涙珠 〜なみだ〜 




 ねぇ…誰かボクをいじめて………

 ボクを踏みにじって滅茶苦茶にしてくれない?

 ねぇ…


「灰音さぁ、いい子ぶった態度、やめてくれない?」
 ボクは、自分の部屋から二部屋離れた病室に来ていた。この部屋の患者、灰音は柔らかい茶髪と
大きな水色の瞳の、可愛い外見を持つ少年。ボクは、彼が嫌いだった。
 彼は、ボクの欲しかったものを全て持っていたから…
「………瀬恋(せれん)クン……」
 ほら、こうして睨んだだけで見上げてくる怯えた視線。
 繊弱で小さい身体。
 羨ましい…もし、こんな風に生まれていたら…ボクは……

 ボクだって容姿に自信はあった。
 自慢のさらさらした漆黒のセミロングは手入れを欠かしたことはないし、顔立ちだって、整って
る。ネコみたいって言われる大きなつり目が一番お気に入りだったよ。
 キミが来るまではね。

 八つ当たりだって自覚はしてるけど、悔しいんだよ。心の叫びは誰にも伝わらないだろうけど。
 ボクは、キミになりたいよ。そしたら、きっと誰かボクをいじめてくれる……だろうから…
 
自分がマゾヒストだと自覚したのは、怪我から腐らせてしまった足を切り落としたときぐらい
からだった。麻酔から目覚めたときの痛みと、弱者となった自分…そのことに陶然とする甘美な
響き。松葉杖を突いての入院生活は不自由だけど、ボクの中のマゾ的な悦びを満たしてくれた。

 灰音が現れるまでは…ボクはボクに満足していたんだ。

 悲劇の中にいるのは心地よかった。
 自分の容姿は嫌いじゃないけど、きつく見られる為、嗜虐性をそそるとか、苛めたくなるとか
ボクの望みからは離れている…

 ねぇ…もし、ボクが灰音みたいだったら…………?

 怯えたような、灰音を言葉で苛めていると、後ろでドアが開くおとがした。
 花束を抱えて現れたのは、灰音が「おにーちゃん」と呼んでいる、ボクらより3歳位年上の人。
 ボクは、この人が好き 。
 だって、灰音を苛めてると、この人凄い目で睨んでくれるんだもの。
 あなたの大切な灰音、もっと意地悪してあげる。
 だから、あなたはその視線で…ボクを切り裂いて………
「じゃあねぇ〜〜灰音」
 ひらりと手を上げて、ボクは部屋を出て行った。
 松葉杖の音が、リノリウムの床に冷たく音を響かせる。
 それと同じくらい冷たいあの人の視線を背中に感じながら、ボクは後ろ手にドアを閉めた。
 パタンという軽い音。
 ボクとあの人を遮る…音。
 しばらく横になっていたけど、胃の痛みは治まらなかった。
 お医者様のとこに行って胃薬貰って来ようかな…松葉杖に手を伸ばして立ち上がる。
 片足がなくたって、ボクは大抵の身の回りのことは自分でやれる。
 表面上褒めてくれる看護婦のお姉さんが、影では可愛げがないとボクを嫌っているの
は、知ってるけど…

 松葉杖は、ひんやりと冷たかった。
 右側しかない足に毛足の長いスリッパを履いて部屋から出ると、誰もいない廊下に杖
を突く音がかすかに響く。
 今日は、寒いな…もう夏も近いのに、雨がふってるせい?
 お医者様のとこには、手洗い場の前を抜けていくのが一番早い。
 雨の日は滑って危ないから、通っちゃ駄目なんだけど、まぁ、いいやと思った。

 そこに…あの人がいたんだ。
「君は…瀬恋くん………だったかな?」
 冷たい視線…ゾクゾクする。それは、紛れもない悦びだった。

 ねぇ…どうすれば、あなたは、ボクを苛めてくれる?
 いつも、灰音の前だから、優しい人ぶってるでしょう?
 見えるんだよ、ボクには。あなたの中の黒い魔物が…………

「死にそこないクンの『おにーちゃん』でしたっけ?」
 くすくす笑いで応酬する。
 あなたの顔色、目の色が変わるのが、楽しくてしょうがない。
 凶暴に荒れ狂ってよ…ねぇ、ボクを苛めて…


 その人の反応は早かった。
 花を生けるために持ってきていたらしい花瓶の水が、ボクに投げかけられる。
 ボクは滑りそうになる松葉杖に体重を掛けて身体を支える。
 冷たい水…あの人の視線の温度と同じ…冷たい水…

「ほんとのこと言われて怒った?…ねぇ…灰音はあなたと一緒の時に事故にあったんでしょう?」
 あなたの傷を抉ってあげる。
 だからあなたは、ボクに恥辱を…屈辱を頂戴…

 にこりと笑いかける。
 表情の凍りついた彼の顔。

 次の瞬間、彼はボクの松葉杖を蹴り倒してきた。
 高い音を立てて、床を滑っていく松葉杖…水溜りに倒れこんだボクには手の届かない場所まで
転がっていく。
 床に叩きつけられた痛みと、また、ずきりと痛むおなか。
 顔をしかめたボクに、彼は、手洗い場に備え付けのホースから水を浴びせてくる。

 彼の顔は無表情だった。
 それが、ボクにはサイコーに嬉しい。
髪も、パジャマもグチャグチャの濡れて滴り落ちる水が、体温を奪っていく。

 長い指がボクの首に掛かる。絞め殺してくれる?
 でも、あっけなくていやだな…もっと辱めてよ。


気がつくと、ボクは何も着ていなかった。
 手を、濡れた布で縛られていて、口には、猿轡が咬まされている。

 目を開くと、冷たく見下ろす彼の顔…
 手には、ホースが握られたままだ。
「………瀬恋クン…君は、おいたが過ぎたね…」
 冷たく、冷たく笑う彼。

 冷やりとした・・・体温の低い手が、ボクの片方しかない足を持ち上げる。
 歯が噛み合わない…寒さのせい?それとも恐怖?
 だけど、ボクは興奮していた。
 何をされるか分からない、この冷たい時間こそがボクの望み…


 ボクがまだ、低学年で足があった頃…近所に住んでいたオジサンに廃屋に連れ込まれて、
滅茶苦茶にされたことがあった。色々と、いわゆる辱めの類をされたけど、今、思い返すと
ボクは、それが嫌じゃなかったんだ。
身体の…本来は老廃物を外に排出する部分から入れられた冷たい液体の温度。
 押さえつけられて動けなかった新しいランドセルのボク。
 冷えて、叫ぶ…自分の意思に逆らう、はげしいおなかのいたみ…
 排泄を見られる恥ずかしさ…甘美な恐怖…
 はっきりと覚えてるんだ。

 あの今はもうない…廃屋の中のすえた空気と、舞い上がるほこりが細い光を乱反射して…
きらきらしていた現実感のない光景と一緒に覚えてる…


 こういうの、何か聞いたけどむつかしい名前が付いてったっけ…自分を汚した人を愛して
しまう精神病なんだって誰かが言ってた。
 ボクはそのオジサンが好きになってたんだ。
 もう四年以上前のことなのに…
 忘れたかったけど、駄目だったよ。

 でも…あなたに逢ったんだ。
 あのオジサンと似た目をしているんだ。あなたは…
 狂った黒い獣を飼っている…沈んだ瞳。

 灰音が羨ましい…ボクの欲しかったもの…全部もってる…男の子…
 冷たいものが当てられる感覚に我に返ると、まだ水の滴るホースを、彼がボクのおしりに
押し当てていた。
 穴に指を掛けると、広げるようにして押し込まれてくる薄緑のビニールの質感。
 引き裂かれるみたいな痛さに身体が震えると、その人はボクが怖がってるとでも思ったの
かニヤリと笑って「灰音をいじめたお仕置きだよ」と、耳元に囁いてきた。

 の・ぞ・む・と・こ・ろ・だ・よ!!

 心の中で言い返す。
 ひどくしてよ…滅茶苦茶に汚してちょうだい。

 彼は、水道の蛇口をひねった。
 冷たい水が、入ってくる…
 競走馬と同じ扱いか…楽しいかも。

 おなかは段々冷えていくのに、ボクの頭の中は、冷静なまま…
 恐怖すら感じない…

 おなかの中に水が溜まっていく。
 少しずつおなかが変に張ってきて…ねぼけた焦点の定まらない痛みが、かすかにおなかの
奥に溜まっていく。

「………う…ぁ…」

 鳩の鳴き声のような音がして、腸がうごき出す。
 弱いけど繰り返す波のある…ムラの激しい痛み。
 次の瞬間、その人は、ホースを引き抜いて、おしりに栓をしてきた。
 視界の隅でみた栓の正体は…ボクの松葉杖だった気がする。

どれくらい、そうしていただろう。
 ゆるい痛みは、正体を現して、おなかが悲鳴を上げる。
 痛いのに…苦しいのに…
 ボクは、頭の中で冷静だった。


 駄目なんだ…
 忘れようとするほど自覚してしまう。
 代わりなんていないんだ…ボクに甘美な恥辱を教えてくれたオジサンは…
 ボクはバカだ…
 逃げられないんだ…

 ボクはあのとき…オジサンを殺した…ん…だから…


 激しいおなかの痛みに、小さかったボクは暴れて…図画工作の授業で使ったハサミを投げつけた。
 ハサミはオジサンの首に当たって…頚動脈を絶った。
 血に染まるオジサンがぶつかって倒れてきた腐った柱。

 落ちていた梁がボクの足に当たって…


 茶色と赤の水溜りに座り込んだボクを、パパとママは病院に預けて…そのまま、二度と来なかっ
た。ボクは人殺しで…汚れているんだから。
 ケーサツにつかまらなかったってことは、ボクの正当防衛は認められたんだと思う。
 だけど…もうボクは誰にも愛してもらえないんだってことは分かる。
 せめて、オトナになりたかった。
 一人で生きて行けるように…


 自覚した途端、遠いものだった痛みは、内側からボクを襲う魔物に変わる。
 おなかはきしむように痛んで、排泄できないものが、出口を探して叫びを上げて…現実に引き戻
される。
 心の痛みよりは楽だったはずの痛みが、その人の視線に、凍り付いて、ボクを切り裂く幻想に捕
らわれる。


 ボクは囚人なんだから…罰を受けなきゃいけないんだ…


 心のどこかで、僕自身の声がする。
 罰は痛みのこと?
 それとも、憧れた人に大切な相手がいたこと?
 こんな、惨めな方法でしか、注目してもらえない寂しさ?

 遠く遠く叫ぶ、自問自答。
 それは、おなかのなかがドロドロした闇に支配されて、はじけ飛びそうな意識を、止めておこう
としてるから…

 あのとき、少なくとも…オジサンはボクを「好き」だって言ってくれた。ボクがボクを好きだっ
た人を殺した。


 それが事実で真実。


 今ボクの縛った手を押さえつける、整った手の温度は冷たくて…
否応無しにリノリウムの床と同じくらいにボクの体温を奪っていく。
 それが、おなかの痛みに拍車をかけて、ボクは思わず呻いた。


 普段は、ボクに自由を与えてくれる松葉杖が、ボクの身体の生理的
欲求の一つを妨げる。
 苦しい…
 額を冷たい汗が伝う。

 苛めて欲しい…その思いは、ボクの中の懺悔。
 身体の中から出せない汚いものは、汚いボクの心と同質?

 栓をされた身体は…あのときから動き出せないボクの…ボク自身
にはお似合いなのかも知れない…

 もう、考えがまとまらなくなってきた…

 身体の中を走る痛みが…ボクの心の汚い弱さを見せてくるんだ…

 ボクが望むこと…


 ダレカ ボクヲ アイシテ クダサイ…


 抜いてもらえない栓が、知りたくなかったボクの心を暴く。

 なんだ…そうだったんだ…
 知らずに涙がこぼれた。
 何だ…ボク、オトナになんてなれてないじゃないか…
 結局…結局……

 ボクは愛されたかったんだ


「分かったかい?」

 唐突にその人の表情が代わる。
 身体の栓をしていた松葉杖が、引き抜かれる。
 おなかの中から、温まった水がドロドロ流れ出してくる。それは、ボクの片方だけの足を
濡らして汚しながら…床に汚れた水溜りを作る。

 きしんで痛む腸はそれでもなお、おなかの中身を吐き出す。
 ボクは、もう、何も言う気はなく…
 気付いてしまった、心の闇に……
 泣く事しか出来なくて…


 ただ、突然変わった、その人の表情だけが、ボクを留める。
 優しい顔…優しい声……
 なんで?
 目が、醒めると…その人がボクの髪を撫でてくれていた。

 そして、驚いた…
 彼はお見通しだったんだ。
 ボクのこと…全部……


「灰音に付いて、色んな病院を回ったからね…キミみたいに、過去につらい目を見て、それから
逃れようと全力で大人になりたがるコたちは何人か知ってるんだ」
 かすかに、笑って、彼は続ける。
「わざと、嫌われるような行動取ってるから、気になってね…聞いてみたんだ。キミの過去を」
 冷たい顔も、わざとだったらしい。
 …………やっぱり、ボクは、まだ子供だったんだろうか・・・
 そう聞くと、「子供でいいんだよ。キミはまだ十歳だろ?」と簡単に返された。


 完敗……


 悔しがるボクに、笑いかけて、彼はひらりと手を上げて去っていく。


 そして、思い出したように言う。
「…瀬恋君、キミは可愛いよ……」
 彼の目の中の魔物がボクに笑いかける。
「今度は合意で…苛めさせてくれると嬉しいな」

 ………忘れさせてくれるかな?彼なら…
 身体から出て行った汚いものと一緒に、ボクの中の葛藤も彼は外に出してくれたのかもしれない。
「………いいよ…いっぱい苛めて…」
 ボクはきっと、オジサンを殺して以来…初めて心から笑いを返せた。

                                   fin.