪で脳みそがショートした。パーン=パン。食パンが食べたい。しかし、今ごはんを食べていることを思い出した。
ひなたは皿を洗いながら、水の冷たさを感じた。
あれから時間は止まっている。いつの間にか冬になったことを思い知った。
「これから、ボクはどうしたらいいのかな?」
皿を棚に戻し、秋田に尋ねた。
これからすることは、もちろん復讐だ
「まず、アバターは私を含めて四体降臨しています」
「他にもいるんだ?」
「はい。皆、主の望みを叶えるために配布されました」
「誰がなんの目的で呼んだのかな? ボクはなにもしていないし、困難をヒトに助けてもらう程、善行も働いてもいないよ」
「憎しみに引かれたのです」
憎しみ。
確かに捩れた負の感情をひなたは持っている。
「これから世界に戦いを挑みます。最も低レベルなニンゲンの中から、貴方達、四人が選ばれました。貴方達は力を合わせ、幸福なニンゲンを踏み躙ってください。憎悪は更に捩れていくことでしょう。私たちアバターはそういった憎悪を糧とします」
「勝ったらどうなるのかな」
「そのときは貴方達四人が世界の支配者です」
戦い。
死ぬこともあるのだろうか。
構わない。元より命に未練はない。僅かでも未来に可能性があるのなら戦う。それに自分が世界の中で最も低レベルと言われ、少しは誇りたくなった。
鉄の盾を手に入れた。(また…)
「改めて聞きますが、覚悟はありますか?」
「大丈夫」
秋田は満足気に頷いた。
「残りの三人は誰か分かるのかな?」
「各々がどのようなアバターを率いているかまでは分かりません。配布されたプレイヤーごとにアバターは形を変えるからです。プレイヤーなら分かります」
秋田は掌をひなたの顔に架ざした。ひなたの脳裏に三人の男女の顔が過ぎった。
全員見知らぬニンゲン…だと思ったのに、知っている顔があった。
少しだけ年上のその女の子を、ひなたはよく知っていた。
「氷雨(ひさめ)ちゃん」
知っているどころか、それは大事な友達だ。よく相談に乗ってもらったり、乗ったこともあった。藍那のことも良く知っている子だ。
「お友達ですか?」
「うん。学校の先輩なんだ」
秋田は顔色を変えなかった。ひなたの言葉を待っているのだ。
「このコとは後で話をする。大事な話はこれくらい?」
「はい。勝利を掴み取りましょう」
秋田はひなたの手を取り、力強くそう言った。
アバター。
確かに強い憎悪の力を感じるが、こうして向かい合っている限りは普通の地味な女の子だ。触れることもできるし、触れれば温もりも感じた。だけど、どこか歪みを感じる。
「氷雨ちゃんはもう知っているのかな」
「恐らくあちらのアバターから事情を聞かれたと思います」
「そっか…」
その時、PHSが鳴った。相手は氷雨だった。
「はい、もしもし?」
『あ、ひなた君? あたし。ひさめ』
「うん」
『ひなた君のとこにもアバターがきたの?』
「うん、来てる」
『とりあえず会おっか? 今いける?』
「うん」
「じゃあそっちいくね」
氷雨は電話を切った。
おかしいな、とひなたは首を傾げた。氷雨はとてもニンゲンがよくできている。恋人だっているし、幸せに見えた。ひなたも氷雨のことは尊敬している。
いや、と頭を振った。不幸なんてものは他人には理解できない。氷雨も傍からは幸せに見えても、不幸を背負っているのかもしれなかった。
「ひなた。氷雨さんというのはどのような方なのですか?」
「可愛いし、頭もいいし、ボクなんかの面倒みてくれるし、すごくいい先輩だよ」
「そうですか」
「うん」
ソウデスカ。秋田はやっぱり少し歪だ。
氷雨はやってきた。
こうして会うのは久しぶりな気がする。藍那の件以来、ひなたは『ヒキコモリ』になった。気心の知れた氷雨とも電話やメールこそすれ、会うことは少なくなった。
髪の毛が少し茶色い。染髪したのだろう。数ヶ月ぶりに見る氷雨はやはり可愛かった。
居間のコタツに三人で足を入れ、蜜柑と茶を用意した。
「ひなた君、おひさっ。あんまり元気なかったみたいだけど、へーき?」
「うん、平気」
「そかー。よかた」
氷雨は藍那のことには触れない。気を遣われている。だけど、心配も掛けている。
「氷雨ちゃん、ごめんなさい」
「うん?」
「心配かけてごめんなさい」
あははと氷雨は笑った。
「いいよ。心配くらい」
「でも、甘えるのは怖いよ」
「もっと甘えて欲しいな?」
依存は恐ろしい。愛を持つからヒトを憎む。氷雨のことは好きだ。好きだからこそ、氷雨を藍那のように憎む対象にはしたくなかった。
「――んー。とりあえず、本題にいきましょ」
「うん」
「ひなた君はどうする? その子、アバターだよね?」
秋田を見て氷雨は言った。
「氷雨ちゃんもアバターを連れてるの?」
「うん。ノワール、おいで?」
―――はは、ハはははははハは、ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
ぎちりと視界が歪み、笑い声と共に黒衣の男が現れた。冷たく濁った瞳がひなたを見下ろし笑っている。ひなたは胸に重みを感じた。このアバターの憎悪は荒んでいる。秋田とは違った歪みがある。『煙突』のように濁り、黒い感情を吐き出している。
ミスリルヘルムを手に入れた。
「これがあたしのアバター。ノワールっていうの」
ノワールは一言だけ「よろしく」と言い、また笑っていた。秋田も名乗り頭を下げた。
「―――っ――――っっ―――」
ノワールは手で口を押さえ、ひなたを見下ろし笑っている。
怖かった。
ノワールはいつの間にか姿を消していた。
「ひなた君の望みは…藍那ちゃんかな…?」
「――っ」
ひなたはぎくりとした。
氷雨は知っている。ひなたが藍那に異常な執着を未だ持っていることを知っている。そして、氷雨は藍那をも大事に思っている。
ひなたは答えることができなかった。
氷雨の前で藍那を陵辱したいと答えることも、嘘を付くことも躊躇われた。
「――――」
藍那の話をしたくない。氷雨にはしたくない。この黒くて、『ギザギザ』が走り回る精神を分かってくれ、と言う方が無理な注文だ。だから言わなかった。氷雨が大好きでなんだって話は聞いて欲しいのに、これだけは言えなかった。
ただ沈黙は肯定と同じだった。
だから、「分からない」とだけ言っておいた。
氷雨は嘆息した。
「これからどうするの?」
「他の二人と会うのはどうですか?」
秋田がそう言った。
「秋田さん。他の二人の場所わかるの?」
「そういったものは分かりませんが、私達アバターは一堂に会するため、ある地点へ集まるようプログラムされています」
「じゃあ、そこにいこっか。いい、氷雨ちゃん?」
「いいよ」
昼食を取ってから出かけることになった。昼食はひなたが作ることになった。
「ひなた君のお昼ご飯食べるの久しぶり♪」
「最近、手ぇ抜いてたから味落ちてるよ」
「それじゃあ、あたしが診断してあげましょう」
女の子が食べるものだからカロリーに気をつけながら、プレーンオムレツにミートソースをかけて出した。
それを食べた氷雨は「あ、おいしい」と言ってくれた。とても嬉しかった。
出かけることになった。
秋田とノワールは先に家から出た。
「ひなた君、いこ」
「あ、うん」
氷雨は可愛い。藍那のことを好いたように、氷雨に惹かれたことも何度かあった。
「氷雨ちゃん」
「ん?」
「背中、ごみついてる」
「え? どこ?」
背中を両手で触れようとするけど、最初からないゴミなんか取れるはずなかった。
「取ってあげる」
「ありがと♪」
氷雨の後ろに移動すると、ひなたは背中ではなく氷雨のお尻を見た。
女の子にこの悪戯をするのが大好きだ。もう、性癖に近い。両手の人差し指を組んで、その先を氷雨のお尻の中央に向けた。
「氷雨ちゃん、隙有りっ…」
「へ?」
―――――っ!
「はうっっ!」
思いっきり、カンチョーをした。油断していた氷雨のお尻に、ひなたの指はまともに食い込んだ。氷雨は爪先立ちになった。
「〜〜〜〜っっ!」
「氷雨ちゃん、隙だらけだよ」
衣服の上からでも、いきなりお尻に指を差し込まれた氷雨は悲鳴を上げた。気持ちいいのかな、とひなたは考えてみた。
(指、入っちゃったよね…)
指をぽんっと引き抜くと、氷雨は「はうっ…」とまた喘ぎ、崩れるように床に座り込んだ。両手でお尻を押さえ、蹲ったまま俯いて肩を震わせていた。
「……」
返事がないので、ひなたは前に回り氷雨の顔を覗き見た。
(……………………………………………………うわ、怒ってる)
氷雨の顔を見て戦慄した。
「あ、あの、お、怒った…?」
ひなたはあははと笑ったが、氷雨は無言だった。
「お、お尻、痛かた…?」
氷雨は拳に「はーっ」と息を吐き、立ち上がった。
そして、にこりと笑って言った。
「目を閉じて、歯ぁ食いしばって?」
殴られる。だけど、逃げたらもっと怖い。
「目を閉じて、歯ぁ食い縛って?」
仕方ない。
氷雨の可愛い声も聞けたし、お尻の穴に指を差し込むこともできた。殴られるくらいはいいかと思い、ひなたは目を閉じ、歯を食いしばった。
目を閉じたら、なにも見えない。
真っ暗だ。暗黒の世界。
これから殴られる。歯を食いしばり頬を緊張させた。
「――?」
だけど、いつまで経っても頬に打撃は来なかった。
そう不審に思った時だった。
「―――っ!」
股下から重い衝撃が走った。身体が少し浮いた。
――股間を蹴り上げられた。
「―――あ――あああああああ―」
二つの睾丸を万力で締められるような痛みにひなたは悶絶した。
立っていられなかった。
両手で股を押さえて、床に這い蹲った。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
最初の痛みよりも、徐々に痛みが増していく。じんわりと股間の痛みは増していった。脂汗が全身から吹き出した。
「――い―――――ぁ―――っ」
涙がぽろぽろと零れた。
両手で蹴られた股を押さえ、痛みを緩和することしかできなかった。
「反省したー?」
氷雨の楽しそうな声が聞こえる。
「〜〜っっ」
頷くだけで精一杯だった。
「――もう。次やったら殺すからね」
やっぱり氷雨は怒っていた。ひなたはようやく立ち上がれるようにはなったけれど、まだ股間の痛みは治まらなかった。じんじんと鈍く痛み続け、全身から脂汗が噴出していた。
「――痛い…」
「お仕置きなんだから、痛いに決まってるでしょ」
「これじゃ歩けないよ…」
涙を溜めたまま上目使いでひなたが言うと、氷雨はさすがに同情したようだった。
「……そんなに痛いの?」
「うん…」
「しゃーないなー…」
氷雨はひなたの手を取り、肩を貸してくれた。
冷たく小さな手だった。
「あ、ありがと…」
「次やったらホントに殺すからね?」
氷雨はにこりと笑った。
怖かった。でも、またやっちゃうんだろうなあ、とひなたは考えていた。
「遅かったですね」
玄関先で待っていた秋田にそう声を掛けられた。ノワールの姿は見えない。
「秋田さんもノワールさんみたいに姿を消せるのかな」
「消せます。そうしておくと、ひなたのパソコンの負担を軽減できます」
「あ、そういえばパソつけっぱだったけど、切ったら秋田さん消えちゃうの?」
「また起動してくだされば大丈夫です。私の情報は回線を通じて、常にネットワークを通じ、最新のデータが保存されております」
「とりあえず、あのメールに添付されてたファイルを起動してる間は、秋田さんは自由に動けるんだね」
「その通りです。姿を消しますか?」
「あ、ううん。そのままでいいよ」
可愛い秋田を隣に並ばせて歩く。男として一つの自慢だった。久しぶりの外出だ。見栄くらいは張りたい。
「ひなた君は女の子好きだもんね」
氷雨が冷ややかに言った。
「やな言い方…」
「事実でしょ」
氷雨に肩を貸してもらいながら、秋田の案内する場所へと向かった。
藍那のことも、自分に親しくしてくれる女の子といる間は忘れられる。だけど、そんなものは一時の鎮痛剤だ。
彼女は必ず不幸に陥れる。
氷雨がそれを許さないと言うのなら、事が全て済んだ後、氷雨にはこの命を差し出そう。それで許してもらいたい。
こんなに苦しむなら、あの時藍那に殺されたかった。
相手を殺さないことは優しさなどではない。
死にきれなかった者は哀れだ。残された時間、死ぬまでの時間を苦しむためだけに長らえる。
こんなに苦しむなら、あの時藍那に殺されたかった。