世界の中央。
-究極の自己中心の価値観-
まあ、反論はあるかもしれませんが、
たとえば、今話題になってる安倍総理。
安倍総理のミスだの失態だの、辞任だのが、
よく問題になってますが、
(以下のお話は彼がメディアの言う通りだったと仮定して)
思うに彼個人の責任ではなく、
国民全てにも責任があるんじゃないかって思う時もあります。
彼のやり方に無責任だというヒトもいますが、
その彼を選んだのは国民だと思う。
自分は違うヒトに支持したとかも理由にならないと思う。
日本のシステムの運営結果により彼が総理に選ばれました。
そのシステムに対し、反乱を起こさず、沈黙を取る以上は、そこから導かれる結果にも、それを1つの結果として迎え入れるということでしょう。
それは未成年もそうだと思う。
例えば選挙であるならば、未成年に投票権がないというシステムに対し沈黙を取る以上は、そのシステムに対し肯定しているのだと思う。
システムを肯定している以上は、システムにより出た結果の責任は、肯定している全生物にあるのではと思います。
行動には当然、責任がついてきます。
では、行動をとっていないものに責任がないかというと、そうでもないと思う時はあります。
沈黙は肯定、この言葉を乱暴というコもいました。
仮に黙っていただけ、見ていただけの者に責任なんかないという人がいるなら、それもよいでしょう。
その代わり、責任がないのなら、また同時に幸福になる権利もなさそうです。
この場合の権利っていうのは法的な権利のことではなく、精神論のお話です。
多くのニンゲンは、
自分が世界の中心であることを忘れています。
誰が何と言おうが
多くの人の各々の認識は
自分を中心に東西南北上下左右に広がっているでしょう。
なのに、それを忘れている。
もちろん、自分の位置を三次元的な座標において、原点(0.0.0)とする「証拠」もまたないわけですが。
自分が世界の中心じゃないと気づくことを
「大人になる」という方がいますが、
それは弱い大人でしょう。
頑なに理想を信じ、
決して戦う勇気を忘れず
見聞きした情報を鵜呑みするのではなく
借り物の思考ではなく、
自らの意思で決断実行してこそ――
いや。
生き方は人それぞれでした。
これはりりっこの信じる理想であり、
幸福に至る道は、それぞれ個人ごとに見つけていくことでしょう。