涙珠 〜なみだ〜 




 僕が花束を持ってお見舞いに行くと、彼は大きなアーモンドがたの薄い水色の瞳を諦め切ったように伏せて、寝台に横たわっていた。
 淡い栗色の髪がふわりと人形めいた白い顔を縁取り、細い身体はひどく病的でまるで目を離した隙に白いシーツに溶けていなくなってしまうんじゃないか…という錯覚に襲われる。

 彼は僕の幼なじみで灰音(はいね)という。小さいころから身体が弱くて、しょっちゅう熱を出しては寝込んでいるような子だったけど、優しくて綺麗な彼が…僕は大好きだった。なのになぜ…彼はこんなことになってしまったのだろう・・・

 外で思い切り遊ぶこともなく…彼は半身不随になってしまったのだ。



 それはたった一度だけ、お医者さまの許可が出て、外に遊びに行った日のこと…
 横断歩道の手前で信号が変わるのを待っていた僕達目がけて、居眠り運転の車が突っ込んできたのだ。
 僕は電柱の影にいたことで掠り傷で済んだけど…緑色の軽乗用車は灰音の細い身体を跳ねとばして…彼の脊椎を壊してしまった。
 灰音にとって楽しい思い出になるはずの時間は…一瞬にして、僕達にとっての悪夢にかわってしまったのだ。
 それでも灰音は泣き言一つ言わず…年より遥かに幼く見える小さな顔にほほ笑みを浮かべて誰を恨む事無く、静かに事実を受け入れていた。
 そう…傍にいたのに守れなかった僕に『だいじょうぶ』と笑い掛け…泣きたくなるくらいに透明な笑顔で『おにーちゃんにケガなくて良かった…』と
 心底嬉しそうに血の気の抜けた顔で…それでも一点の曇りもなく微笑んでくれたのだ.


 もう、自分で立つことも出来ない灰音は、今、全てをお医者さまと看護婦さんに頼って生活している。それでも、灰音の身体は衰弱して、もう長くはない…そうだ。
 毎日、薬や点滴を増やして、灰音の白い細い腕には、消えない針の痕が増えていく。


 灰音は、そこまで頑張っていたのに…とうとう代謝機能まで自力では作用しなく
なってしまっているのだと…灰音のお母さんは、泣きはらした目で、僕に教えてくれた。
 だから、僕は、残り少ない灰音の人生の思い出をせめて寂しいものにしないために、毎日病院に通った。


 その場面を見てしまったのは…調度そんな時だった…


 病室に入ると、灰音は真っ青な顔をしてお腹を抑えていた。
 かみ締めた唇に血が滲み、痙攣したように身体が震えている。
「灰音、どうしたんだよ!?」
 声をかけると、灰音は、血の気のない顔で小さく「…い…たい…」と呟いた。苦しそうに潜められた眉に色素の淡い髪が影を落とす。
「お医者さまは…ナースコールはどこだ、灰音」
 そう聞くと灰音は、弱々しく首を振って「ちがうの…発作じゃないの…」と泣きそうにささやく。

 灰音のお腹が、子猫が喉を鳴らすように小さく鳴る。
 灰音はいっそう青褪め、身体を抱きしめるようにして苦しげな息をしている。
 僕は、灰音を抱くようにして、身体を摩ってやった。
「……おくすり…飲んでるの……」
 ぽたぽたと大粒の涙が灰音の頬を滑り落ちる。
 その言葉で、思い出した。
 もう、灰音の身体は、新陳代謝機能が狂っていて、投薬で機能させていると聞いた。
 そしてそれは…排泄機能もそうなのだろう…
「おいしゃさまも、かんごふさんも、急患さん来たからいないの……」
 言っている間にも、灰音のお腹は獣が唸るように重たい音を立てる。

 多分、灰音に飲まされているのは下剤。
 普段ならお医者さまか看護婦さんがトイレに連れて行ってくれるのだろうが、途中で急患がはいったため、皆、出払ってしまったということなのだろう。

「トイレ、連れていこうか?」
 そう聞いてみたけど、灰音は小さく首を横に振った。かすかに上げられた右手には、点滴チューブが刺さったままだ。これでは動かせない。
 灰音のお腹がいっそう大きな音を立てる。
 痛そうだなと思う。苦しそうだなと思う。
 灰音を苦しめる、身体の中の異物が暴れまわる叫びが、僕の耳にもはっきりと聞こえて…眼下の小さな身体を蹂躙する苦しみに、必死に逆らっているのが痛々しくて…何とかしてやりたかった。
 だけど、生理的欲求に逆らい、儚い抵抗を続ける灰音を見るうちに…僕の中に信じられない薄情な気持ちが芽生えるのに、気がついた。


 見てみたい…と思ったのだ。
 灰音が生理に負け、堕ちる姿を…


 嗜虐性をそそる,弱々しい灰音。
 また、大きく鳴るお腹に、灰音は身をよじって苦しみから逃れようとするかのように、大粒の涙を零した。

 でも、灰音…その苦しみは、そんなことじゃ終らないんだよ………


 僕は、自分の心の奥の魔物に従うことにした。
 なるべく、普段道理の声で、勤めて優しく、灰音に囁く。
「灰音…ここでしなよ…」
 苦しげな息の下から、灰音は信じられない言葉を聴いたというように、僕を見上げてくる。
「……やぁ…だぁ………」
 その瞬間また、灰音のお腹が激しく自己主張をして、灰音は小さな身体を竦ませる。
 小さく首を振って否定の言葉を返してくる灰音の髪を撫でて、僕は、畳み掛けるように、言葉を続ける。
「灰音、君の身体は老廃物を溜めれば溜めるほど、弱っていくんだよ」
 それでも、灰音は、小さく震えて「…でも、みんなに…めいわくかけるもの…」と、小さく嗚咽する。
「ぼく…もう…こまらせるのいやだよぅ・・・」
 切れ切れの泣き声、硬直させた身体…こんなときまで灰音は他人を優先する。


 そっと手を伸ばして、僕は灰音のお腹を擦る振りで、少しずつ白い身体に体重を掛けながら囁いた。
「灰音、体調が悪化して、病気が進むほうが、皆に迷惑を掛けるぞ」
 もう、何も喋れずに、冷や汗をかいて震えている灰音の、お腹を軽く押して、僕は、とどめの一言を、告げた。


「僕は、灰音の病気が悪くなるほうが、嫌だよ。」
 そして、強めに体重を掛けた、その瞬間だった。


 壊れるような、不穏な音がした。
 硬直する灰音の、パジャマの色が変わっていく。
 限界だったのだろう。ベッドに茶色の染みがひろがった。
 匂いは、灰音が動物性淡白質を取れないためにそんなにしないけど…それは、いわゆるお漏らしだった。


 もう、灰音は泣くだけだった。
 それでも灰音の腕には細い点滴チューブが止められていて、ベッドからは動かせない。
 泣いている灰音が、何か言っているのに気付いて、耳を凝らす。
「嫌いにならないで…おにーちゃん・・・」


 その瞬間、僕はひどい罪悪感に刈られた。お漏らしする灰音をみて、僕は実は悦んでいたからだ。とにかくなんというか…綺麗だったのだ。
 顰められた眉も閉じられた目を縁取るうるさいほどの睫も白い顔も…茶色く汚れていく身体も…

「汚い子だけど…きらいにならないで…」

 ぼろぼろと涙を零す、灰音の頭を撫でてやると、僕は、シーツをとりかえて、パジャマを着替えさせてやった。
 泣きつかれて眠ってしまった灰音を病室に残して、ドアを出るとき、僕はつぶやいた。


 灰音…君は汚くなんてないよ……
 むしろ、その光景をもう一度見てみたいなんて…
 心の中で思っている僕のほうが・……ずっと汚い………
                         fin