『AntennaBible 〜アンテナバイブル 預言者〜』
終章 FieldChaos(贖罪)
終章4部 真実のカリス
玲二は走った。屋上目指してとにかく走った。
いかにカリスの力が強いといっても、どうして妄想の力で地球が割れるのか。玲二は半信半疑だった。だがもはや玲二には何が現実で何が妄想なのか曖昧だ。リブラの存在理由が分かった気がした。
止めなければならない。妄想でも死ねる事はもう分かっている。カリスを止めなければならない。
玲二が階段を昇り扉を開けると、そこは星空の下だった。ここが屋上だ。足元からは禍々しい赤と黒のモヤが立ち上っている。
屋上からは更に夜空へと階段が続いていた。階段は途中で途切れ、その先端に誰かが立っていた。
カリスだ。
天を仰いでいる彼の遥か頭上には、巨大な赤い球体が浮かんでいた。
ゆらゆらと。
このおしろと同じくらいの大きさのそれはドクドクと収縮し、脈打っていた。時折獣のような咆哮をあげ、それが玲二の身体を震撼させた。
カリスが振り返った。
冷たい笑みを浮かべ、階段から玲二を見下ろしている。
「――――くくく――随分と早かったな―――リブラのやつはどうしたんだ?―――――あぁ――ひとみが相手をしているのか――――?」
「そうだ。お前を止めにきた」
「――――あぁ―惜しいなぁ―――もう少しで――破壊爆弾が完成する所だったんだが――――はははは――まぁ―――お前を始末してからでもいいか――くく」
「カリス! ソラなんてないんだ。全部こころの妄想だったんだ!」
玲二は無駄だと思いつつも叫んだが、やはりカリスが動じる事はなかった。
「―――何だっていいさ――――――俺は俺の仕事を完遂する――」
カリスは衣を風に煽られながら、音を立てて階段を降りてきた。
階段を降りる度、カリスが近づいてくる度に、玲二の心臓に重い重圧が圧し掛かってきた。
カリスは何もしていない。近づいてくるだけだ。最初は気のせいかと思っていたが、本当に息が苦しくなり始めた。
「――――ははははは―――――大丈夫か―おい―――そんなもので―――この真実のカリスと闘えるのか?―――くく―――はははははははははははははははははは」
駄目だ。闘う前から気押されていては勝てない。玲二は目の前に降り立ったカリスを睨み、戦いに集中した。
右手に『四角』を造り出し、玲二は構えた。これが最後の戦いだ。
「…………」
勝ったところで、もはやこの死に果てた世界がどうかなるとは思わなかった。地球が割れずにこころと生きていけるくらいだ。
けれどそれが玲二には大事だった。たったそれだけの望みを叶えるために、玲二は何度も転生した。未来が転生させてくれた。こころと二人で幸せになるために。
「行くぞ、カリス!」
「―――そうだ!―――ははは――その意気だ!―――来い!―――最強の執行人――真実のカリスが相手をしてやろう!」
玲二は吼え、後方に妄想戦車を造り出し、自らは『四角』を構えカリスに飛び掛った。
カリスは動かない。
玲二が目の前まで迫ってもカリスは動かなかった。玲二はあらん限りの力を振り絞り『四角』でカリスの顔面を殴りつけた。おしろの屋上に重い打撲音が響いた。
「――――――」
カリスは殴られた箇所を手の甲で拭って玲二を見返した。笑っていた。
「――――なるほど―――随分と強いイメージを捻るじゃないか――おい?――――こころやひとみに勝つだけの事はあるな―――くくく――――だが俺は違う」
カリスの右手が僅かに動いた。人差し指だけが微かに動いた。
「……っ!」
玲二は見えない壁にぶつかった。いや違う。これは巨大な圧力だった。そのまま身体は扉まで吹き飛ばされ、玲二は強烈に背中を打ち付けた。
息が詰まり一瞬、一秒にも満たないほんの一瞬、気を失っていた間に事態は急変していた。
轟音が頭上から聞こえ、見上げればミサイルが唸りをあげて落下してくる。すでにミサイルは着弾寸前であり、玲二に回避の術はなかった。せめて直撃を避けようと『四角』を盾にしようとしたが、小さすぎてどうにもならなかった。
目の前で灼熱の爆弾が弾けた。視界が真っ赤に染まり、玲二は経験上三度目のミサイルの爆撃に身を引き裂かれた。爆発の大音響で鼓膜が異常をきたしたのか何も聞こえなくなり、吹き飛ばされ上も下も分からなくなり、それでも玲二はおしろの屋上から外に落下しないように踏ん張った。
「―――起きろ」
カリスの声が聞こえた。玲二が顔を上げようとしたら、側頭部を蹴り付けられた。
「―――早く起きろ――転がっている物を見ると―――蹴り飛ばしたくなるんだ――」
何度も何度も頭を蹴られ続けた。ムカついたが、今の玲二には起き上がる事ができなかった。死ななかった事が不思議なくらいだった。
「――――これで終わりじゃないだろう――おい!」
腹部を強く蹴られ、玲二は転がされた。ごろごろと身体が何回か転がり、仰向けの状態でやっと止まった。
仰向けで止まったおかげで夜空を一望できた。宙に浮かんでいる赤く脈打つ巨大な球体にはまるで表情があるようで、笑っているようにも見えた。
「―――――お前は何をしにここまで来た?―――くくく―――俺を止めに来たんじゃないのか?―――いいのか?――寝ていて―――なあ?―――はははは――地球を割ってしまうぞ?」
「…………」
玲二は手を床に付き、上半身を起こした。が、腕に力が入らず、また床に落ちた。それでも何とか起き上がろうと、歯を食いしばり、全身に叱咤をかけた。
腕に力が入らない。上半身を起こす事ができなかった。
カリスが近づいてくる。
「――――ふん―この程度か――――もういい―――お前に掛ける期待など欠片もない!」
玲二は頭を踏み付けられ、意識が飛んだ。
カリスは今しがた始末した男に背を向け階段を昇る。
何を期待したのだろう、この男に。この程度の力の男に、ソラが支配する世界体制を変えられる筈などなかった。やはりソラが究極なのだ。
破壊爆弾を完成させるため、カリスは階段を昇った。
「――――――?」
階段を昇れど昇れど、一向にカリスは移動していなかった。下を見ても、まだ数段しか昇っていない。
口笛が聞こえる。
気付けば階段は長く、果ての見えないものに変わっていた。
「――リブラか――――何のつもりだ?――」
カリスは口笛の聞こえる方を振り返って言った。だが、そこには誰もいない。
風を切る音が聞こえた。
突然扉を突き破り、小柄な誰かが突進してきた。
ひとみだ。
槍を真っ直ぐに構え、カリスに向かって走り込んでくる。
カリスが手を差し出した。その瞬間、ひとみの身体がガラスのように砕け散った。
「――――?」
カリスは一瞬戸惑った。何もしていないのに、勝手にひとみの身体は砕けた。
リブラの幻術だ。それが分かったのは、すぐ両隣にひとみとリブラの二人がいたからだ。
二人はそれぞれ槍と天秤を突き出してくる。カリスは防御が間に合わない。
「――――――ぬ!」
左右、二ヶ所の腹部に硬い金属の感触が走った。槍と天秤が突き刺さっていた。
「――――」
いや、どちらも刺さってはいない。皮膚で止める事に成功している。だが、僅かな痛みもあった。
「―――ガキ共がぁ!」
身体に力を入れた。体内から熱い、マグマのような怒りが噴き出し、それが衝撃となって二人を叩き飛した。
床を派手に転がりながらも二人は素早く起き上がり、それぞれの獲物を構え直す。
「――――く――くくく―――どうしたんだ――リブラ?―――お前も―――そこに転がっている男に――靡いたのか?―――はははは」
「―――違う」
リブラは静かに首を振った。
「――――ひとみが私に従属した」
「―――ほう?」
「――――ひとみは――私の奴隷――――それが条件――あなたと戦う事の」
リブラが口笛を吹きながら迫ってきた。反対側からはひとみが駆けてくる。
カリスをある一定のリズムに乗せようとする口笛。だがリズムに乗ろうが乗るまいが、カリスから見れば、リブラの攻撃もひとみの攻撃も単調なものに過ぎなかった。
二人の攻撃をカリスは舞うように避けながら、ひとみに聞いてみた。
「――――おい―ひとみ―――リブラに従属したって?」
「―――したよ!――悪いっ?」
必死に槍を繰り出しながらひとみは叫ぶ。
「――――悪くはない―――くくく――だが――その動機が知りたくてな?」
「―――玲二さんを助けたかったから!――それだけ!」
あんまりに一生懸命なひとみの声に、思わずカリスは苦笑を漏らしてしまった。
「―――そうかそうか―――優しい台詞だな―――――にしても―――リブラの奴隷とは穏やかじゃないなぁ、おい?――――ははははは」
「――――ほっといてよ!」
「――関係ないけどな」
「――――あ?」
カリスはひとみの襟首を掴み、片手でその華奢な身体をリブラの方に振り回した。
「――――!」
リブラは天秤を構えていた。カリスを刺そうとしていたのだろう。だが、その間にひとみが入る。
「――――ひとみ―――!」
リブラが短く叫ぶが間に合わない。天秤はひとみの胸に突き刺さった。
「―――ぁ」
カリスが支える下で、びくびくと痙攣するひとみ。
蹴り飛ばしてやると、リブラと絡まって転がっていった。
「――――所詮はガキってとこだな――――うん?」
ひとみを横にどかし、リブラが起き上がった。カリスに向かって天秤を構える。
「―――ふん――冷たいガキだな―おい?―――ひとみが痛がってるぞ?」
「――――この程度では死なない―――ひとみは私の奴隷―――その条件は――――あなたを倒す事」
リブラが口笛を吹いて移動してくる。
「―――いい性格してる―――好きだぜ――そういうのは―――」
目の前まで迫ったリブラの腕を、カリスは掴み上げた。
「――――けどな―――俺には勝てない―――残念だったな」
「――――――!」
カリスは力任せにリブラの身体を持ち上げ、そして床に叩き付けた。
「――――」
リブラはそれきり動かなくなった。階段を見れば、あの幻も消えていた。
ひとみも動かない。
裏切り者など、地球が割れた時の反動で消し飛ぶだろう。カリスは改めて階段を昇り始めた。
一歩、一歩が。
地球が割れるまでのカウントだった。
カリスは思った。
ソラの執行人、真実のカリス。
もう、これが最後の仕事だろう。分かっている。万象のひとみ、聖者のこころ、死のリブラ。この三人が欠けたソラは、もはやその機能を維持する事はできないだろう。この仕事の完遂はソラの崩壊を意味する。
それでもカリスは任務を実行する。
与えられた仕事は完璧に遂行する。それが真実のカリスだ。
カリスは頭上に浮かぶ赤い球体を見上げた。
あれを地球に落とせば、もう全てが終わる。ソラもアンテナもニンゲンも。
夜空に手を掲げた時、後ろから声が聞こえた。
「―――――まだ――終わってない――――」
声にカリスが振り返れば、階段の下にはロケットランチャーを構えた女が立っていた
「――全てを終わらせるのも―――貴方の機械的な任務が執行されるのも―――まだ早い―――まだ私がいる―」
「―――ああ―まだ一人残っていたな―――」
カリスはゆっくりと階段を降りた。
「――お前で最後だ――――元―聖者のこころ――」
こころは降りてくるカリスに構えながら、おしろの屋上を見渡した。
玲二、ひとみ、リブラ。皆傷ついて倒れている。
前を見れば圧倒的な威圧を放ってくる真実のカリスの姿があった。
「―――何をやっていた?――何故――お前は今頃出てきた?」
「――色々と忙しかったのよ―――聖者のこころの務めがね」
「―――元―――聖者のこころ―――だ」
「――――違うわよ」
こころは首を振り夜空に手を掲げた。
手の平から青い球体が天に昇り、見えなくなるまで高く上がるとそれは夜空に弾けた。
星ばかりだったそれは、途端に透き通るような青空に変化した。
「―――私は聖者のこころ――――ソラの声を預かる預言者―――」
「――――ほう?」
「――今までは偽りのソラに操られていた――みんな――貴方も――でも今からは違う―――私は聖者のこころ―――ソラの本当の言葉を頂く者――真実のカリス―目を覚ましなさい―――」
「――――くく――目を覚ますも覚まさないもない―――俺はリブラの通した命令を遂行するだけだ―――」
「―――それは古い私が下した命令を―――古いリブラが通しただけ――――本当のソラはそんな事を望んでない」
「――――ふん――口では偉そうな事を言ってもな―――今のお前からソラの波動は伝わってこないんだよ―――この青空も――何も詰まってない―――ただのソラの容れ物だ」
「――――――」
カリスの右手が動いた。
玲二は暖かい何かを感じていた。
痛みつけられた身体が癒え、動かなかった筈の身体は活力を取り戻していた。玲二は顔を上げた。明るかった。天を見上げれば、夜空ではなく青空が広がっていた。
爆音が聞こえた。
煙の上がった方を見れば、カリスに向かってロケットランチャーを撃ち続けるこころの姿があった。カリスは涼しい顔をして、素手でロケット弾を払いながらこころに近づいていく。
こころは接近したカリスにロケットランチャーの砲身で殴りかかるが、簡単に受け止められた。カリスが腰を引き、全身のバネを利用してこころの身体を蹴りつけると、こころはまるでゴム鞠のように玲二の方に転がってきた。
玲二はこころを抱き受けた。こころの身体は勢いがついていて、玲二は強烈な重圧を受けたが、それでもしっかりと受け止めた。
「こころ!」
もうこころの身体はぼろぼろだった。闘える状態ではない。それでもこころは、玲二の支えを頼りに、カリスにロケットランチャーの銃口を向ける。が、力が入らずランチャーは音を立てて床に落ちた。
「――――――」
カリスはこころに何かを言いかけたが、結局は何も言わず背を向け階段の方へと向かった。
こころは弱々しく玲二に言った。
「―――やっと――起きたのね――――玲二―――待ってた――」
「済まない」
「――――玲二―――貴方が――私のソラ――よ」
「…お前はまだ……」
玲二の言葉を止めてこころは続けた。
「―――違う――あのソラじゃない―――私達を正しく導いて――――私達と信頼しあえるソラ――――私は玲二に――――ソラをみた」
震える指先が青空を指した。
「―――玲二―――この青空に身を委ねるの――――そして――私が貴方の声を汲む―――聖者のこころとして!」
その時異変が起こった。
青空に浮かんでいた赤く脈打つ球体が落下し始めた。
空気を巻き込み。
唸りをあげて、地球を破壊する最後の爆弾がゆっくりと落ちていく。
もう誰にも止められなかった。ただただ、玲二もこころも爆弾を眺めるだけだった。
「――――何もかも終わりだ――――長かった真実のカリスの任務も―――お前達との想い出も―――終わりだ―――」
カリスの声はどこか冷めていた。カリスは階段に座り込み、その場から玲二達に声を掛けてくる。
「――――なあ――どうして妄想の爆弾で地球が割れると思う?」
「――――本当の地球は随分前に壊れたんだ――――地球があると思い込んで―――そこに俺達がいると思い込んで―――妄想だ―――妄想だから妄想の力で破壊できる」
「―――地球は―――最初にミサイルが落ちて――戦争になって――死に絶えた―――ニンゲンは死に絶えた―――」
「――――アメリカがミサイルを何に撃った?―――ソラのアンテナ?―――馬鹿げてる――人間にアンテナなど生えない―――妄想だ―――皆アンテナという――ソラという敵がいる気になっただけだ―――居もしない相手に戦争を仕掛け――自らニンゲンは滅んだ――アンテナなど存在しない」
「―――俺も―――こころも――リブラもひとみも―――あの時皆死んだ――――ここにあるのは記憶の残骸―――悪霊だ―――全ては――この真実のカリスが―――ソラの勅命により生成し――維持していただけの妄想――四本のアンテナも妄想―――こころ――お前は覚えてないかもしれんがな―――」
「――そして――そのソラさえもこころの中の妄想ときた――――くくく―――もう―この妄想を造った俺にさえ何が本当なのか分からない」
―――そんなの当たり前
凛とした少女の声があった。リブラがふらふらと、気を失っているひとみの肩を抱えて玲二達に近寄ってくる。
「―――そのために私がいるのだから」
「――そうだったな―――くくく―――――ああ―そうだったな」
カリスも階段を降り玲二に向かってくる。
「―――ソラの任務は果たした――――何もしなくても爆弾は落ちる――――もはやお前達と闘う理由もない」
もうすぐ地球が爆発する。妄想で造られた地球が無に返る。妄想のアンテナは宇宙へ飛ぶだろうが、ソラがなくてはもはや何も機能はしない。
全てが妄想でも。幻でも。
玲二はこころと生きていくと決めていた。
「……こころ。俺はソラになる」
こころの表情が明るくなった。
「未来がリブラを襲い、一度は俺をコロした。それは何故か。あの時のこころは本当のお前じゃなかったからだ」
玲二はこころを優しく抱き締めた。
「……今のお前なら文句はない。未来も納得するだろう」
「――――うん―――きゃっ?」
赤く脈打つ爆弾が地表に落ちた。地響きが鳴りおしろが、地面が崩れていく。
そして、足元から爆発した。
だがそこに苦痛はなかった。意識が宇宙に昇っていく。心地よい四人の魂に囲まれ、玲二は宇宙に飛んだ。
『四角』の四つの隅にこころ、リブラ、カリス、ひとみの魂を乗せて宇宙に飛んだ。
タンポポのように跳んだ。